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エテルナ ―星の涙と帰る光―  作者: Takeko
第5章 光承の儀
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母の名と光の標

神官長の部屋へ向かうあいだ、胸の奥にはまだ光が残っていた。


夕暮れの部屋。母の腕。そして、最後に残された言葉。


――戻ったら……ごめんって伝えて……。


その答えは、前を歩くタニヤの背中にある気がした。


扉の前で、タニヤが足を止める。ルミナスの紋章が光り、重い扉が開いた。


「入りなさい」


レイは小さく頷き、部屋へ入る。


午後の光が差し込む、静かな部屋だった。木の机、壁に埋め込まれた青い宝玉、白い石の床に落ちる淡い光。そのすべてが、外の喧騒から切り離されたように見えた。


タニヤは机の向こうへ回り、指先を軽く動かした。壁際に光が走り、遠くの祈りの声がすっと薄れていく。


「光承の儀の後だ。長くは話さぬ」


「……はい」


「だが、今しか確かめられぬことがある」


「俺も、話したいことがあります」


レイは服の下からペンダントを取り出した。


青い石が午後の光を受けて揺れ、壁の宝玉がかすかに脈打つ。


タニヤの視線が、石に落ちた。


「……やはり」


「触れてもよいか」


「はい」


タニヤの指先が青い石に触れる。石の奥で、光がふわりと揺れた。


「……アリシア」


その名が、息のように落ちる。


レイは、その名を知らない。けれど、胸が少しだけ熱を帯びた。


「それが……母さんの名前なんですね」


タニヤはしばらく動かなかった。


やがて、答える。


「そうだ」


青い石の奥で、光が小さく揺れた。


「そなたの母であり、私の娘だ」


レイはペンダントを見つめる。


やっぱり、そうだった。


「アリシアは……生きているのか」


「生きています」


レイはすぐに答えた。


「向こうで、ずっと……俺を育ててくれました」


沈黙が落ちる。壁の宝玉が、淡く光を返した。


「……そうか」


タニヤの声は低かった。


「母さんは、エテルナのことを何も教えてくれませんでした」


「あの子は、そなたをこの世界から遠ざけたかったのだろう」


「でも、このペンダントは大事にしなさいって」


タニヤは青い石を見る。


「それが、そなたを守ると信じていたのだ」


レイはペンダントを握った。


光承の儀で聞いた母の声が、もう一度胸に浮かぶ。


「母さんは……言っていました」


タニヤの目が、レイを捉える。


「戻ったら、ごめんって伝えて、って」


部屋の空気が止まったように感じた。


「あの子が、そう言ったのか」


「はい」


「……そうか」


タニヤはほんの少し息を吐いた。


「あの子らしい」


その声は、我が子を思う、ひとりの母のものだった。


タニヤは窓の方へ目を向ける。午後の光が、白髪の輪郭を照らしていた。


「アリシアは、神殿を離れた」


それからタニヤは、父のことも話してくれた。


アリシアと共に神殿を離れたのは、龍の血を引く男だったという。風の位相に連なる者。神殿の決まりの中には、収まりきらない存在。


その名を、タニヤは口にしなかった。


アリシアがその人を選んだこと。タニヤが神官長として、その選択を認められなかったこと。母としても、最後まで許す言葉を渡せなかったこと。


それだけが語られた。


「だから、あの子は謝ったのだろう」


タニヤは小さく言った。


「母を悲しませた娘として」


それ以上、タニヤは語らなかった。


沈黙の中で、光承の儀で見た母の笑顔が胸に浮かぶ。少し寂しそうで、けれど優しかった。


「母さんは……ずっと、覚えていたんですね」


「私も、あの子のことを忘れたことはない」


それだけで十分だった。


レイは小さく息を吸う。


「伝えます」


タニヤが顔を上げる。


「いつか、もう一度会えたら。母さんに、伝えます」


「何をだ」


「ちゃんと届いたって」


レイは青い石を握った。


タニヤはしばらくレイを見つめていた。


「そなたは、アリシアに似ている」


「俺が、ですか?」


「ああ」


タニヤは頷く。


「まっすぐすぎるところがな」


レイは返事に迷い、少しだけ笑った。


「……よく分かりません」


「今はそれでよい」


タニヤの視線が、もう一度ペンダントへ落ちる。


青い石の奥には、まだ淡い光が残っていた。


タニヤはそれを見ていた。


「そなたが見たものは、母の記憶だけではあるまい」


レイは背筋を伸ばした。


「はい」


母の名を知った温もりが、まだ胸にある。けれど、別の光景も残っていた。


崩れた広間。黒い影。そして、リアの姿。


「リアがいました」


その名を出した瞬間、胸が痛んだ。


昼の回廊で見たリアの顔が浮かぶ。ちゃんとそこにいた。それなのに、光承の儀で見た姿も消えない。


タニヤの目が細くなる。


「どこにだ」


「場所は分かりません。でも、神殿ではありませんでした」


レイは記憶をたどる。


白い石。崩れた柱。床を走る細い溝。壁の奥に見えた導管のようなもの。そして、かすかな蒼い光。


