雪夜の報告
ハルム村の湖畔は、降り始めた雪にやわらかく覆われていた。
薄く張った氷の上に、雲間からこぼれる月光が揺れている。静かな水面は、眠りにつく前の呼吸のように、ゆっくりと光を返していた。
家々の窓から漏れる灯りが、夜の冷えをほぐしている。
その灯りに導かれるように、レイとミラは湖畔の小道を進んだ。
レイの足取りは重い。
山道を下るあいだ、何度かミラの肩を借りた。意識ははっきりしているのに、身体の芯が鉛のように重い。さっき石畳を飛び越えた時の光は、もう残っていなかった。
「……早く、あったかいもの食べたい」
小さくこぼすと、ミラが横から顔を覗き込んだ。
「それ言えるなら、まだ大丈夫そうだね」
「へーきへーき。ちょっと疲れただけ」
「そんなことないでしょ。軽口叩かないの」
そのやり取りに、少しほっとした。
やがて、アレクの家に辿り着いた。
ミラが扉を叩くと、すぐに中から足音が近づいてきた。
軋む音とともに扉が開く。
「ミラ、レイ! 戻ったか!」
アレクの太い声が、夜の冷気を押し返すように響いた。
その顔には、はっきりとした安堵が浮かんでいた。けれど、レイの様子を見るなり、すぐに眉が寄る。
「……ただ事じゃなかったみたいだな。顔を見りゃ分かる」
奥からハンナも顔を出した。
「二人とも、早く入って。冷えきってるじゃない」
「……はい」
レイは素直に頷き、家の中へ入った。
暖炉の火が、静かに揺れている。
椅子に腰を下ろした瞬間、身体の力が一気に抜けた。外套についた雪が、火の熱に触れて小さく溶けていく。
少しして、湯気の立つスープが運ばれてきた。
ハーブの香りが、ゆっくりと部屋に広がる。
「ゆっくり飲みなさい。熱いから気を付けてね」
レイは器を両手で包み、一口飲んだ。
温かさが、喉から胸へ落ちていく。
「……うまい」
それだけ言うのが、精一杯だった。
ハンナが少しだけ表情をやわらげる。
頭の奥に残っていた戦いの残像が、少しだけ遠のく。
黒い靄。
青白い光。
剣に走った淡い輝き。
そして、裂け目に呑まれて消えた聖堂。
考えようとしても、うまくまとまらない。
「じゃあ、説明は私がするね。レイは休んでて」
アレクは腕を組み、深く頷いた。
「頼む。順番に聞かせてくれ」
ミラは小さく息を整える。
「まず、アレクが言ってた石の柱は本当にあった」
アレクの目が細くなる。
「小高い丘の上。石柱の奥に、聖堂みたいな建物があった。今まで、あそこにはなかったものなんだよね?」
「ああ。少なくとも、俺も他の漁に出ている連中も見たことがない」
ミラは頷いた。
「中は古い聖堂みたいだった。でも、普通の聖堂じゃない。壁には星形の紋様があって、床や壁には細い溝みたいなものが走ってた」
アレクは黙って続きを促した。
「奥の階段を降りると広い地下空間があって、中央の祭壇に青白い結晶があった」
ミラの声が少し低くなる。
「その直後、影の教団が来た」
部屋の空気が、わずかに沈んだ。アレクの表情から、温度が消える。
「……やつらか」
「黒いローブの集団。地下の祭壇にまっすぐ向かってた。たぶん、あの結晶を調べるか、回収するつもりだったんだと思う」
「それで、戦ったのか?」
「見つかったからね」
ミラは短く言った。
「最初は、こっちを排除しようとしてきた。でも途中で、祭壇の結晶が変な反応を起こした。青白い光に赤黒い揺らぎが混じって、空間が裂けた」
ハンナが、鍋を持つ手を止めた。
「裂けた、って……」
「裂け目みたいなものが開いた。そこから、異獣が出てきた」
アレクの腕に、わずかに力が入る。
