神殿円卓会議
その夜。
アストラリス神殿の奥にある円形の会議室には、重く静かな空気が満ちていた。
厚い石壁には星の紋章が刻まれ、天井の高みでは青白い結晶灯が淡く揺れている。
中央には古い円卓が据えられ、その周囲に上位神官たちが席を取っていた。
外の祈りの声も、巡礼者の足音も、ここまでは届かない。
神官長タニヤは、円卓の正面に座っていた。
濃紺のローブの裾が床に静かに広がっている。
昼間、レイの前で一瞬だけ祖母としての情をのぞかせたタニヤは、今はもう神殿を統べる者の顔に戻っていた。
沈黙を破ったのは、白髭を胸元まで垂らした老神官ベルナードだった。
「神官長殿。本日、光承の儀を行ったということは確かですかな」
低く、慎重な声だった。
だが、その奥には明確に問いただす響きがあった。
光承の儀。
その名が口にされた瞬間、会議室の空気がわずかに重くなる。
「光承の儀が行われたなど、この百年、記録にはございません」
「ましてや、星の涙の祭壇を閉じ、結界を張り、上位神官への通達も事後となった」
「神官長殿。なぜ、そこまで急がれたのです」
誰も口を挟まなかった。
青白い結晶灯の光が、円卓の上を淡く滑る。
タニヤは、静かに頷いた。
「急ぐべきだと判断した」
短い言葉だった。
細い目をした神官マルクが問いを重ねる。
「理由を伺いましょう」
タニヤは円卓に集まる者たちを見渡した。
「レイという少年の光の適性は、尋常ではなかった」
その言葉に、室内の空気がわずかに揺れる。
「初めて会った時点で、すでに兆しはあった。あの者の周囲には、通常の加護とは異なる光の流れがあった」
タニヤの声は、少しも荒げられていなかった。
それでも、その場の誰もが口を挟めなかった。
「光の循環が、あの者の持つ石を中心に渦を巻いていた。そして、その流れはレイ自身へ向かっていた」
ベルナードの眉が、わずかに動く。
「石……?」
「星の涙と同様の輝きを放つ欠片だ」
ざわめきが、円卓の周囲に広がった。
「星の涙と同様の……?」
「そのようなものを、あの少年が?」
タニヤは続けた。
「ノースライトで星刻文明の遺構に触れ、星の涙を模したものと裂け目にも関わった。影の動きもある。さらに、光の星の涙はあの欠片に反応した」
そこで一度、言葉を切る。
「放置すれば、光の流れが乱れる可能性があった。逆に、正しく確かめれば、ルミナス様の意志を測れるかもしれぬ」
タニヤは、静かに言った。
「だから、光承の儀を行った」
室内に沈黙が落ちる。
マルクが低く問う。
「結果は」
タニヤは間を置かずに答えた。
「ルミナス様は、レイに応えた」
再び、ざわめきが走る。
「応えた……?」
「拒まれなかっただけではなく、ルミナス様が自ら応じられたということか」
「では、光の使徒と?」
その言葉が出た瞬間、空気が一段重くなった。
タニヤは視線を上げる。
「本日の光承の儀において、ルミナス様の加護は明確に反応した。儀に用いた水晶球も、レイの持つ欠片も、光の星の涙と強く共鳴した」
タニヤは静かに続ける。
「光の循環は、あの者を中心に整い始めている。ルミナス様はレイを拒まなかった。それだけではない。あの者を、光の流れの中へ受け入れた」
ベルナードは、静かに息を吐いた。
「……では、神官長殿は、あの少年を光の使徒と判断されたのですな」
「そうだ」
タニヤは頷いた。
「私は、レイを光の使徒と判断している」
その言葉に、円卓の空気がどよめいた。
百年途絶えていた光承の儀。
光の星の涙の反応。
星の涙と同様の輝きを放つ欠片。
そして何より、ルミナス様がレイを受け入れたという事実。
そのすべてが揃った以上、神殿が目を背けることはできない。
マルクが、低く言った。
「では、その名はどのように扱われますか」
円卓の空気が、わずかに冷えた。
光の使徒。
その名が神殿の外へ漏れれば、巡礼者も、地方神殿も、貴族も動く。
