シルヴィへ戻る道
翌朝、ハルム村はうっすらと雪に包まれていた。
夜のあいだに降った雪が、家々の屋根を白く染めている。
湖の方から吹く風は冷たく、指先がすぐにかじかむ。
空は昨日より明るい。
雲の切れ間から差し込む朝の光が、凍った湖面を淡く照らしている。
レイは戸口の前で、湖の向こうへ続く冷たい空を見つめていた。
ここから、あの丘は見えない。
昨日、石柱と聖堂があった場所は、雪と岩場の向こうに隠れている。
地下祭壇の青白い結晶。
裂け目から現れた異獣。
世界から抜け落ちるように消えた聖堂。
全部、自分の目で見たものだ。
それでも朝の光の下では、あれが本当にあったのか、少しだけ遠い出来事のように思える。
「レイ、そろそろ行けそう?」
背後からミラの声がした。
振り向くと、ミラは外套の留め具を直しながら立っていた。
腰には双剣。肩には荷物。
ガイの手帳は、いつものように革紐でしっかり留められている。
「ああ。行けるよ」
「ほんとに? なんかまだふらついてない?」
「大丈夫。なんとかなりそう」
「無理なら置いてくよ」
「ほっとけないくせに」
レイがそう返すと、ミラは一瞬だけ目を丸くした。
「……あー、そういうこと言うようになったんだ」
「え、だめだったか?」
「別に。いいんじゃない?」
ミラは小さく笑った。
その笑い方がいつも通りだったので、レイも少しだけ肩の力が抜ける。
家の中から、ハンナが包みを持って出てきた。
「これ、道中で食べなさい。パンと干し肉、それから少しだけ焼き菓子も入れてあるから」
「ありがとうございます」
レイが受け取ると、包みは思ったよりも温かかった。
焼き菓子の甘い匂いが、布の隙間からほんのり漂ってくる。
「寒い道だからね。ちゃんと食べるんだよ」
「はい」
ミラが横から覗き込む。
「焼き菓子もあるの?」
「あるよ。あんたたちは、昨日それだけのことをしてきたんだから」
ハンナはそう言って、少しだけ眉を下げた。
「こんなんじゃ全然足りないよ。本当は、もう一晩くらい休ませたいんだけどね」
「気持ちはありがたいよ。でも、早く調べたい事があるの」
アレクは戸口の脇で腕を組み、二人を見ていた。
いつものように無愛想な顔だったが、その目は昨日よりずっと穏やかだった。
「シルヴィへ行くなら、山道に入る前に一度、祈り柱のある道を通れ。湖沿いの近道は避けた方がいい」
「分かった」
レイが頷く。
「昨日は、本当にありがとうございました。泊めてもらって、食事まで……」
「それはいい」
アレクは短く言った。
それから、少しだけ言葉を探すように口を閉じる。
風が吹き、屋根の雪がさらさらと落ちた。
「……昨日、言いそびれた」
アレクは、レイとミラを順に見た。
「もし、あの丘に出たものが村へ下りてきていたら、俺たちだけじゃどうにもならなかった。漁に出ていた連中が、先に襲われていたかもしれん」
低い声だった。
「おまえたちは、村を守ってくれたんだ。ありがとう」
レイは一瞬、返す言葉に迷った。
守った。
そう言われても、実感はすぐには追いつかない。
あのときは、ただ必死だった。
目の前の異獣を止めること。
ミラと一緒に生きて外へ出ること。
それだけで精一杯だった。
けれど、アレクの言葉を聞いて、ようやく少しだけ分かった。
あの異獣が村へ来ていたら。
夜の湖から、黒い靄をまとった咆哮が近づいていたら。
暖炉の前で眠る子どもたちも、朝の漁に出る村人たちも、無事では済まなかったかもしれない。
レイは小さく息を吸い、まっすぐ頭を下げた。
「……村が無事でよかったです」
アレクの言葉を聞いて、ようやく自分たちが守れたものの大きさが少しだけ分かった。
ミラも少しだけ照れたように頬をかく。
「まあ、倒したのはほとんどレイだけどね」
「そんなことないだろ。ミラがいなかったら、俺だけじゃ無理だった」
「はいはい。じゃあ、二人で頑張ったってことで」
ミラは軽く言ったが、その目は少しだけ優しかった。
アレクはふっと息を吐く。
