神官長の間
神殿の内側は広場以上に静まり返っていた。高い石柱が並ぶ回廊には青白い灯りが揺れ、磨かれた石床に淡い影を落としている。
レイとミラは神殿の奥の広間で待っていた。リアは神官へ話を通しに向かっており、その場には二人だけが残されていた。
レイは、さっきの広場を思い出す。
見えていないはずの胸元を、まっすぐ射抜くような視線。
言葉のないまま去っていった、重い甲冑の音。
レオン。
その名が、まだ頭の奥に残っていた。
「……こういう場所、少し緊張するね」
隣でミラが小さく言った。
「ミラでも?」
「うん。遺跡の静けさとは違うのよね。ここ、綺麗すぎる」
そう言って、ミラは肩をすくめる。
レイは短く笑った。
「たしかに」
そのやり取りで、ほんの少しだけ息がしやすくなる。
それでも、胸の奥の警戒は消えなかった。
ここまで来た。
その先に何があるのか、まだ分からない。
分からないからこそ、確かめたいと思った。
やがて、奥の扉が静かに開いた。
リアが戻ってくる。
白い衣の裾が揺れ、銀の髪飾りが青白い灯りを受けて小さく光った。
その表情には、安堵と緊張が混じっている。
「神官様にお話ししました」
リアは声を落とした。
「神官長様に伝えてくださって、急ぎ、お会いしていただけることになりました」
ミラが顔を上げる。
「神官長様って、この神殿で一番偉い人?」
「はい。アストラリス神殿をお預かりしている方です」
「……いきなり大物だね」
ミラはそう言ったが、逃げる気配はなかった。
レイは小さく頷く。
「行こう」
リアは二人を見て、それから奥へ向き直った。
「こちらです」
三人は広間の奥へ進んだ。
回廊は細く、外の気配を遮るように静まり返っている。
壁にはルミナスの花を模した彫刻が連なり、その花弁の縁に淡い光が宿っていた。
足音が、小さく響く。
やがて、ひとつの扉の前でリアが足を止めた。
重厚な木の扉だった。
表面には、金の線でルミナスの紋章が刻まれている。
リアが扉に手を添える。
「神官長様。お連れしました」
中から、短く返事があった。
リアが静かに扉を押すと、音もなく開いた。
部屋は思っていたより小さい。
だが、その空気はどこか特別だった。
壁には青い宝玉が埋め込まれ、柔らかな光が白い石壁を淡く照らしていた。中央には古びた木の机があり、その上には数冊の書物と封蝋の施された巻物が置かれている。
机の奥に、一人の白髪の女性が濃紺のローブをまとって立っていた。袖口と襟元には精緻な紋章が縫い込まれている。
静かな佇まいの人だった。
ただそこにいるだけなのに、部屋の空気そのものがその人を中心に静かに整っているように感じられた。
レイは、その人を見た瞬間、少しだけ息を呑んだ。
広場で感じた圧とは違う。
もっと静かで、深い。
部屋の光も、空気も、その人の前では自然と整っていくように感じられた。
服の下で、青い石は静かだった。
けれど、その静けさの奥から、かすかな温もりのようなものが立ちのぼる気がした。
「神官長様、こちらの方々です」
リアが一歩下がり、丁寧に頭を下げる。
神官長は、ゆっくりと視線を動かした。
リア。
ミラ。
そして、レイ。
最後に、その視線はレイの胸元のあたりで止まった。
壁に埋め込まれた青い宝玉が、静かに光を脈打たせている。
「……アストラリス神殿神官長、タニヤだ」
低く、落ち着いた声だった。
「名を」
レイは少しだけ背筋を伸ばす。
「レイです」
「ミラよ」
ミラも短く名乗る。
タニヤは頷いた。
それから、扉の方へ一度だけ視線を向ける。
「少し、閉じる」
短い言葉とともに、タニヤが指先を上げた。
壁に埋め込まれた青い宝玉が、淡く明滅する。
光は音もなく壁を伝い、床を走り、扉と窓の縁へ細い線を結んでいった。
部屋の外の気配が、薄い水膜の向こうへ遠ざかる。
ミラが小さく息を呑む。
リアは驚かなかった。
ただ、背筋を伸ばし、静かに神官長を見ている。
タニヤはレイへ視線を戻した。
「胸元のものを見せよ」
静かな声だった。
けれど、その一言で、部屋の灯りまで耳を澄ませたように感じられた。
レイは頷き、服の下からペンダントを取り出した。
青い石が、部屋の光を受ける。
深い水底のような色。
その奥に、かすかな星のような光が揺れていた。
次の瞬間、壁の宝玉がかすかに明滅した。
青白い光が、波のように部屋を渡る。
机の上の巻物の影が、ほんの少し揺れた。
レイの手の中で、ペンダントも小さく応える。
音はない。
けれど、何かと何かが静かに触れ合ったことだけは分かった。
タニヤの目が、わずかに細められる。
「星の涙に近い光だ」
静かな声だった。
「だが、神殿の記録にあるものとは重ならない」