騎士隊の中にも、余計な波が立つだろう。
そして何より、影が動く。
タニヤは静かに頷いた。
「その判断は、この場に留める。外へは、光承の儀を受けた特別保護対象として扱う」
ベルナードが目を細める。
「名を伏せるのですな」
「そうだ」
タニヤは答えた。
「今はまだ、あの者にその名を背負わせる時ではない」
そこで、別の上位神官が口を開いた。
「その少年の出自は、やはり不明なのですか」
タニヤの指が、円卓の上でかすかに止まった。
だが、その表情は変わらない。
「私が確認している」
「それは、神殿として受け入れられる出自なのですかな」
マルクの声には、わずかな警戒が混じっていた。
タニヤは彼を見た。
「出自だけを見れば、確かに慎重であるべきだ」
その声は静かだった。
「だが、それ以上に重いものがある」
円卓の空気が、わずかに張り詰める。
「レイの光の適性は、尋常ではない。そして何より、ルミナス様があの者を受け入れた」
タニヤは、ゆっくりと言葉を置いた。
「光の星の涙が反応し、加護の流れがあの者へ向かった。その事実を、神殿が軽んじることはできぬ」
マルクは口を閉じた。
反論はあったのだろう。
だが、ルミナス様の名が出た以上、この場でそれを否定することはできなかった。
ベルナードが静かに息を吐く。
「……出自のみを理由に退けることはできぬ、ということですな」
「そうだ」
タニヤは頷いた。
「だからこそ、保護する。そして、見誤らぬよう慎重に扱う」
タニヤは続けた。
「もう一つ、報告がある」
室内の空気が、再び引き締まる。
「レイは、光承の儀の中で未来のような光景を見た」
「未来……?」
「確かな予言ではない。だが、無視できぬ」
タニヤの声は低くなる。
「崩れた建物。弱まった光。黒い影。そして、その場に巫女リアの姿があった」
その名に、数人の神官が目を動かした。
「その光景は、ルミナス様が見せた警告やもしれぬ」
円卓に、重い沈黙が落ちる。
リアは、まだ若い巫女である。
だが、その適性と信仰の深さは、すでに上位神官たちの耳にも届いていた。
巡礼者への応対、加護への感応、祈りの正確さ。
何より、彼女が紡ぐ光の結界は美しく、精度も高い。
そこに宿る光の純粋さは、同年代の巫女たちの中でも抜きん出ていた。
ベルナードが、慎重に口を開いた。
「あの子か……」
マルクも目を細める。
「若いが、近年の巫女の中では確かに目を引く資質があります」
「だからこそだ」
タニヤは静かに言った。
「今の段階で、幻視の詳細を本人に伝えるべきではない。聞かせれば、あの子は意味を探す。自分が何をすべきかを考える。そして、必要以上に背負おうとする」
「この件は、この場限りとする。リア本人にも、下位神官にも、護衛隊にも不用意に漏らしてはならぬ」
ベルナードが頷いた。
「承知しました」
タニヤはゆっくりと視線を巡らせた。
「ゆえに、光の禁書庫がレイに応じるかを確かめる」
その一言に、会議室の空気が明らかに変わった。
「禁書庫……」
「千年閉ざされた、あの場所を?」
「神官長殿、それはあまりにも――」
マルクが声を強めかける。
タニヤは静かに遮った。
「承知している」
「禁書庫はただの書庫ではない。神殿は封印を守ってきただけであり、中に何があるのかを知る者はいない」
結晶灯の光が、円卓の上を淡く滑った。
「そもそも、こちらが開こうと望んだからといって開く場所でもない。禁書庫が応じなければ、扉はただの封印であり続ける」
上位神官たちは、誰も言葉を挟まなかった。
タニヤは、さらに続けた。
「だが、レイは光承の儀の中で、ルミナス様より加護とは違う、ある形の光を授かっている」
「加護とは違う……?」
「ある形の光、ですか」
「儀の中で授かった、と?」
ベルナードが眉をひそめる。
「それは、どのようなものです」
