儀式の日の朝
夜明けの光は、まだ少し冷たかった。
アストラリス神殿の客室には、白い光が細く差し込み、窓辺のルミナスの花を淡く照らしている。
レイはその光を見つめながら、胸元のペンダントにそっと触れた。
――光承の儀。
昨夜、神官長タニヤが告げたその名が、眠っているあいだも胸の奥に残っていた。
「起きてる?」
扉の向こうから、ミラの声がした。
「ああ、起きてる」
レイが答えると、扉が少しだけ開いた。
「おはよ」
ミラは部屋へ入り、すぐにレイの姿を見て目を丸くする。
「もう準備できてるんだ」
「おはよう。待ってるだけだと落ち着かないから」
レイは上着の留め具を確かめながら答えた。
「ちゃんと寝られた?」
「うん。思ったよりは」
「それならよかった」
ミラはそう言って、窓辺のルミナスの花へ目を向けた。朝の光を受けた花が、淡く揺れている。
「いよいよだね。光承の儀」
その名を聞くと、胸の奥が小さく熱を持った。
緊張はある。
けれど、迷いはなかった。
「うん」
レイは胸元のペンダントに触れ、静かに頷いた。
その時、控えの間の方から足音がした。
「レイ、ミラ。入ってもよろしいですか」
リアだった。
「どうぞ」
ミラが答えると、扉が開いた。
リアは白い衣を整え、銀の髪飾りを留めていた。
「おはようございます」
「ああ。おはよう、リア」
いつも通りに返したつもりだった。
けれど、声は少しだけ低く響いた。
リアはすぐには何も言わなかった。
「神官長様から聞きました」
リアは声を落とす。
「今日、星の涙の祭壇は一般の参拝者には閉ざされるそうです」
「そんなに、大きなことなのか」
「はい。光承の儀は、誰でも受けられるものではありません」
リアは小さく頷いた。
「神殿が必要だと認めた時だけ行われる、とても稀な儀式です。私も、実際に行われるところを見るのは初めてです」
「そうなんだ」
レイは少しだけ苦笑した。
「なんか、ちょっと緊張してきたな」
「ごめんなさい。怖がらせたいわけではないんです」
リアが慌てたように首を横に振る。
その仕草で、レイの肩から少し力が抜けた。
「分かってる」
リアはほっと息をつき、それから真剣な表情になった。
「光承の儀は、ルミナス様が越えようとする者の心を試すものだと聞きました」
窓辺のルミナスの花が、淡く光る。
「だから、心を試す儀式なら……きっと、レイ自身と向き合うことになるんだと思います」
「うん」
「どんな形で現れるのかは、私にも分かりません。でも――」
リアは少し迷い、それから顔を上げた。
「レイなら、きっと大丈夫です」
その声は、祈りに近かった。
レイは胸元に触れる。
ペンダントが、ほんの少し温かい。
同時に、ポーチの中のルミナスの花も、淡く応えた気がした。
「……ありがとな」
リアは小さく頷いた。
「待っています」
その一言が、胸に残った。
何を試されるのかは分からない。
けれど、戻る場所があると思うだけで、足元の冷たさが少し和らいだ。
「大丈夫だよ、リア」
ミラが明るく言った。
「レイなら、光承の儀だって禁書庫だって、きっと乗り越えてくれる」
「ミラさん……」
「だって、レイはここにいるんだよ」
ミラはレイを見る。
その目には、静かな信頼があった。
「偶然でも、運命でも。わからないものから逃げないで、ちゃんと見ようとしてる」
リアは少しだけ目を伏せた。
そして、穏やかに頷く。
「……そうですね。私も、そう思います」
「じゃあ、行こうか」
ミラが言った。
三人は客室を出た。
回廊には、朝の白い光が伸びていた。
壁のルミナスの花の彫刻が、淡く明滅している。
その奥から、銀の装飾を施したローブの神官が歩いてきた。
「レイ」
神官は足を止める。
「こちらへ」
レイはその顔を見る。
どこかで見たことがあった。
ベルデ村。
成人の儀。
淡い光の中で、自分に“レイ”という名を告げた声。
(……あの時の)
確信はない。
けれど、よく似ていた。
レイはリアとミラを見る。
「行ってくる」
「はい。行ってらっしゃい」
リアはまっすぐ頷いた。
ミラも小さく手を上げる。
「終わったら、ちゃんと聞かせてよ」
「分かった」
レイは神官の後について歩き出した。
奥へ進むにつれ、外の音が遠ざかっていく。
風の音。
鐘の余韻。
神殿の外で働く人々の声。
すべてが薄くなっていった。
やがて、柱の間に淡い光の膜が見えた。