「大きな建物の中でした。古い遺跡みたいで……でも、ただの遺跡じゃない。ノースライトで見た遺構に、少し似ていました」


「星刻文明か」


「たぶん」


レイは頷く。


「そこに、黒い影がいました」


部屋の空気が重くなる。結界の光が壁際で揺れた。


「人の形をしていました。でも、人じゃない」


思い出しただけで、喉の奥が冷たくなる。


「周りの光を吸い込んで、空間まで歪ませるような影でした」


「俺は、戦っていました。剣に光が宿っていたのに、その影には……光が届かない気がしました」


レイは小さく息を吸う。


「光が触れた瞬間、削られるみたいに弱くなって、押し返されました」


タニヤの指が、机の上で止まる。


「それで、リアは」


「その影を止めようとしていました」


「リアは、ルミナスの花に似た光を使っていました。でも、いつもの穏やかなものじゃなかった」


レイは唇を噛む。


「リア自身を削りながら、無理に広げているように見えました」


「止めようとしました。でも、届かなかった」


声が少し詰まる。


「最後に、リアが何か言った気がしました。でも、はっきりとは聞き取れませんでした」


タニヤは続きを促すように、顎を引いた。


「――また、見つけて、と……」


その言葉が部屋に落ちた。


壁の宝玉だけが、光を返している。


タニヤは長く息を吐いた。


「それを、リアには話したか」


「まだです」


「ならば、今は話すな。今の段階で聞かせれば、混乱させるだけだ」


タニヤは言う。


「未来のように見えたものが、本当に未来かどうかも分からぬ。警告か、可能性か、精霊が見せた象徴か。それすら定かではない」


「でも、放っておけません」


「放っておけとは言っておらぬ」


タニヤの声が低くなる。


「だから、まず私に話したのだろう」


レイは言葉を失った。


タニヤはしばらくレイを見つめる。


「ほかに、見たものはあるか」


その問いに、レイは手の中のペンダントへ目を落とした。青い石の奥で、光がかすかに揺れる。


「……光の中で、ルミナスから何かを受け取った気がします」


タニヤの目が、わずかに細くなる。


「何か、とは」


「鍵のように見えました」


レイは言葉を探すように、視線を落とす。


「でも、形ははっきりしていなくて……ただ、ルミナスが道を示してくれたような気がしたんです」


「道……」


タニヤの視線が、ペンダントへ落ちる。


青い石の奥に、細い光の線が残っていた。


花弁のようにも、鍵の輪郭のようにも見える。


タニヤの表情が、初めてはっきりと揺れた。


「……まさか」


その一言には、隠しきれない驚きが滲んでいた。


「ルミナス様が、そなたを禁書庫へ導いているのかもしれない」


タニヤの視線は、まだ青い石に向けられていた。


千年。誰も入ったことのない場所。


神殿が守り続け、神官長であるタニヤ自身でさえ内側を知らぬ場所。


その扉に、光の精霊が道を示したのかもしれない。


「……そう見るほかあるまい」


タニヤは息を吐いた。


「そなたがその扉の前に立つことは、ルミナス様の意志に沿うものと見てよいだろう」


そこで、タニヤは一度だけ目を伏せる。


「だが、神殿は人の集まりでもある。精霊の意志を受けたとしても、人の側の意志を整えねばならぬ」


レイは黙って聞いていた。


「禁書庫へ向かうこと自体は、避けられぬだろう。だが、誰を同行させるか。そなたを神殿としてどう扱うか。どこまでを明かし、どこからを伏せるか」


タニヤはレイへ視線を戻す。


「それは、神殿の会議にかける」


レイは小さく頷いた。


「……分かりました」


「リアにも、ミラにも、今はすべてを話す必要はない」


タニヤは言った。


「そなた自身も、まだ見たものを整理できておらぬだろう」


レイは言葉を返せなかった。


母の声。黒い影。崩れた広間。リアの姿。


どれも胸に残っているのに、まだ形になっていない。


「光承の儀が終わったばかりだ」


タニヤの声が、少し柔らかくなる。


「今は休みなさい」


「……はい」


レイは短く答えた。


タニヤは机の上に置かれた小さな鈴へ指を伸ばす。澄んだ音が、結界の内側に響いた。


「神殿の方針が定まり次第、そなたにも伝える」


「分かりました」


レイは立ち上がる。ペンダントを服の下へ戻すと、胸元にまだ温もりが残っていた。


扉へ向かいかけたところで、タニヤの声が届く。


「レイ」


振り返る。


タニヤは机の向こうに立っていた。その表情は、神官長のものだった。


けれど、その目の奥には、ほんの少しだけ違う光があった。


「アリシアのことを、話してくれて感謝する」


レイは少し驚いた。それから、小さく頷く。


「俺も、名前を知れてよかったです」


タニヤは何も言わなかった。ただ、目を伏せる。


レイは扉を開けた。結界の外の音が、少しずつ戻ってくる。


祈りの声。遠くの鐘。回廊を渡る風。


その中へ、一歩踏み出した。


母の名。黒い影。禁書庫。


まだ何も終わっていない。


けれど今は、少しだけ足を止めてもいいのだと思えた。


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