「また来い。今度は、いい土産話を聞かせろ」
「うん。そうする」
「気をつけてね」
ハンナがレイの外套の襟元を軽く整える。
「シルヴィへ着いたら、ちゃんと休むんだよ。若いからって無理ばかりするんじゃないよ」
「はい」
レイが頷くと、ハンナは少し安心したように笑った。
そうして、二人はハルム村を出た。
村の外へ続く道は、薄く雪に覆われている。
足を踏み出すたび、雪が小さく鳴った。
湖から離れるにつれて、冷たい風は少しずつ弱くなる。
岩場の道を抜け、針葉樹の影を越え、二人は南へ向かった。
シルヴィまでは、歩いて二日以上かかる。
一日目は、ノースライトの冷たい風がずっと背中にまとわりついていた。
日が落ちる前に、二人は街道沿いに岩陰を見つけた。
近くには古い祈り柱があり、白い石の表面に刻まれたルミナスの紋章が、薄く光を宿している。
二人は小さな火を起こし、ハンナにもらったパンと干し肉を分け合った。
焼き菓子を少しだけかじると、冷えた身体に甘さがじんわり広がる。
夜が深まると、ノースライトの風はさらに冷たくなった。
星はよく見えた。
けれど、夜は静かすぎて、遠くの風の音まで刃のように聞こえた。
翌朝、二人は白い息を吐きながら再び歩き出した。
二日目になると、道の脇に残る雪は少しずつ減っていった。
祈り柱の光も、ノースライトで見たものよりわずかに濃く、白い石の表面に淡い温もりを宿している。
その夜、二人は街道から少し外れた場所に、野営に使えそうな洞穴を見つけた。
風をしのげそうだと中を確かめていると、奥から熊に似た異獣が姿を現した。
ミラが素早く横へ回り、異獣の注意を引く。
その隙にレイが踏み込み、動きが崩れたところへ二人の刃が続けて入る。
異獣は洞穴の入口近くで倒れ、それ以上、何かが出てくる気配はなかった。
「……野営の前に掃除することになるとはね」
ミラが双剣を収めながら言う。
「掃除って言うには、相手が大きすぎるだろ」
レイも剣を下ろし、息を吐いた。
ノースライトの地下での戦いを越えて、二人の連携はかなり馴染んでいた。
それから二人は洞穴の入口近くに小さな火を起こした。
湯を沸かし、ハンナにもらった干し肉を少し炙る。
パンを火で温めると、香ばしい匂いが洞穴の入口に広がった。
簡単な食事を終えると、二人は剣を手の届く場所に置いて眠りについた。
完全に気を抜くことはできない。
それでも、外では冷たい風が木々を揺らし、夜は静かに過ぎていった。
翌日。
三日目の昼前、木陰で休んでいたとき、ミラはガイの手帳を開いていた。
「やっぱり、あの聖堂……流れ着いたって考えた方が自然だと思う」
白い石柱には、ルミナスの紋章が薄く刻まれている。
ノースライトで見たものより、その光は少しだけはっきりしていた。
「境界の岸、だっけ」
レイが聞くと、ミラは頷いた。
「うん。ガイの手帳に何度か出てくる。裂け目はただの穴じゃない、って。世界と世界じゃない場所の、波打ち際みたいなものだって」
「波打ち際……」
レイは遠くの山並みを見た。
前にいた世界。
その言葉が、胸の奥に小さく浮かぶ。
けれど、もう「どちらが現実か」なんて考え方はできなかった。
母さんと暮らしていたあの世界も、ガレンに拾われ、リアやミラと出会ったこの世界も、どちらも確かに自分が生きてきた場所だ。
あの対岸に、自分がいた場所もあるのだろうか。
母さんは、元気にしているだろうか。
そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ締めつけられた。
けれど、答えは出ない。
今はまだ、そこへ手を伸ばせるほど何も分かっていない。
「シルヴィの図書館に、何かあるかな」
「あるといいね。なかったら、別の手を考える」
「別の手?」
「そう。古い神官に聞くとか、神殿の偉い人に話を通すとか」
「いきなり難しくなったな」
「だからまずは図書館。できれば本で済ませたい」
ミラはそう言って、手帳を閉じた。