結界だった。
神官が手をかざす。
袖口の紋章が淡く光り、結界の膜が水面のように揺れた。
「今日、この先は閉じられている」
神官は振り返らずに言う。
「神官長様の結界に、我ら神官の祈りを重ねている。許された者以外は、入れない」
その時。
結界の外側で、空気がわずかに揺れた。
「……?」
レイは足を止めかける。
音はない。
形もない。
けれど、朝の光がそこだけ薄く濁ったように見えた。
昨夜、扉の外で感じた気配。
白き広場で、胸元を射抜くように見られた感覚。
それに似ていた。
けれど、神官は振り返らない。
迷いなく、結界の奥へ進む。
その背中だけで、この先の安全を信じていることが分かった。
レイは小さく息を吸い、結界を抜ける。
空気が変わった。
音が消えたわけではない。
けれど、周囲の気配が遠ざかり、幾重にも重ねられた静かで頑丈な膜をかけられたようだった。
神殿のさらに奥。
そこに、星の涙の祭壇があった。
広い円形の空間。
高い天井から降りる朝の光。
白い石の祭壇。
その中央に、青白い結晶が浮かんでいた。
光の星の涙。
強く輝いているわけではない。
けれど、ただそこにあるだけで、空間のすべてが整えられているように見えた。
レイは息を呑んだ。
胸元のペンダントが、静かに熱を帯びる。
祭壇の前には、神官長タニヤが立っていた。
濃紺のローブ。
静かに束ねられた白髪。
昨夜の部屋で見た時よりも、さらに遠い存在のように見えた。
「来たか」
タニヤの声が、祭壇に落ちる。
「はい」
レイは一歩前へ出た。
祭壇の左右には、数人の神官が控えている。
誰も口を開かない。
白い袖の奥で指を組み、張り詰めた面持ちで祭壇を見守っていた。
タニヤは祭壇の前に置かれた水晶球へ視線を向けた。
透き通った球体の中で、青とも金ともつかない光が揺れている。
「これより、光承の儀を始める」
水晶の中の光が、ゆっくり強まった。
「この儀は誰にでも許されるものではない」
タニヤは続ける。
「ルミナス様が、その者を導くかどうかを見極めるための儀だ」
レイは黙って聞いていた。
「汝はすでに、裂け目に触れ、星の涙を模したものに近づき、影に見られている」
タニヤの視線が、レイの胸元へ落ちる。
「そして、その石を持つ」
ペンダントが小さく脈打った。
「そなた自身にも、光への強い感応がある。ゆえに、光承の儀を受ける資格がある」
タニヤの声は低く、静かだった。
「神殿は汝を保護すべき者と見る。同時に、見極めねばならぬ者とも見る」
言葉は厳しかった。
けれど、冷たくはなかった。
ただの客人でも、ただの旅人でもない。
この神殿にとって、自分は放っておけない存在なのだ。
「試されるのは、力ではない」
タニヤは言った。
「汝の内にあるもの。過去、迷い、そして選び取る意志」
水晶球の光が揺れる。
レイは胸元に触れた。
ペンダントは、今度は確かに応えた。
小さく。
けれど、はっきりと。
緊張はある。
けれど、それ以上に知りたかった。
自分がなぜここにいるのか。
この石が、なぜ自分に応えるのか。
そして、自分は何を選ぶのか。
タニヤが脇の台へ手を向ける。
そこには、小さな水晶の小瓶があった。
中には、淡い光を帯びた液体が入っている。
「ルミナスの花の雫だ」
タニヤが言う。
「飲みなさい。光が、道を開く」
レイは小瓶を手に取った。
一瞬、リアの声が胸によみがえる。
――待っています。
レイは小さく息を吸った。
そして、飲み干した。
柔らかな光が喉を通り、胸の奥へ落ちていく。
身体の内側に、朝の光が広がっていくようだった。
タニヤが両手を上げる。
袖口の紋章が、青白く光を帯びた。
それに応えるように、左右の神官たちも祈りの形を結ぶ。
祭壇を囲む結界に、淡い光の輪が重なっていく。
低い祈りの声が、祭壇に満ちていった。
ルミナスの花の雫。
神官たちの術。
祭壇に満ちる光。
それらが、水晶の中でひとつに重なる。
水晶球が、静かに輝きを増した。
床の星形の紋様に光が走る。
細い線がレイの足元を囲み、淡い円を描いた。
光の星の涙が、ほんのわずかに明るくなる。
タニヤの声が響いた。
「始めよう」
その瞬間。
水晶の中の光が、まっすぐレイへ伸びた。
声ではない。
言葉でもない。
けれど、レイには確かに告げられた気がした。
――さあ、こっちだよ。
一歩前へ踏み出す。
祭壇の光が、静かに彼を包み込んだ。