レイは手の中の青い石を見下ろした。
かつてはただのお守りだと思っていたものが、少しだけ遠いものに見えた。
タニヤの視線は逸れない。
「どこで得た」
「……母から、渡されました」
声が、少しだけかすれた。
「大切にしなさいって。小さいころから、ずっと持っていました」
タニヤは黙って聞いている。
リアの視線が、横からそっと支えるように向けられていた。
レイは続ける。
「でも、何なのかは分かりません。ただ、何度か危ない時に助けられました」
レイは手の中の青い石を見下ろす。
「森でも、ノースライトでも……これが応えて、俺を守ってくれたんです」
タニヤはしばらく沈黙した。
壁の宝玉が、ゆっくりと光を明滅させている。
そのたびに、部屋の影がほんの少し動いた。
やがて、タニヤは静かに息を吐く。
「星刻文明のことを調べているそうだな」
ミラは小さく息を吸い、真っ直ぐタニヤを見た。
「はい」
迷いのない声だった。
「私を育ててくれた人が追っていました。星刻文明、蒼の神機、星の裂け目。それと……」
「その言葉は、軽々しく口にする名ではない」
タニヤの声が、ミラの言葉を静かに遮った。
強い声ではなかった。
けれど、その一言で部屋の空気が少しだけ引き締まる。
壁の宝玉の光が、タニヤの横顔を青く照らしていた。
ミラは唇を引き結ぶ。
「……分かっています。でも、もう関わってしまいました」
「関わった?」
タニヤの視線が鋭くなる。
ミラは一度だけレイを見る。
それから、腰のポーチから古びた手帳を取り出した。
「ノースライトで、突然現れた星刻文明の遺構らしきものを見ました。そこに、この手帳にある記述と似たものがあったんです」
「その手帳は」
タニヤの視線が、ミラの手元へ落ちる。
「その、私を育ててくれたガイが残したものです。星刻文明を追っていました。さっき私が口にしたものにも、ガイは近づいていたんだと思います」
ミラは手帳の表紙に指を添えたまま、続けた。
「それに、気になることがあります。最近、各地で異獣の発生が増えていると聞いています。他の位相でも、季節外れの暑さや寒さや水害、地鳴りのような異変が増えていると」
ミラは言葉を選ぶように、一度息を置く。
「今回、ノースライトに星刻文明の遺構が流れ着いたことも、ただの偶然ではないと思います」
ミラは手帳の表紙に添えた指に、少しだけ力を込めた。
「何か、良くないことの前触れのように感じるんです」
部屋の空気が、わずかに静まる。
「私は、ガイのことを知りたい。ガイが何を追って、どこへ消えたのかを確かめたい」
いつもの明るさは、そこにはなかった。
ミラはまっすぐ、タニヤを見ていた。
「でも、それだけじゃありません」
声は低い。
けれど、はっきりしていた。
「今、各地で起きている異変が何なのか。原因があるなら、それを突き止めたい。止める方法があるなら、考えたいんです」
タニヤはすぐには答えなかった。
部屋の青い宝玉が、静かに明滅している。
やがて、神官長は低く言った。
「そなたの気持ちは、よく分かった」
ミラは黙ってタニヤを見る。
「神殿としても、各地の異変は確認している」
その声には、重い疲れのようなものが滲んでいた。
「街道に現れる異獣。位相の揺らぎ。祈り柱の加護が薄まる場所。報せは、少しずつ増えている」
リアが白い袖をそっと握った。
タニヤは静かに続ける。
「だが、すべてに手を伸ばすには、あまりに広すぎる。神殿だけで押し留められるものではない」
ミラは黙ってタニヤを見つめた。
「だからこそ、見過ごせません」
その声は、先ほどよりもさらに低かった。
「ノースライトで見たものは、たぶん、その異変の一部です」
「結晶もありました」
レイが静かに続けた。
「青白い結晶です。これが反応しました」
手の中のペンダントに視線を落とす。
「そして影の教団がこのペンダントの光を見て、……星の涙か、って」
タニヤはすぐには答えなかった。
ミラは手帳の表紙に指を添えたまま、神官長の言葉を待っていた。
やがて、タニヤが口を開く。
「星刻文明は、星の力に近づきすぎた」
声は低く、静かだった。
「蒼の神機。星の裂け目」
「神殿に残る記録でも、その先は封じられている。私がここで語れることは多くない」
タニヤはレイを見る。
「ただ、それらに触れた者が無事で済むことは少ない」
タニヤの視線が、ミラへ向く。
「そのガイという者は、危ういところまで近づいていたようだな」
ミラの顔から、少しだけ色が消えた。
「ガイは、まだ生きてるかもしれません」
「否定はしない」
タニヤは静かに言う。
「だが、禁じられたものに近づけば、それを狙う者たちに目を付けられる」
その言葉に、レイの背筋が冷えた。
