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エテルナ ―星の涙と帰る光―  作者: Takeko
第3章 ノースライト地方と星の涙のレプリカ
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雪夜の報告

ハルム村の湖畔は、降り始めた雪にやわらかく覆われていた。


薄く張った氷の上に、雲間からこぼれる月光が揺れている。静かな水面は、眠りにつく前の呼吸のように、ゆっくりと光を返していた。


家々の窓から漏れる灯りが、夜の冷えをほぐしている。


その灯りに導かれるように、レイとミラは湖畔の小道を進んだ。


レイの足取りは重い。


山道を下るあいだ、何度かミラの肩を借りた。意識ははっきりしているのに、身体の芯が鉛のように重い。さっき石畳を飛び越えた時の光は、もう残っていなかった。


「……早く、あったかいもの食べたい」


小さくこぼすと、ミラが横から顔を覗き込んだ。


「それ言えるなら、まだ大丈夫そうだね」


「へーきへーき。ちょっと疲れただけ」


「そんなことないでしょ。軽口叩かないの」


そのやり取りに、少しほっとした。


やがて、アレクの家に辿り着いた。


ミラが扉を叩くと、すぐに中から足音が近づいてきた。


軋む音とともに扉が開く。


「ミラ、レイ! 戻ったか!」


アレクの太い声が、夜の冷気を押し返すように響いた。


その顔には、はっきりとした安堵が浮かんでいた。けれど、レイの様子を見るなり、すぐに眉が寄る。


「……ただ事じゃなかったみたいだな。顔を見りゃ分かる」


奥からハンナも顔を出した。


「二人とも、早く入って。冷えきってるじゃない」


「……はい」


レイは素直に頷き、家の中へ入った。


暖炉の火が、静かに揺れている。


椅子に腰を下ろした瞬間、身体の力が一気に抜けた。外套についた雪が、火の熱に触れて小さく溶けていく。


少しして、湯気の立つスープが運ばれてきた。


ハーブの香りが、ゆっくりと部屋に広がる。


「ゆっくり飲みなさい。熱いから気を付けてね」


レイは器を両手で包み、一口飲んだ。


温かさが、喉から胸へ落ちていく。


「……うまい」


それだけ言うのが、精一杯だった。


ハンナが少しだけ表情をやわらげる。


頭の奥に残っていた戦いの残像が、少しだけ遠のく。


黒い靄。


青白い光。


剣に走った淡い輝き。


そして、裂け目に呑まれて消えた聖堂。


考えようとしても、うまくまとまらない。


「じゃあ、説明は私がするね。レイは休んでて」


アレクは腕を組み、深く頷いた。


「頼む。順番に聞かせてくれ」


ミラは小さく息を整える。


「まず、アレクが言ってた石の柱は本当にあった」


アレクの目が細くなる。


「小高い丘の上。石柱の奥に、聖堂みたいな建物があった。今まで、あそこにはなかったものなんだよね?」


「ああ。少なくとも、俺も他の漁に出ている連中も見たことがない」


ミラは頷いた。


「中は古い聖堂みたいだった。でも、普通の聖堂じゃない。壁には星形の紋様があって、床や壁には細い溝みたいなものが走ってた」


アレクは黙って続きを促した。


「奥の階段を降りると広い地下空間があって、中央の祭壇に青白い結晶があった」


ミラの声が少し低くなる。


