母の名と光の標
神官長の部屋へ向かうあいだ、胸の奥にはまだ光が残っていた。
夕暮れの部屋。母の腕。そして、最後に残された言葉。
――戻ったら……ごめんって伝えて……。
その答えは、前を歩くタニヤの背中にある気がした。
扉の前で、タニヤが足を止める。ルミナスの紋章が光り、重い扉が開いた。
「入りなさい」
レイは小さく頷き、部屋へ入る。
午後の光が差し込む、静かな部屋だった。木の机、壁に埋め込まれた青い宝玉、白い石の床に落ちる淡い光。そのすべてが、外の喧騒から切り離されたように見えた。
タニヤは机の向こうへ回り、指先を軽く動かした。壁際に光が走り、遠くの祈りの声がすっと薄れていく。
「光承の儀の後だ。長くは話さぬ」
「……はい」
「だが、今しか確かめられぬことがある」
「俺も、話したいことがあります」
レイは服の下からペンダントを取り出した。
青い石が午後の光を受けて揺れ、壁の宝玉がかすかに脈打つ。
タニヤの視線が、石に落ちた。
「……やはり」
「触れてもよいか」
「はい」
タニヤの指先が青い石に触れる。石の奥で、光がふわりと揺れた。
「……アリシア」
その名が、息のように落ちる。
レイは、その名を知らない。けれど、胸が少しだけ熱を帯びた。
「それが……母さんの名前なんですね」
タニヤはしばらく動かなかった。
やがて、答える。
「そうだ」
青い石の奥で、光が小さく揺れた。
「そなたの母であり、私の娘だ」
レイはペンダントを見つめる。
やっぱり、そうだった。
「アリシアは……生きているのか」
「生きています」
レイはすぐに答えた。
「向こうで、ずっと……俺を育ててくれました」
沈黙が落ちる。壁の宝玉が、淡く光を返した。
「……そうか」
タニヤの声は低かった。
「母さんは、エテルナのことを何も教えてくれませんでした」
「あの子は、そなたをこの世界から遠ざけたかったのだろう」
「でも、このペンダントは大事にしなさいって」
タニヤは青い石を見る。
「それが、そなたを守ると信じていたのだ」
レイはペンダントを握った。
光承の儀で聞いた母の声が、もう一度胸に浮かぶ。
「母さんは……言っていました」
タニヤの目が、レイを捉える。
「戻ったら、ごめんって伝えて、って」
部屋の空気が止まったように感じた。
「あの子が、そう言ったのか」
「はい」
「……そうか」
タニヤはほんの少し息を吐いた。
「あの子らしい」
その声は、我が子を思う、ひとりの母のものだった。
タニヤは窓の方へ目を向ける。午後の光が、白髪の輪郭を照らしていた。
「アリシアは、神殿を離れた」
それからタニヤは、父のことも話してくれた。
アリシアと共に神殿を離れたのは、龍の血を引く男だったという。風の位相に連なる者。神殿の決まりの中には、収まりきらない存在。
その名を、タニヤは口にしなかった。
アリシアがその人を選んだこと。タニヤが神官長として、その選択を認められなかったこと。母としても、最後まで許す言葉を渡せなかったこと。
それだけが語られた。
「だから、あの子は謝ったのだろう」
タニヤは小さく言った。
「母を悲しませた娘として」
それ以上、タニヤは語らなかった。
沈黙の中で、光承の儀で見た母の笑顔が胸に浮かぶ。少し寂しそうで、けれど優しかった。
「母さんは……ずっと、覚えていたんですね」
「私も、あの子のことを忘れたことはない」
それだけで十分だった。
レイは小さく息を吸う。
「伝えます」
タニヤが顔を上げる。
「いつか、もう一度会えたら。母さんに、伝えます」
「何をだ」
「ちゃんと届いたって」
レイは青い石を握った。
タニヤはしばらくレイを見つめていた。
「そなたは、アリシアに似ている」
「俺が、ですか?」
「ああ」
タニヤは頷く。
「まっすぐすぎるところがな」
レイは返事に迷い、少しだけ笑った。
「……よく分かりません」
「今はそれでよい」
タニヤの視線が、もう一度ペンダントへ落ちる。
青い石の奥には、まだ淡い光が残っていた。
タニヤはそれを見ていた。
「そなたが見たものは、母の記憶だけではあるまい」
レイは背筋を伸ばした。
「はい」
母の名を知った温もりが、まだ胸にある。けれど、別の光景も残っていた。
崩れた広間。黒い影。そして、リアの姿。
「リアがいました」
その名を出した瞬間、胸が痛んだ。
昼の回廊で見たリアの顔が浮かぶ。ちゃんとそこにいた。それなのに、光承の儀で見た姿も消えない。
タニヤの目が細くなる。
「どこにだ」
「場所は分かりません。でも、神殿ではありませんでした」
レイは記憶をたどる。
白い石。崩れた柱。床を走る細い溝。壁の奥に見えた導管のようなもの。そして、かすかな蒼い光。
「大きな建物の中でした。古い遺跡みたいで……でも、ただの遺跡じゃない。ノースライトで見た遺構に、少し似ていました」
