光承の儀
祭壇の光が、レイの視界を満たしていく。
水晶球から伸びた青白い光が胸元のペンダントに触れた瞬間、服の下で石が小さく脈打った。
神官たちの祈りの声が遠のいていく。タニヤの姿も、白い柱も、床の星形の紋様も、少しずつ光の中へ溶けていった。
「……ここは……」
声を出したつもりだった。けれど、その声が自分の耳に届いたのか、光に呑まれたのか分からない。
目の前に、一本の光が伸びていた。道のように、誰かが手を差し伸べるように。
レイは導かれるまま歩き出す。足元で光の粒が小さく弾け、まぶしかった光が一歩ごとにほどけていった。
やがて、夕暮れの色が見えた。
そこは、見覚えのある部屋だった。
カーテンの隙間から橙色の光が差し込み、机の上には読みかけの本が置かれている。壁には少し色あせたポスターが貼られ、窓の外からは遠く車の走る音が聞こえた。
空気の匂いまで覚えている。
「……帰ってきた、のか……?」
呟いた声が、やけに小さく響いた。
その時だった。
「悠真、開けるわよ」
ドアが開く。そこに、母がいた。
「母さん……」
姿を見た瞬間、胸の奥に張っていたものが崩れ、震えた声と一緒に涙がこぼれた。
母は驚いたように目を見開き、すぐに歩み寄ってくる。
「どうしたの? そんなに泣いて」
柔らかな腕が、レイを抱きしめる。
「怖い夢でも見た?」
違う。夢じゃない。
でも、何から話せばいいのか分からなかった。
エテルナのこと。ガレンのこと。ベルデ村のこと。リアのこと。ミラのこと。星の涙のこと。
どれも本当なのに、言葉にした途端、遠くへ行ってしまいそうだった。
だから、レイは一言だけ絞り出した。
「……会いたかった……」
母はそれ以上何も聞かず、ただ背中をゆっくり撫でてくれた。その温もりが、あまりにも確かだった。
「頑張ってるのね」
母の声が、夕暮れの部屋に落ちる。
「悠真は、ちゃんと前に進んでる」
レイは言葉にならず、ただ頷いた。
母の手が首元に触れる。服の下から覗いたペンダントを見て、母は少しだけ目を細めた。
「……大事にしてくれてるのね」
「うん」
「絶対に無くしちゃだめよ」
母は、祈るように言った。
「きっと、守ってくれるから」
胸元がほんのり温かくなり、青い光が夕暮れの部屋に小さく揺れた。
「うん……絶対に」
母は少しだけ寂しそうに笑った。
その笑顔を見た瞬間、レイは違和感に気づく。窓の外の夕暮れが少しずつ色を失い、橙色の光が薄くほどけていった。母の輪郭も、わずかに揺らいでいる。
「母さん……?」
レイが手を伸ばす。
母もその手に触れようとして――けれど、届く前に静かに言った。
「戻ったら……ごめんって伝えて……」
声が、遠くへ流れていく。
「誰に……?」
答えは返らなかった。
部屋の壁が歪み、机も本もカーテンも、夕暮れの光の中で形を失っていく。
「母さん!」
伸ばした手は届かない。母の姿が、光の向こうへ消えていく。
最後に残ったのは、抱きしめてくれた温もりだけだった。
そして、それさえも、すぐに白い光にさらわれた。
次に目を開けたとき、そこは夜のように暗かった。
砕けた柱の間に弱い光が残っている。割れた床には細い溝のようなものがいくつも走り、その奥をかすかな蒼い光が流れていた。
神殿ではない。
そう思った。
けれど、ただの建物でもなかった。
白い石壁は崩れ、壁の奥に埋め込まれた導管のようなものが剥き出しになっている。天井の裂け目から覗く黒い空の下、冷たい風が吹き、その奥に誰かの泣き声のような音が混じっていた。
レイは剣を握っていた。いつの間にか手の中にあったそれは重く、身体のあちこちが痛む。
それでも、目の前から視線を逸らせなかった。
崩れた装置の向こうに、黒い影が立っている。
人の形をしている。だが、人ではない。
周囲の光を吸い込み、空間そのものを歪ませるような影。その奥から、こちらを見ている気配があった。
喉が詰まる。
影が揺れ、笑ったように見えた。
次の瞬間、闇が波のように押し寄せる。
「――まだだ……!」
レイは剣を構え、踏み込んだ。刃に光が宿る。
だが、その光は闇に触れた途端、削られるように弱まった。
重い。押し返される。
足元の石床が砕け、膝が沈む。それでも退かなかった。
退けば、何かが終わる。そう分かっていた。
「レイ!」
声がした。
振り向く。
リアがいた。
白い衣は傷つき、髪飾りの光も弱くなっている。それでも、その瞳だけはまっすぐだった。
「来ちゃだめだ!」
レイは叫んだ。
けれど、リアは首を横に振った。
「……ごめんなさい」
胸の前で両手が重なる。足元にルミナスの花に似た光が広がった。
だが、それはいつもの穏やかな光ではなかった。
リア自身を削りながら広がっているような光だった。
「やめろ、リア!」
レイは走った。黒い影が、リアへ向かって手を伸ばす。
届くはずだった。あと少しだった。
けれど、足元の空間が裂け、黒い風が吹き上がる。レイの身体は押し戻された。
「リア!」
リアの唇が動いた。何を言ったのかは聞こえない。