「その直後、影の教団が来た」


部屋の空気が、わずかに沈んだ。アレクの表情から、温度が消える。


「……やつらか」


「黒いローブの集団。地下の祭壇にまっすぐ向かってた。たぶん、あの結晶を調べるか、回収するつもりだったんだと思う」


「それで、戦ったのか?」


「見つかったからね」


ミラは短く言った。


「最初は、こっちを排除しようとしてきた。でも途中で、祭壇の結晶が変な反応を起こした。青白い光に赤黒い揺らぎが混じって、空間が裂けた」


ハンナが、鍋を持つ手を止めた。


「裂けた、って……」


「裂け目みたいなものが開いた。そこから、異獣が出てきた」


アレクの腕に、わずかに力が入る。


ミラは少し間を置いた。


「マンティコア。そう呼ばれる異獣の姿に近かった」


アレクの目が、はっきりと見開かれる。


「……マンティコアだと?」


「うん。でも、聞いていたマンティコアとは違っていた気がする」


ミラの声は軽くなかった。


「黒い靄をまとって、輪郭が黒く滲んでた。獣の咆哮なのに、奥に人の呻きみたいな音も混じってた」


暖炉の火が、ぱちりと音を立てる。


「少なくとも、ただの異獣には見えなかった」


アレクはしばらく黙った。


その視線が、レイへ向く。


レイはスプーンを置いた。


少し間を置いて、短く答える。


「……でもなんとか倒したよ」


沈黙が落ちる。


次の瞬間、アレクが額に手を当てた。


「……待て。マンティコアに近い異獣を、二人で倒したのか」


ミラは肩をすくめる。


「かなり危なかったけどね」


「危なかったで済ませる話じゃねえだろ……」


アレクはしばらく黙り込み、やがて深く息を吐いた。


「……正直、ここまでやれるとは思ってなかった」


その声には、驚きと、隠しきれない感心が混じっていた。


レイは小さく肩をすくめる。


「俺も、思ってなかった……」


本音だった。


ハンナがレイの前に、もう一杯スープを置いた。


「無理をした後なんだから、少しでも温かいものを入れておきなさい」


「……ありがとうございます」


レイは素直に頷いた。


そのやり取りで、張り詰めていた空気が少しだけやわらぐ。


ミラは暖炉の火へ視線を移した。


「異獣を倒したあと、外に出た。そしたら、聖堂の周りの空間が歪み始めた」


アレクの顔が険しくなる。


「歪む……?」


「石畳が沈んで、赤黒い光が走って、聖堂そのものが裂け目に引き込まれていった。崩れたんじゃない。建物ごと、世界から抜け落ちるみたいに消えた」


ハンナが小さく息を呑む。


アレクも、しばらく言葉を返さなかった。


「聖堂ごと、か」


ようやく、低い声が落ちる。


「うん」


ミラは頷いた。


「今はもう、あの丘には残ってないと思う。少なくとも、私たちが見た聖堂は消えた」


「影の教団は?」


「退いた。あの聖堂にあったものも、回収できてない」


アレクは机の上を見つめ、少し考え込んだ。


やがて、深く息を吐く。


「……分かった。ひとまず、村に被害が出なかっただけでもよしとするしかねえな」


ミラは静かに頷いた。


「だから、持ち帰ったのは見たことだけ。石柱と聖堂があった。影の教団が来た。マンティコアに近い異獣が出た。それをなんとか倒した。そして、聖堂は裂け目に呑まれて消えた」


