静かな朝の知らせ
儀式の疲労は、思っていた以上に深く残っていた。
レイが目を覚ましたとき、神殿の客間は静まり返っていた。
窓の外は薄く白み、石造りの部屋には雲にやわらげられた明るさが広がっている。
木の机には、水差しと小さな杯。
壁際には剣と旅の荷が置かれていた。
レイはゆっくりと身を起こした。
身体が重い。
頭の奥が鈍く痛む。
ずきずきと激しいわけではないが、意識するたびに重たい圧迫感が広がり、頭の芯にまだ熱が残っているようだった。
昨日、星の涙の祭壇で見た光景は、まだ胸の奥に沈んでいる。
母の声。
黒い影。
そして、その影を止めようとしていたリアの姿。
あれを、ただの夢だったとは思えない。
見たことも感じたことも、すべて神官長タニヤには話した。
けれど、リアにはまだ言えない。
今伝えれば、彼女はきっと意味を探してしまう。
自分が何をしなければならないのか。
何を背負うべきなのか。
そう考えてしまう。
そのとき、扉が軽く叩かれた。
「レイ、起きていますか?」
聞こえてきたのは、リアの声だった。
「起きてる」
レイが答えると、扉が静かに開いた。
リアが部屋へ入ってくる。
白と青の巫女服の裾が、窓辺の淡い明るさを受けてやわらかく揺れた。
その後ろから、ミラが顔を覗かせる。
いつもの軽やかな足取りで部屋に入り、レイを見ると小さく手を振った。
「おはようございます、レイ」
リアはそう言って、すぐにレイの顔を見た。
その目が、わずかに曇る。
「……顔色、まだよくありませんね」
「昨日よりはましだよ」
レイがそう答えると、リアは小さく首を振った。
「そう見せようとしているのは分かります。でも、まだ無理をしています」
「……うん。そうだね……」
ミラが机のそばまで歩いてきて、椅子の背に手を置く。
「それで……昨日の儀式はどうだったの?」
問いかけてから、ミラはすぐにレイの顔を見た。
「あ、まあ無理に答えなくてもいいよ」
レイは少しだけ迷った。
何を見たのか。
どこまで話していいのか。
そこを考えただけで、胸の奥が少し重くなる。
ミラはその反応を見て、肩をすくめた。
「気になるけどね。めちゃくちゃ気になるけど」
そう言って、少しだけ笑う。
「でも、まだつらそうだし、その顔で全部話せって言うほど、私も空気読めないわけじゃないし」
その言葉に、レイは少しだけ息を抜いた。
「助かる」
リアも、レイを急かすことはしなかった。
ただ静かに、続きを待っている。
レイは二人を見て、ゆっくりと言った。
「そうだな……何から話そうかな。……ルミナスは、俺を拒まなかった」
その言葉に、部屋の空気が静かに変わった。
リアが胸元で手を重ねる。
「ルミナス様が……」
「タニヤさんは、そう言ってた。ルミナスは応えたって。でも、それが何を意味するのかは、軽く決めていいことじゃないって」
ミラが、慎重に問いかける。
「光の使徒とか、そういう話?」
レイは少しだけ頷いた。
「たぶん、そういう話だと思う。でも、今はまだ外に出すことじゃないらしい」
「外に出すことじゃない……」
ミラが小さく繰り返す。
レイがさらに答えようとした、その時だった。
扉の外に、静かな足音が止まった。
三人が振り向く。
すぐに、落ち着いた声が聞こえた。
「失礼します」
扉が開き、ひとりの女性が入ってきた。
白銀の護衛装束。
長い銀灰の髪を後ろで束ね、腰には細身の剣を帯びている。
背筋はまっすぐで、部屋へ入る動きにも無駄がなかった。
セレスだった。
彼女は三人に一礼し、最後にレイへ視線を向ける。
「神殿護衛隊所属、セレスです」
短く、よく通る声だった。
「神官長タニヤ様より、レイ殿の護衛役として命を受けました」
一拍置いて、セレスは続ける。
「本日より、皆様に同行いたします」
レイは少しだけ驚き、セレスを見返した。
「俺の護衛、ですか」
「はい」
セレスは静かに頷いた。
ミラが少しだけ首を傾げる。
「同行って、何に?」
セレスは静かに答えた。
「光の禁書庫が、レイ殿に応じるかを確かめるためです」
その瞬間、ミラの表情がはっきりと変わった。
「え……?」
軽かった声が、そこで止まる。
「ちょっと待って。光の禁書庫って、あの禁書庫?」
ミラは思わず一歩、身を乗り出した。
「千年、誰も入ったことがないって言われてる場所だよね?」
リアも息を呑んだ。
「はい。神殿に仕える者でも、近づくことすら許されない場所です」
ミラの目が、驚きと興奮の間で揺れる。
「そんな場所に……行けるの?」
その声には、抑えきれない好奇心がにじんでいた。
セレスは静かに頷いた。
「正確には、光の禁書庫がレイ殿に応じるかを確かめます。扉が開くかどうかは、まだ分かりません」