白き広場の視線が、また胸の奥で蘇る。
そのとき、結界の外側にかすかな気配が触れた。
薄い水膜の向こうから、こちらを探られているような感覚。
レイの指先が、ペンダントの鎖に触れたまま強張る。
タニヤの視線が、一瞬だけ扉へ向いた。
気づいている。
タニヤは何も言わず、声だけを少し落とした。
「影が動いている」
その言葉に、ミラの手が静かに止まった。
「この神殿の中でさえな」
リアの表情が強張る。
けれど、タニヤはそれ以上、扉の方を見なかった。
壁の宝玉の光が、静かに明滅している。
机の上の封蝋が、そのたびに小さな影を作った。
タニヤはレイを見る。
まっすぐに。
「レイ」
名前を呼ばれ、レイは顔を上げる。
「封じられた書庫に触れるということは、知識を得るだけではない」
タニヤの声は、さらに低くなる。
「知れば、選ばねばならなくなる。知らなかった頃には戻れぬ」
レイは息を呑む。
タニヤの視線が、レイの手元のペンダントへ落ちる。
「その石を持つ者として問う」
静かな声だった。
「それでも、おまえは知りたいか」
部屋の空気が、少しだけ重くなった。
レイはペンダントを見下ろした。
手の中で、青い石がかすかに脈打っている。
ノースライトの地下。
裂け目。
異様な咆哮。
黒いローブ。
そして、広場のレオン。
どれも、まだ身体の奥に残っている。
危険なことは分かっている。
それでも、胸の奥で小さな熱が灯った。
封じられた書庫。
星刻文明。
この石の正体。
知らないままでは、何も選べない。
それに、知りたい。
その先に何があるのか。
この石が何なのか。
レイは顔を上げた。
「知りたいです」
短く、はっきりと言った。
しばらく、誰も声を発しなかった。
タニヤは静かにレイを見つめていた。
やがて、頷く。
「よかろう」
タニヤは机の上の巻物へ手を置いた。
「おまえたちが求める記録は、普通の書庫にはない」
その声に、リアの表情がわずかに引き締まる。
「アストラリス神殿の地下には、封じられた書庫がある。星刻文明、蒼の神機、星の裂け目――そして世界の理……それらに関わる記録は、そこに封じられている」
ミラの指が、手帳の表紙に添えられたまま止まった。
「禁書庫……?」
「そう呼ばれている」
タニヤは静かに頷いた。
「だが、誰でも入れる場所ではない。神官であろうと、神殿騎士であろうと、許されぬ者は扉の前に立つことすらできぬ」
レイは息を呑む。
「禁書庫に近づくには、まず光の精霊ルミナスに認められねばならない」
部屋の青い宝玉が、淡く脈打った。
「その見極めのために行うのが、光承の儀だ」
「光承の儀……」
レイが小さく繰り返す。
「この千年、光の感応が強い者に対して、何度か行われた記録はある」
部屋の空気が、さらに静まった。
「ルミナスに認められた者も、いたようだ。だが、禁書庫に入れたという記録は残っていない」
ミラの指が、手帳の表紙に添えられたまま止まる。
タニヤは続けた。
「光承の儀で認められたからといって、禁書庫の扉が開くとは限らぬ」
レイは顔を上げた。
「別なんですか?」
「そうだ」
タニヤは静かに頷いた。
「光承の儀は、あくまでルミナスがその者を導くかどうかを見極めるもの。禁書庫に触れられるかどうかは、その先の話だ」
タニヤはレイを見る。
「だが、おまえが持つその石が本当に星の涙に近いものならば、まずは確かめねばならぬ」
静かな声だった。
「明朝、光承の儀を執り行う」
青い宝玉の光が、淡く揺れた。
「ルミナスがおまえを認めるかどうか。そこで明らかになる」
その言葉に、ミラの指先がかすかに動いた。
手帳の表紙に添えられた指に、少しだけ力が入る。
タニヤはミラへ視線を向けた。
「おまえの求める答えも、その先にあるかもしれぬ」
ミラは手帳の表紙に指を添えたまま、静かに頷いた。
「……はい」
「だが、光承の儀の中心に立つのはレイだ」
その言葉は、部屋の中に静かに落ちた。
レイは思わず息を呑んだ。
光承の儀。
その言葉が、部屋の静けさの中で重く残った。
タニヤは机の上の巻物に手を置いた。
「今夜は神殿に泊まるといい。客室はこちらで用意しよう」
そして、ほんの少し声を低くした。
「影が近い。油断するな」
その言葉だけを残し、タニヤは静かに三人を見た。
「外に世話係を待たせてある。部屋まで案内させよう」
リアが深く一礼する。
「はい」
レイとミラも、それに倣った。
扉が閉じる直前、レイは一度だけ振り返る。
タニヤは机の向こうに立ったまま、動かない。
部屋の宝玉が、またひとつ淡く脈打った。
レイは小さく息を吸い、扉の向こうへ歩き出した。
神官長の間の静けさが、背後でゆっくりと閉じていった。