「十分すぎるな」


アレクは短く言った。


その声には、重さがあった。


レイはスープの器を両手で包みながら、ぼんやりと聞いていた。


言葉は耳に入っている。


けれど、意味までは追いきれない。


聖堂。


影の教団。


黒い裂け目。


どれも確かに見たはずなのに、疲れのせいか、頭の中ではぼんやりと輪郭が滲んでいた。


ハンナが心配そうにレイの顔を覗き込む。


「レイ、もう無理して聞いていなくてもいいわ。今日は休みなさい」


「……大丈夫です」


そう言ったつもりだった。


けれど、自分でも驚くほど声がかすれていた。


ミラが横で肩をすくめる。


「それ、全然大丈夫な声じゃないよ」


「まだ……」


言い返そうとして、言葉が続かなかった。


眠気が一気に押し寄せてくる。


暖炉の火が、ぼやけて見えた。


器を包む手の力が抜けかけたところで、ハンナがそっと器を受け取る。


「ほら、もう寝なさい」


アレクが立ち上がった。


「暖炉の前に毛皮を敷いてある。そこで横になれ」


「……すみません」


レイは立とうとしたが、足に力が入らない。


アレクが片腕を貸し、ミラが反対側から支える。


「ほら、無理するな」


「……はい」


暖炉の前に敷かれた毛皮の上へ横になると、身体が沈み込むようだった。


厚い毛布が肩に掛けられる。


火の熱が、頬にやわらかく届いた。


外では雪が、静かに降り続いている。


ハンナの足音。


アレクの低い声。


ミラが何かを小さく言った気がした。


けれど、もう聞き取れない。


レイは暖炉の火を見つめたまま、ゆっくりと眠りに落ちていった。


夜が深まっていた。


アレクとハンナが休んだあと、家の中には暖炉の火が小さくはぜる音だけが残っていた。


レイは、ふと目を覚ました。


いつの間に眠っていたのか、はっきりしない。暖炉の前に敷かれた毛皮の上に横になっていて、足元に厚い毛布が掛けられていた。


すぐそばには、ミラがいた。


床に座り込み、膝の上にガイの手帳を広げている。火の明かりが、古びた頁の端を淡く照らしていた。


「……起きてたんだ」


声をかけると、ミラが顔を上げた。


「あ、起きた」


「俺、いつの間にか寝てた?」


「うん。スープ持ったまま落ちかけてた。アレクが、暖炉の前に寝かせてくれたよ」


「……朝になったら礼言わないとな」


レイは身体を起こそうとして、少しだけ顔をしかめた。まだ全身が重い。無理に動くと、身体の奥に残った疲れがじわりと戻ってくる。


ミラは手帳を閉じずに、暖炉の火へ視線を戻した。


「アレクたちには、あそこまででよかったと思う」


「あそこまで?」


「聖堂があったこと。影の教団が来たこと。マンティコアに近い異獣が出たこと。最後に、聖堂が裂け目に呑まれたこと」


ミラは、頁の端を指で押さえる。


「レプリカとか、蒼の神髄とかまでは……巻き込まない方がいい」


レイは少しだけ黙った。


アレクとハンナの顔が浮かぶ。


温かい家。スープの匂い。心配そうに覗き込んできた目。


「……そうだな」


レイは小さく頷いた。


「あの二人には、世話になっているからな」


「うん」


ミラは手帳を見下ろした。


火の明かりに照らされた頁には、細い線で描かれた遺跡の図と、ガイの字が並んでいる。


しばらく、暖炉の火がはぜる音だけが続いた。


ミラは何かを言いかけて、けれどすぐには口にしなかった。


指先で手帳の端をなぞり、少しだけ息を整える。


「……眠れなくてさ」


ミラは小さく笑った。


「今日見たもの、どこかでガイが追ってたものに近い気がして」


「ガイが?」


「うん」


ミラの指が、手帳の角で止まる。


「この手帳、ガイが残したものなんだ」


「残した……?」


レイが聞き返すと、ミラは少しだけ目を伏せた。


「ガイは、私を育ててくれた人」


暖炉の薪が、小さく音を立てた。


「物心ついた頃には、私は孤児院にいたんだ。自分の親のことは、覚えてない」


ミラは手帳の端を、指先でそっとなぞった。


「そこに来たのがガイだった。私を引き取って、いろんなことを教えてくれた」


火の明かりが、手帳の古い紙を淡く照らす。


「双剣の扱いも、旅の仕方も、遺跡の見方も、だいたいガイから習った。ガイも双剣使いでさ、あの人の動きに憧れたんだ」


ミラの声は、いつもより少しだけ静かだった。