ミラは少し間を置いた。
「マンティコア。そう呼ばれる異獣の姿に近かった」
アレクの目が、はっきりと見開かれる。
「……マンティコアだと?」
「うん。でも、聞いていたマンティコアとは違っていた気がする」
ミラの声は軽くなかった。
「黒い靄をまとって、輪郭が黒く滲んでた。獣の咆哮なのに、奥に人の呻きみたいな音も混じってた」
暖炉の火が、ぱちりと音を立てる。
「少なくとも、ただの異獣には見えなかった」
アレクはしばらく黙った。
その視線が、レイへ向く。
レイはスプーンを置いた。
少し間を置いて、短く答える。
「……でもなんとか倒したよ」
沈黙が落ちる。
次の瞬間、アレクが額に手を当てた。
「……待て。マンティコアに近い異獣を、二人で倒したのか」
ミラは肩をすくめる。
「かなり危なかったけどね」
「危なかったで済ませる話じゃねえだろ……」
アレクはしばらく黙り込み、やがて深く息を吐いた。
「……正直、ここまでやれるとは思ってなかった」
その声には、驚きと、隠しきれない感心が混じっていた。
レイは小さく肩をすくめる。
「俺も、思ってなかった……」
本音だった。
ハンナがレイの前に、もう一杯スープを置いた。
「無理をした後なんだから、少しでも温かいものを入れておきなさい」
「……ありがとうございます」
レイは素直に頷いた。
そのやり取りで、張り詰めていた空気が少しだけやわらぐ。
ミラは暖炉の火へ視線を移した。
「異獣を倒したあと、外に出た。そしたら、聖堂の周りの空間が歪み始めた」
アレクの顔が険しくなる。
「歪む……?」
「石畳が沈んで、赤黒い光が走って、聖堂そのものが裂け目に引き込まれていった。崩れたんじゃない。建物ごと、世界から抜け落ちるみたいに消えた」
ハンナが小さく息を呑む。
アレクも、しばらく言葉を返さなかった。
「聖堂ごと、か」
ようやく、低い声が落ちる。
「うん」
ミラは頷いた。
「今はもう、あの丘には残ってないと思う。少なくとも、私たちが見た聖堂は消えた」
「影の教団は?」
「退いた。あの聖堂にあったものも、回収できてない」
アレクは机の上を見つめ、少し考え込んだ。
やがて、深く息を吐く。
「……分かった。ひとまず、村に被害が出なかっただけでもよしとするしかねえな」
ミラは静かに頷いた。
「だから、持ち帰ったのは見たことだけ。石柱と聖堂があった。影の教団が来た。マンティコアに近い異獣が出た。それをなんとか倒した。そして、聖堂は裂け目に呑まれて消えた」
「十分すぎるな」
アレクは短く言った。
その声には、重さがあった。
レイはスープの器を両手で包みながら、ぼんやりと聞いていた。
言葉は耳に入っている。
けれど、意味までは追いきれない。
聖堂。
影の教団。
黒い裂け目。
どれも確かに見たはずなのに、疲れのせいか、頭の中ではぼんやりと輪郭が滲んでいた。
ハンナが心配そうにレイの顔を覗き込む。
「レイ、もう無理して聞いていなくてもいいわ。今日は休みなさい」
「……大丈夫です」
そう言ったつもりだった。
けれど、自分でも驚くほど声がかすれていた。
ミラが横で肩をすくめる。
「それ、全然大丈夫な声じゃないよ」
「まだ……」
言い返そうとして、言葉が続かなかった。
眠気が一気に押し寄せてくる。
暖炉の火が、ぼやけて見えた。
器を包む手の力が抜けかけたところで、ハンナがそっと器を受け取る。
「ほら、もう寝なさい」
アレクが立ち上がった。
「暖炉の前に毛皮を敷いてある。そこで横になれ」
「……すみません」
レイは立とうとしたが、足に力が入らない。