「本で済むなら、それが一番平和だな」
レイがそう返すと、ミラは小さく笑った。
午後になると、空気の色が変わり始めた。
ノースライトの鋭い冷たさが薄れ、道の脇に残る雪も少なくなっていく。
石畳の先には、シルヴィへ向かう巡礼者らしい人影も見え始めた。
祈り柱の光も、少しずつ濃くなる。
レイは歩きながら、ポーチの中にしまったルミナスの花を思い出した。
アストラリス神殿で受け取った花。
あの夜、自分の手の中で光を宿した花。
シルヴィへ戻れば、また会えるだろうか。
そう思ったところで、レイは足を緩めた。
「どうしたの?」
ミラが振り向く。
「いや、ちょっと」
レイはポーチを開き、薄い布に包んでいた花を取り出した。
ルミナスの花は、まったくしおれていなかった。
ミラが横から覗き込む。
「ルミナスの花?」
「ああ」
「綺麗ね。どうしたの?」
「前に、アストラリス神殿でもらったんだ」
レイは花を掌に乗せたまま、少しだけ目を細める。
淡く青白い色の花弁は、旅のあいだずっと持ち歩いていたとは思えないほど瑞々しかった。
その輪郭には、薄い光の膜がまだ静かに残っている。
ミラが目を丸くした。
「え? 全然萎れてないね」
「うん。俺も、不思議なんだけど」
レイは小さく息を吐いた。
「あの日から、ずっとこのままなんだ」
ミラはしばらく花を見つめていた。
軽く茶化すかと思ったが、そうはしなかった。
その目は、花弁ではなく、花を包む淡い光の膜を追っている。
「……そういえば」
「ん?」
「あの聖堂が消えたとき。レイが私を抱えて飛んだでしょ」
「ああ」
「そのとき、私も何かに包まれてた気がする」
ミラは花から目を離さずに言った。
「こんな感じの……薄い光の膜みたいなもの。なんか守られてるって感じがした」
レイは手の中の花を見下ろした。
淡い金の膜が、花弁の輪郭に沿って静かに揺れている。
「俺も、はっきり覚えてるわけじゃない。ただ、守らなきゃって思って……気づいたら身体が動いてた」
「それで私まで包んだってわけ?」
「たぶん」
「たぶん、であの跳び方したの?」
「必死だったんだよ」
レイがそう言うと、ミラは少しだけ笑った。
「まあ、助けてくれたんだから文句はないけど」
その声は軽い。
けれど、最後に少しだけ柔らかさが混じっていた。
レイはルミナスの花をもう一度見つめ、丁寧に布で包み直した。
この花に光が宿ったときも、聖堂が呑まれたときも、同じだった。
守りたいと思った瞬間、淡い光が膜のように広がる。
それは自分を包み、手の届く相手まで覆って、危ういものから守ろうとする。
自分が術として扱えているわけではない。
けれど、胸元の青い石は、確かにその願いに応えている。
少しずつ、その感覚だけは分かり始めていた。
レイは花をポーチへ戻し、前を向いた。
白い石段。
水盤の光。
栗色の髪の巫女。
その光景が自然と浮かび、胸の奥がほんの少し温かくなる。
「何か嬉しそう」
ミラが横から覗き込んだ。
「え?」
「いや、今ちょっと顔が緩んでた」
「そうか?」
「そうだよ。シルヴィに何か楽しみでもある?」
レイは少しだけ言葉に詰まった。
「……まあ、ちょっと」
「ふうん」
ミラはそれ以上聞かなかった。
ただ、口元に小さな笑みだけ残して、前を向く。
レイもそれ以上は言わず、坂道の先へ視線を戻した。
日が傾くころ、遠くにシルヴィの町並みが見え始めた。
セレスティアル山のふもとに白い石壁が連なり、その上の方には、アストラリス神殿の尖塔が淡く光を受けている。
レイは足を止め、ひとつ息を吸う。
ノースライトの冷たい空気とは違う。
ここには、ルミナスの加護がある。
けれど、ただ安心できるだけの場所ではない。
この光の奥に、知らなければならないものが眠っている。
「行こう」
レイが言うと、ミラはガイの手帳を抱え直した。
「うん。まずは図書館だね」
二人は白い石畳へ足を踏み入れた。
祝福の町シルヴィ。
そして、アストラリス神殿そばの図書館へ。
次の答えを探すために。