ミラはレイを見る。
「でも、可能性はあるってことだよね」
レイは小さく頷いた。
「そういうことだな」
リアは胸元で手を重ねたまま、静かにその言葉を受け止めていた。
部屋の空気が、先ほどよりも引き締まった。
セレスは改めて言葉を継ぐ。
「昨夜の円卓会議にて決まりました。神殿は、レイ殿を光の使徒として認めています」
部屋の空気が、静かに張り詰める。
セレスは続けた。
「ただし、その事実は秘匿されます。外へは、光承の儀を受けた特別保護対象として扱う方針です」
リアは、ゆっくりとレイを見た。
「レイが……光の使徒として……」
レイは静かに頷いた。
光の使徒。
その名が何を意味するのか、まだすべてを分かっているわけではない。
けれど、光の禁書庫が自分に応じるかもしれないのなら、確かめたい。
「分かった。行こう」
セレスは続ける。
「同行者は、レイ殿、リア殿、ミラ殿。そして護衛として私です」
「私も……ですか」
リアは驚いたように目を瞬かせた。
「はい。巫女としての補佐が必要と判断されています」
リアは一度目を伏せ、静かに息を整えた。
「分かりました」
その声には緊張があった。
けれど、それ以上に、役目を受け止めようとする強さがあった。
「光の禁書庫がレイに応じるのなら……私にできることがあるなら、巫女として力になりたいです」
セレスは小さく頷いた。
「そのための同行でもあります」
リアは静かに頷いた。
「はい。巫女として、お役目を果たします」
ミラは腕を組んで、小さく息を吐いた。
「そっか。私も行けるんだ」
その声には、安堵と緊張が混じっていた。
「正直、置いていかれたらどうしようかと思ってた」
セレスはミラへ視線を向ける。
「ミラ殿には、星刻文明の記号や構造を読み取る素地があると判断されています」
ミラは、ほんの少しだけ口元を上げた。
「なるほど。ちゃんと役に立てってことね」
「頼りにしてる」
レイが言うと、ミラは頷いた。
「いいよ。望むところ」
いつもの軽さはある。
けれど、その奥には確かな熱があった。
ミラにとっても、星刻文明や星の涙を模したものは他人事ではない。
影の動き。
ノースライトで見た遺構。
消えた師の行方。
それらが、彼女をここまで連れてきている。
ミラはレイを見て、少しだけ声を柔らかくした。
「そのうち、落ち着いたら聞かせてよ。星の涙の祭壇で何が起きたのか。ルミナスがどう反応したのか」
レイは頷いた。
「うん。俺も、ちゃんと整理しておきたい」
リアはレイのそばに立ったまま、静かに言った。
「タニヤ様から、今日は休むようにと伝えられています」
「今日一日?」
「はい。少なくとも、今日は無理をしないように、と」
ミラが笑う。
「神官長命令だね」
「それは逆らえないな」
レイがそう言うと、リアも少しだけ微笑んだ。
張りつめていた空気が、ほんの少しほどける。
セレスは扉の近くで、静かに頷いた。
「私からも同じ判断です。レイ殿は、今日は休まれるべきです」
その声音は淡々としていたが、そこに冷たさはなかった。
「分かりました。今日は大人しくしています」
レイがそう答えると、ミラが少しだけ口元を緩めた。
「珍しく素直だね」
「神官長命令だからな」
そのやり取りに、リアが小さく笑う。
レイも、つられて少しだけ笑った。
儀式の後、胸の奥に残っていた重さが消えたわけではない。
母のこと。
黒い影のこと。
リアの未来のこと。
禁書庫のこと。
どれも、簡単に片づくものではなかった。
それでも、こうして誰かが部屋に来て、当たり前のように言葉を交わしてくれる。
そのことが、今は不思議なほどありがたかった。
ミラは椅子に腰を下ろし、机の上の水差しを見た。
「なら、私はここで少し話しててもいい?」
「ああ。いいよ」
「ちょっと雑談でもしよ」
「その言い方だと、絶対何か聞く気だろ」
「少しくらいはね」
ミラはそう言って肩をすくめた。
レイが苦笑すると、ミラは悪びれずに笑った。
セレスは扉の近くに立ち、静かに部屋の様子を見ている。
警戒しているというより、全体の流れを測っているようだった。
リアは窓辺へ歩き、白く曇った外を見つめる。
「今日は、神殿がいつもより静かに感じますね」
その声に、レイも窓の外を見た。
中庭には、朝の祈りを終えた神官たちの姿がまばらに見える。
水盤の縁に落ちた小さな葉が、ゆっくりと水面を滑っていた。
その動きだけが、静かな時間の中でかすかに揺れている。
穏やかな朝だった。
けれど、その穏やかさの下で、何かが動き始めている。
レイはそれを、もう知っている。
それでも今は、少しだけこの時間に身を寄せていたかった。