アレクが片腕を貸し、ミラが反対側から支える。
「ほら、無理するな」
「……はい」
暖炉の前に敷かれた毛皮の上へ横になると、身体が沈み込むようだった。
厚い毛布が肩に掛けられる。
火の熱が、頬にやわらかく届いた。
外では雪が、静かに降り続いている。
ハンナの足音。
アレクの低い声。
ミラが何かを小さく言った気がした。
けれど、もう聞き取れない。
レイは暖炉の火を見つめたまま、ゆっくりと眠りに落ちていった。
夜が深まっていた。
アレクとハンナが休んだあと、家の中には暖炉の火が小さくはぜる音だけが残っていた。
レイは、ふと目を覚ました。
いつの間に眠っていたのか、はっきりしない。暖炉の前に敷かれた毛皮の上に横になっていて、足元に厚い毛布が掛けられていた。
すぐそばには、ミラがいた。
床に座り込み、膝の上にガイの手帳を広げている。火の明かりが、古びた頁の端を淡く照らしていた。
「……起きてたんだ」
声をかけると、ミラが顔を上げた。
「あ、起きた」
「俺、いつの間にか寝てた?」
「うん。スープ持ったまま落ちかけてた。アレクが、暖炉の前に寝かせてくれたよ」
「……朝になったら礼言わないとな」
レイは身体を起こそうとして、少しだけ顔をしかめた。まだ全身が重い。無理に動くと、身体の奥に残った疲れがじわりと戻ってくる。
ミラは手帳を閉じずに、暖炉の火へ視線を戻した。
「アレクたちには、あそこまででよかったと思う」
「あそこまで?」
「聖堂があったこと。影の教団が来たこと。マンティコアに近い異獣が出たこと。最後に、聖堂が裂け目に呑まれたこと」
ミラは、頁の端を指で押さえる。
「レプリカとか、蒼の神髄とかまでは……巻き込まない方がいい」
レイは少しだけ黙った。
アレクとハンナの顔が浮かぶ。
温かい家。スープの匂い。心配そうに覗き込んできた目。
「……そうだな」
レイは小さく頷いた。
「あの二人には、世話になっているからな」
「うん」
ミラは手帳を見下ろした。
火の明かりに照らされた頁には、細い線で描かれた遺跡の図と、ガイの字が並んでいる。
しばらく、暖炉の火がはぜる音だけが続いた。
ミラは何かを言いかけて、けれどすぐには口にしなかった。
指先で手帳の端をなぞり、少しだけ息を整える。
「……眠れなくてさ」
ミラは小さく笑った。
「今日見たもの、どこかでガイが追ってたものに近い気がして」
「ガイが?」
「うん」
ミラの指が、手帳の角で止まる。
「この手帳、ガイが残したものなんだ」
「残した……?」
レイが聞き返すと、ミラは少しだけ目を伏せた。
「ガイは、私を育ててくれた人」
暖炉の薪が、小さく音を立てた。
「物心ついた頃には、私は孤児院にいたんだ。自分の親のことは、覚えてない」
ミラは手帳の端を、指先でそっとなぞった。
「そこに来たのがガイだった。私を引き取って、いろんなことを教えてくれた」
火の明かりが、手帳の古い紙を淡く照らす。
「双剣の扱いも、旅の仕方も、遺跡の見方も、だいたいガイから習った。ガイも双剣使いでさ、あの人の動きに憧れたんだ」
ミラの声は、いつもより少しだけ静かだった。
「私が小さい頃から、あの人はずっと何かを追ってた。星刻文明の遺跡とか、裂け目とか、星の涙に関わる記録とか」
ミラは手帳を開いたまま、火を見つめている。
「何年か前、ノースライト地方の遺跡を調べてた時に、影の教団に襲われた」
その名前が出た瞬間、暖炉の火の音まで少し遠くなった気がした。
「今日のやつらと同じ?」
「たぶんね。黒いローブ。黒い靄。あの嫌な感じ」
ミラの指先に、かすかに力が入る。