「鍵のようなものだ」
タニヤは静かに答えた。
その一言に、会議室の空気がはっきりと変わった。
「鍵……?」
「禁書庫の……?」
ざわめきが、円卓を低く巡る。
タニヤは首を振った。
「断定はできぬ。私にも、それが何であるかは分からない」
そして、ゆっくりと言葉を置いた。
「だが、千年閉ざされた禁書庫の名が動いたこの時に、ルミナス様がレイへ鍵のような光を残された。その意味を、神殿が見過ごすことはできぬ」
誰もすぐには答えなかった。
禁書庫は、こちらが望んで開く場所ではない。
千年、封印の向こうにあり続けた場所。
その扉へ至る何かを、ルミナス様がひとりの少年へ託したのだとすれば、レイを禁書庫へ向かわせることは無謀ではない。
むしろ、導きに従うことでもあった。
ベルナードが、静かに息を吐いた。
「……ルミナス様が導いておられる、ということですな」
「そう見ている」
タニヤは答えた。
「だからこそ、確かめる」
タニヤの声が、少しだけ低くなる。
「それに、今は見過ごせぬ兆しが多すぎる」
「辺境では、異獣の出現が増えている。これまで外縁に留まっていた獣が、街道近くにまで降りてきたという報告もある」
それは彼らも聞いていたことだった。
「さらには加護の揺らぎ、各位相の乱れ。各地では小さな災いが増えているとも聞く。まだ一つ一つは小さく、確かな原因も見えぬ」
タニヤは、円卓に集まる者たちを見渡した。
「それだけではない。星刻文明の遺構。星の涙を模したもの。星の裂け目。レイが見た黒い影。悪しき兆しは、確実に数を増している」
円卓の空気が、さらに重く沈んだ。
「世界の流れが、どこかで歪み始めている」
タニヤは、静かに言葉を続けた。
「ならば、我らは知らねばならぬ。何が起きているのか。どうすれば、この歪みに対処できるのか」
その声は、低く、揺るがなかった。
「光の禁書庫に、今の我らが失った知識が残されているのなら、それを確かめる必要がある」
タニヤは、わずかに目を伏せた。
「そして、ルミナス様がレイを禁書庫へと導いておられるのなら――そこに、答えがあるやもしれぬ」
誰も否定しなかった。
否定できなかった。
やがてベルナードが、深く息を吐いた。
「……承知しました。神官長殿のお考えは理解しました」
そこで、ベルナードはわずかに表情を引き締める。
「では、レイに誰を帯同させるのです」
タニヤは答えた。
「ミラ」
その名に、円卓がわずかに揺れた。
「ミラ……?」
「レイと行動を共にしている、あの旅の娘ですか」
「神官ではありませんな」
マルクの目が細くなる。
「あの娘も、ノースライトの遺構にいたと聞いております」
タニヤは頷いた。
「そうだ」
「星刻文明。蒼の神機。裂け目。星の涙を模したもの。神殿の誓約を受けていない者が、軽々しく触れてよい名ではない」
「ならば、なおさら入れるべきではない」
マルクの声は硬かった。
タニヤは静かに返した。
「神殿はこの千年、禁書庫の封印を守ることを優先してきた」
その言葉に、円卓の空気がわずかに沈む。
「星刻文明の名を知る者はいても、その記号や構造を実際に読み解ける者は、今の神殿には残っていない」
誰もすぐには反論しなかった。
それは、この場にいる者たち自身がよく分かっていることだった。
タニヤは続ける。
「ミラはすでに、レイと共に遺構を見た。星の涙を模したものにも触れ、影にも遭遇している」
「そして何より、星刻文明の記号や構造を読み取る素地がある」
タニヤは、円卓に集まる者たちを静かに見渡した。
「形式だけの神官を帯同させるより、実際に読み解く力を持つ者を連れていくべきだ」
ベルナードが、低く息を吐いた。
「……神殿の者よりも、あの娘の方が適任だと」
「少なくとも、今の我らが見落とすものを見る可能性はある」
しばらく、誰も口を開かなかった。
千年閉ざされた記録。
星刻文明の残した痕跡。