ただ、その目がレイを見ていた。まるで、覚えていてほしいと願うように。
光が弾けた。
闇が押し返され、崩れた広間に白い花びらのような光が舞い上がる。
その光の中で、何かが消えていく。
名前。声。笑顔。手の温もり。
大切なものが、指の間からこぼれ落ちていく。
「いやだ……!」
レイは手を伸ばす。
届かない。そこにいるはずなのに。
光がすべてを呑み込む。最後に、誰かの声が聞こえた気がした。
――また、見つけて。
それが本当にリアの声だったのか、レイには分からなかった。
次の瞬間、世界は白く砕けた。
再び、光の中にいた。
今度の光は、まぶしくなかった。
空も、床も、壁もない。ただ、柔らかな光だけがどこまでも満ちている。
レイは立っているのか、浮かんでいるのかも分からなかった。けれど、目は閉じなかった。
母の温もり。届かなかった手。崩れた広間。消えていく誰かの記憶。
どれも、胸の奥に残っている。
光の奥に、意志があった。
声ではない。言葉でもない。けれど、レイの心に静かに触れてくる。
――見たか。
過去を。
未来を。
レイは息を吐く。
「見た」
声は小さかった。けれど、光の中で確かに響いた。
知らなければ、選ばずに済んだかもしれない。
けれど、もう見た。
母の言葉も、黒い影も、リアが立っていた未来も。
レイは顔を上げた。
「知りたい」
光が、わずかに揺れる。
「怖くても、分からなくても。見たものから、目をそらしたくない」
白い光が、静かに巡る。
「知った上で、選びたい」
言葉にした瞬間、胸の奥が静かになった。
迷いが消えたわけではない。けれど、胸元の石から細い光が身体の奥へ通っていく。
力を押しつけられたのではない。乱れていたものが、あるべき流れへ戻っていくような感覚だった。
ただ、進む向きだけは決まった。
光がレイの周りをゆっくり巡り、白い花びらのような輝きが、ひとつ、またひとつと舞い上がる。
やがて、その光が胸元のペンダントへ集まっていった。
――その意志を、認める。
それは宣告ではなかった。命令でもない。ただ、事実だけを告げるような響きだった。
そして、光はもう一度、レイの心に触れた。
――君が来るのを、待っていた。
どこか懐かしい響きだった。
遠い昔から、この場所に灯り続けていた光が、ようやくレイを見つけたように。
「……待っていた?」
問い返しても、答えはなかった。ただ、光がそっと揺れた。
胸元のペンダントが、強く光る。
光は石の奥へ沈み、そこに細い線を残した。
花弁のようで、鍵の輪郭のようでもある。けれど、形ある鍵ではない。手に取れるものでもない。
ただ、どこかへ続く道の気配だけがあった。
「……これは……」
言葉にはならなかった。
けれどレイには、その光が未知の場所へ続く道を示しているのだと分かった。
この光は、自分を待っていた。
光の精霊ルミナスが、そこにいる。
姿は見えない。けれど、その光は確かにレイを見ていた。
否定ではなく、命令でもなく、ただ、選び取った意志を受け止めるように。
胸元のペンダントから光が広がり、レイの身体を包み込んだ。
気づけば、星の涙の祭壇の前に立っていた。
水晶球の光は静まり、青とも金ともつかない淡い輝きだけが残っている。床の星形の紋様もゆっくりと光を失い、奥に浮かぶ光の星の涙は、変わらず静かだった。
けれど、レイの周囲だけは違っていた。
胸元のペンダントから淡い光が広がり、ゆっくりと巡っている。
揺らぎではない。漏れ出した光でもない。
まるで、乱れていた水が流れを取り戻すように、レイの周りでひとつの循環を描いていた。
控えていた神官のうち、幾人かが小さく息を呑む。見えている者と、見えていない者がいた。
けれど、タニヤには見えていた。はっきりと。その光の巡りが何を意味するのかも。
タニヤが一歩前へ出る。
その目には、儀式の前とは違う光があった。驚き。警戒。そして、静かな確信。
「……光承の儀は終わりだ」
低い声が、祭壇に落ちる。
タニヤの視線は、レイの胸元にあった。ペンダントの青い石の奥には、まだ細い標の光が残っている。
「ルミナス様は、汝に応えた」
その言葉に、周囲の神官たちが息を呑む。
祭壇の奥で、光の星の涙がかすかに揺れた。
「だが、それが何を意味するのかは、軽々に定めるものではない」
タニヤは周囲の神官たちを見た。
「この反応は、神殿として慎重に扱う」
レイは静かに息を吐いた。
ルミナスが応えた。その意味を、まだすべて理解できるわけではない。
けれど、分かることがある。
この世界は、もう遠い夢ではない。
ガレンと過ごした日々も、ベルデ村の朝も、シルヴィの光も、リアがくれたルミナスの花も、ミラと見たノースライトの雪も、母の言葉も。
全部、本物だ。
だからこそ――
「……大丈夫だ」
小さく呟いた。
誰かに聞かせるためではない。自分に言い聞かせるような声だった。
何を見たのか、すべてを整理できたわけではない。
それでも、足は動く。
進むしかない。
いや。
進むと、決めた。