「ガイは、私を逃がした。自分が囮になるって言って」
ミラは、ほんの少しだけ唇を噛む。
「……言われた通りに走った。そうするしかなかった」
「後で戻った。でも、ガイはいなかった。遺体もなかった。残ってたのは、この手帳だけ」
「それからずっと、分からないままなんだ」
ミラは手帳に視線を落とす。
「ガイが何を見つけたのか。何に近づきすぎたのか。どうして影の教団に狙われたのか」
火の明かりが、ミラの横顔を淡く照らしていた。
その表情には、怒りだけではないものがあった。
寂しさ。
悔しさ。
それでも目を逸らさずに進もうとする強さ。
「今日の聖堂を見て、思った」
ミラは静かに続けた。
「あの人が追っていたものは、まだどこかに繋がってる。あの人が消えた理由も、その先に残ってるのかもしれない」
ミラは小さく息を吐いた。
「知りたい。ガイが探し求めていたものを」
ミラは手帳に視線を落としたまま、少しだけ続けた。
「今日見たものは、たぶんガイが追っていたものに近い。レイと一緒にいれば、そこに近づける気がする」
レイはミラを見る。
暖炉の火が、彼女の横顔を淡く照らしていた。
「だからさ」
ミラは少しだけ言葉を探すようにしてから、顔を上げた。
「この先も、ついていっていい?」
その言葉は、不思議なくらい自然に胸へ落ちた。
ミラが隣にいることを、レイはもうどこかで当たり前のように感じていたのかもしれない。
「もちろん!」
レイは頷いた。
「ミラがいてくれたら助かる。俺一人じゃ、今日の聖堂のことも、きっと何も分からなかった」
「そう言ってもらえると、ちょっと安心する」
ミラは小さく笑った。
「じゃあ、これからもよろしく」
「ああ。よろしく、ミラ」
言ってから、少しだけ間が空いた。
ミラは手帳へ視線を落とし、照れたように小さく笑う。
「……なんか、こういうの、ちょっと照れくさいね」
「まあ……ちょっとな」
レイもつられて笑った。
レイは少しだけ考えてから、口を開く。
「どこか、手がかりがありそうな場所ってないかな」
ミラは手帳の頁を指で押さえたまま、考えるように目を細めた。
「うーん……あるとしたら…シルヴィかな」
「シルヴィ?」
「うん。アストラリス神殿のそばに、図書館があるでしょ。あそこなら、星刻文明や裂け目に関する記録が少しは残ってるかもしれない」
シルヴィ。
その名前を聞いた瞬間、レイの胸の奥に、かすかな温もりが灯った。
白い石段。
水盤に散った光。
青い花。
そして、栗色の髪の巫女。
リア。
ポーチの中に入れてあるルミナスの花を思い出す。あの花は、今も淡い光を宿しているはずだった。
「……何か、心当たりあるの?」
ミラがちらりとこちらを見る。
「え?」
「今、ちょっと顔変わった」
「……いや、別に」
レイは少しだけ視線をそらした。
「前に行った町だから、ちょっと思い出しただけ」
「ふうん」
ミラは少しだけ目を細めた。
気づいていない顔ではなかった。
けれど、それ以上は聞いてこなかった。
「じゃあ、次はシルヴィだね」
「ああ」
レイは頷いた。
眠気はまだ残っている。
けれど、胸の奥に小さな灯りがともったような気がした。
消えた聖堂。
星の涙のレプリカ。
影の教団。
ガイの手帳。
まだ分からないことばかりだ。
それでも、次に向かう場所だけは決まった。
暖炉の火が、静かに揺れる。
外では雪が降り続いていた。
湖は深い夜の中で、月明かりを抱いたまま眠っている。
シルヴィ。
祝福の町。
そして、もう一度たどるべき光の場所へ。
レイたちの道は、静かに繋がり始めていた。