神殿が封印の奥へ遠ざけてきた知識。
それらを前にして、今の神官たちがどれほど役に立てるのか。
その問いは、この場の全員が避けてきたものだった。
やがてベルナードが、静かに頷いた。
「……分かりました。ミラの帯同について、認めましょう」
マルクはなおも不満を残していたが、言葉にはしなかった。
ベルナードは続ける。
「他に帯同者は」
タニヤの瞳が、わずかに揺れた。
だが、それは一瞬だった。
「リアを同行させる」
その答えに、何人かが息を呑んだ。
マルクがすぐに言う。
「巫女リアを、ですか」
「先ほどの幻視に、その名があったのでしょう」
円卓の空気が、わずかに重くなる。
「ならば、むしろ遠ざけるべきではありませんか。危険に近づけることになりかねません」
タニヤはすぐには答えなかった。
青白い結晶灯の光が、円卓の上で静かに揺れる。
やがて、静かに口を開いた。
「リアは、レイとルミナス様の加護を結ぶ上で重要な位置にいる。あの子の感応は高く、光の流れの変化を読み取る力もある」
マルクは口を閉じた。
タニヤは続ける。
「そして、レイが見た光景にリアがいたということは、あの子もまた、この流れの外にはいないということだ」
一拍置いて、低く告げる。
「遠ざければ安全とは限らぬ」
円卓に、重い沈黙が落ちる。
「ならば、光の使徒たるレイと共に行動させた方がよい。リア自身の感応も、禁書庫で何かを読み取る助けになるやもしれぬ」
ベルナードが、静かに頷いた。
「……確かに、あの子を遠ざけることだけが守ることではありますまい」
マルクはなおも不満を残していたが、言葉にはしなかった。
その時、タニヤは扉の方へ視線を向けた。
「セレス」
静かな呼び声だった。
扉の傍らに控えていた白銀の護衛が、一歩前へ出る。
長い銀灰の髪を後ろで束ね、腰には細身の剣を帯びている。
セレスは円卓の前で足を止め、胸に手を当てて一礼した。
「お呼びでしょうか、神官長」
タニヤはまっすぐに彼女を見た。
「明日より、レイたちの護衛につけ」
セレスの表情は変わらなかった。
だが、その瞳だけがわずかに鋭くなる。
「レイ殿たち、ですか」
「レイ、リア、ミラ。三名を、禁書庫へ向かわせる」
円卓の空気が、再び静かに重くなる。
タニヤは続けた。
「お前の任は、安全確保と状況判断。そして、必要があれば神殿への報告だ」
セレスは一拍置き、深く頭を下げた。
「承知しました」
短い返答だった。
迷いはなかった。
セレスはそのまま一歩下がり、再び扉の傍らに控えた。
マルクが、低く確認する。
「つまり、レイ、リア、ミラ、セレス。この四名を禁書庫へ向かわせる、と」
「そうだ」
タニヤは短く答えた。
禁書庫に触れることへの恐れは、誰の胸にもあった。
だが、星刻文明の遺構、星の涙を模したもの、裂け目、そして黒い影。
すでに世界は、静かなまま歪み始めている。
やがてベルナードが、深く息を吐いた。
「影も動いている」
タニヤは頷いた。
「だからこそ、こちらも動く」
その一言で、会議室の空気が定まった。
ベルナードが、静かに問いを重ねる。
「では、今後の扱いは」
タニヤは円卓の中央へ視線を落とし、結論を告げた。
「レイを光の使徒と認める。ただし、その事実は神殿内秘匿とする」
「外へは、光承の儀を受けた特別保護対象として扱う」
「光の禁書庫がレイに応じるかを確かめる」
「同行者は、レイ、リア、ミラ、セレス」
「この件は、上位神官のみの秘匿事項とする」
円卓に、異論はなかった。
会議は、それで終わった。
上位神官たちが、ひとり、またひとりと席を立つ。
重い衣擦れの音が、石壁に低く響いた。
千年閉ざされた扉が、本当に開くのか。
そして、光の禁書庫がレイに何を見せるのか。
その答えは、まだ誰にも分からない。
ただ一つだけ確かなことがあった。
神殿は、静かに動き始めた。