「星刻文明か」
「たぶん」
レイは頷く。
「そこに、黒い影がいました」
部屋の空気が重くなる。結界の光が壁際で揺れた。
「人の形をしていました。でも、人じゃない」
思い出しただけで、喉の奥が冷たくなる。
「周りの光を吸い込んで、空間まで歪ませるような影でした」
「俺は、戦っていました。剣に光が宿っていたのに、その影には……光が届かない気がしました」
レイは小さく息を吸う。
「光が触れた瞬間、削られるみたいに弱くなって、押し返されました」
タニヤの指が、机の上で止まる。
「それで、リアは」
「その影を止めようとしていました」
「リアは、ルミナスの花に似た光を使っていました。でも、いつもの穏やかなものじゃなかった」
レイは唇を噛む。
「リア自身を削りながら、無理に広げているように見えました」
「止めようとしました。でも、届かなかった」
声が少し詰まる。
「最後に、リアが何か言った気がしました。でも、はっきりとは聞き取れませんでした」
タニヤは続きを促すように、顎を引いた。
「――また、見つけて、と……」
その言葉が部屋に落ちた。
壁の宝玉だけが、光を返している。
タニヤは長く息を吐いた。
「それを、リアには話したか」
「まだです」
「ならば、今は話すな。今の段階で聞かせれば、混乱させるだけだ」
タニヤは言う。
「未来のように見えたものが、本当に未来かどうかも分からぬ。警告か、可能性か、精霊が見せた象徴か。それすら定かではない」
「でも、放っておけません」
「放っておけとは言っておらぬ」
タニヤの声が低くなる。
「だから、まず私に話したのだろう」
レイは言葉を失った。
タニヤはしばらくレイを見つめる。
「ほかに、見たものはあるか」
その問いに、レイは手の中のペンダントへ目を落とした。青い石の奥で、光がかすかに揺れる。
「……光の中で、ルミナスから何かを受け取った気がします」
タニヤの目が、わずかに細くなる。
「何か、とは」
「鍵のように見えました」
レイは言葉を探すように、視線を落とす。
「でも、形ははっきりしていなくて……ただ、ルミナスが道を示してくれたような気がしたんです」
「道……」
タニヤの視線が、ペンダントへ落ちる。
青い石の奥に、細い光の線が残っていた。
花弁のようにも、鍵の輪郭のようにも見える。
タニヤの表情が、初めてはっきりと揺れた。
「……まさか」
その一言には、隠しきれない驚きが滲んでいた。
「ルミナス様が、そなたを禁書庫へ導いているのかもしれない」
タニヤの視線は、まだ青い石に向けられていた。
千年。誰も入ったことのない場所。
神殿が守り続け、神官長であるタニヤ自身でさえ内側を知らぬ場所。
その扉に、光の精霊が道を示したのかもしれない。
「……そう見るほかあるまい」
タニヤは息を吐いた。
「そなたがその扉の前に立つことは、ルミナス様の意志に沿うものと見てよいだろう」
そこで、タニヤは一度だけ目を伏せる。
「だが、神殿は人の集まりでもある。精霊の意志を受けたとしても、人の側の意志を整えねばならぬ」
レイは黙って聞いていた。
「禁書庫へ向かうこと自体は、避けられぬだろう。だが、誰を同行させるか。そなたを神殿としてどう扱うか。どこまでを明かし、どこからを伏せるか」
タニヤはレイへ視線を戻す。
「それは、神殿の会議にかける」
レイは小さく頷いた。
「……分かりました」
「リアにも、ミラにも、今はすべてを話す必要はない」
タニヤは言った。
「そなた自身も、まだ見たものを整理できておらぬだろう」
レイは言葉を返せなかった。
母の声。黒い影。崩れた広間。リアの姿。
どれも胸に残っているのに、まだ形になっていない。
「光承の儀が終わったばかりだ」
タニヤの声が、少し柔らかくなる。
「今は休みなさい」
「……はい」
レイは短く答えた。
タニヤは机の上に置かれた小さな鈴へ指を伸ばす。澄んだ音が、結界の内側に響いた。
「神殿の方針が定まり次第、そなたにも伝える」
「分かりました」
レイは立ち上がる。ペンダントを服の下へ戻すと、胸元にまだ温もりが残っていた。
扉へ向かいかけたところで、タニヤの声が届く。
「レイ」
振り返る。
タニヤは机の向こうに立っていた。その表情は、神官長のものだった。
けれど、その目の奥には、ほんの少しだけ違う光があった。
「アリシアのことを、話してくれて感謝する」
レイは少し驚いた。それから、小さく頷く。
「俺も、名前を知れてよかったです」
タニヤは何も言わなかった。ただ、目を伏せる。
レイは扉を開けた。結界の外の音が、少しずつ戻ってくる。
祈りの声。遠くの鐘。回廊を渡る風。
その中へ、一歩踏み出した。
母の名。黒い影。禁書庫。
まだ何も終わっていない。
けれど今は、少しだけ足を止めてもいいのだと思えた。