「私が小さい頃から、あの人はずっと何かを追ってた。星刻文明の遺跡とか、裂け目とか、星の涙に関わる記録とか」


ミラは手帳を開いたまま、火を見つめている。


「何年か前、ノースライト地方の遺跡を調べてた時に、影の教団に襲われた」


その名前が出た瞬間、暖炉の火の音まで少し遠くなった気がした。


「今日のやつらと同じ?」


「たぶんね。黒いローブ。黒い靄。あの嫌な感じ」


ミラの指先に、かすかに力が入る。


「ガイは、私を逃がした。自分が囮になるって言って」


ミラは、ほんの少しだけ唇を噛む。


「……言われた通りに走った。そうするしかなかった」


「後で戻った。でも、ガイはいなかった。遺体もなかった。残ってたのは、この手帳だけ」


「それからずっと、分からないままなんだ」


ミラは手帳に視線を落とす。


「ガイが何を見つけたのか。何に近づきすぎたのか。どうして影の教団に狙われたのか」


火の明かりが、ミラの横顔を淡く照らしていた。


その表情には、怒りだけではないものがあった。


寂しさ。


悔しさ。


それでも目を逸らさずに進もうとする強さ。


「今日の聖堂を見て、思った」


ミラは静かに続けた。


「あの人が追っていたものは、まだどこかに繋がってる。あの人が消えた理由も、その先に残ってるのかもしれない」


ミラは小さく息を吐いた。


「知りたい。ガイが探し求めていたものを」


ミラは手帳に視線を落としたまま、少しだけ続けた。


「今日見たものは、たぶんガイが追っていたものに近い。レイと一緒にいれば、そこに近づける気がする」


レイはミラを見る。


暖炉の火が、彼女の横顔を淡く照らしていた。


「だからさ」


ミラは少しだけ言葉を探すようにしてから、顔を上げた。


「この先も、ついていっていい?」


その言葉は、不思議なくらい自然に胸へ落ちた。


ミラが隣にいることを、レイはもうどこかで当たり前のように感じていたのかもしれない。


「もちろん!」


レイは頷いた。


「ミラがいてくれたら助かる。俺一人じゃ、今日の聖堂のことも、きっと何も分からなかった」


「そう言ってもらえると、ちょっと安心する」


ミラは小さく笑った。


「じゃあ、これからもよろしく」


「ああ。よろしく、ミラ」


言ってから、少しだけ間が空いた。


ミラは手帳へ視線を落とし、照れたように小さく笑う。


「……なんか、こういうの、ちょっと照れくさいね」


「まあ……ちょっとな」


レイもつられて笑った。


レイは少しだけ考えてから、口を開く。


「どこか、手がかりがありそうな場所ってないかな」


ミラは手帳の頁を指で押さえたまま、考えるように目を細めた。


「うーん……あるとしたら…シルヴィかな」


「シルヴィ?」


「うん。アストラリス神殿のそばに、図書館があるでしょ。あそこなら、星刻文明や裂け目に関する記録が少しは残ってるかもしれない」


シルヴィ。


その名前を聞いた瞬間、レイの胸の奥に、かすかな温もりが灯った。


白い石段。


水盤に散った光。


青い花。


そして、栗色の髪の巫女。


リア。


ポーチの中に入れてあるルミナスの花を思い出す。あの花は、今も淡い光を宿しているはずだった。


「……何か、心当たりあるの?」


ミラがちらりとこちらを見る。


「え?」


「今、ちょっと顔変わった」


「……いや、別に」


レイは少しだけ視線をそらした。


「前に行った町だから、ちょっと思い出しただけ」


「ふうん」


ミラは少しだけ目を細めた。


気づいていない顔ではなかった。


けれど、それ以上は聞いてこなかった。


「じゃあ、次はシルヴィだね」


「ああ」


レイは頷いた。


眠気はまだ残っている。


けれど、胸の奥に小さな灯りがともったような気がした。


消えた聖堂。


星の涙のレプリカ。


影の教団。


ガイの手帳。


まだ分からないことばかりだ。


それでも、次に向かう場所だけは決まった。


暖炉の火が、静かに揺れる。


外では雪が降り続いていた。


湖は深い夜の中で、月明かりを抱いたまま眠っている。


シルヴィ。


祝福の町。


そして、もう一度たどるべき光の場所へ。


レイたちの道は、静かに繋がり始めていた。


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