星の涙のレプリカ
静寂が戻った。
さっきまで地下空間を満たしていた重い圧は、嘘のように薄れている。残るのは、水滴が石を打つ音と、青白い光が床の溝をかすかに照らす揺らぎだけだった。
レイは、ゆっくりと剣を下ろした。
呼吸は荒く、腕も重い。それでも、視線だけはまだ落ちなかった。
身体の奥に、さっきまでの感覚がかすかに残っている。
踏み込んだとき。
振り抜いたとき。
胸元から腕へ、腕から剣へ、光が流れた感触。
ほんのわずかに、まだ指先が覚えていた。
「……レイ」
ミラの声がした。彼女もまた呼吸を乱していた。
「今の、何?」
「今の?」
「最後と、その前に斬り込んだ時。剣に光が走ってた。それに……胸元も光ってた」
レイは無意識に胸元を押さえた。
服の下に隠しているペンダント。
ガレンの声が、ふいに頭をよぎる。――あまり人に見せるな。いいな。
けれど今は、隠したままでは説明できない気がした。
少し迷ってから、服の内側へ手を入れる。
「……これ」
胸元から、青い石のペンダントを取り出した。
ミラの目が大きく見開かれた。
「……それが、さっき光ってたもの?」
いつもの軽やかな雰囲気が、わずかに薄れた。
「母さんからもらったんだ。お守りみたいなものかな」
「お守り、ね」
ミラは小さく呟いた。
その視線は、もうただの装飾品を見るものではなかった。青い石の奥に、何かを探すような目だった。
レイは自分の剣を見た。今はただの鉄剣に戻っている。そこに光は残っていない。
「……俺にも、よく分からない」
「自分でやったんじゃないの?」
「たぶん、違う。いや……使ったのは俺なんだけど」
言葉にしようとして、うまくまとまらない。
あの時、胸元のペンダントが脈打ち、身体が動き、剣に光が走った。
そのどれもが、自分の意志だけで起きたものではない気がした。けれど、完全に勝手に動かされたわけでもない。
「引っ張られた、っていうか……でも、最後は自分で踏み込んだ……」
レイはゆっくりと言った。
「この光が、剣についてきた感じだった」
「触ってもいい?」
ここまで見せた以上、隠しても仕方がない。
「……うん」
ミラは指先で、そっとペンダントの縁に触れた。
その瞬間、青い石の奥で、かすかな光が揺れた。
ミラの指が止まる。
「……うーん」
「何か分かる?」
「よく分からないけど、普通の術具とは違う気がする」
ミラはペンダントから指を離し、祭壇の結晶へ視線を向けた。
「さっきの反応、この結晶だけじゃない。たぶん、これとあんたのペンダントが呼び合った」
「呼び合った……?」
母から受け取った青い石。
アストラリス神殿の星の涙に反応したもの。
そして今、古代の聖堂の地下で、剣に光を走らせたもの。
「可能性の話だけど」
ミラは少しだけ声を落とした。
「星の涙と同じような力を持っているのかもしれない」
母から受け取った青い石が、星の涙とどこかでつながっている。そう考えた瞬間、胸の奥が小さくざわついた。
「……これが?」
それ以上、言葉は続かなかった。
その時、レイはふと周囲の違和感に気づいた。さっきまで倒れていたはずの黒ローブたちの姿がない。床には、黒い靄の跡がわずかに残っているだけだった。
「……いない」
ミラは目を細めた。
「退いたみたいだね」
影の教団。
その名を口にした時のミラの声が、レイの耳にまだ残っている。彼女にとって、あの黒いローブの集団は、ただの敵ではないのだろう。
レイは聞きかけて、口を閉じた。
ミラはもう周囲を見ていた。
壁の刻印。床に残る黒い靄の跡。祭壇へ続く細い溝。そして中央の結晶。
レイも自然と祭壇へ目を向ける。青く輝く結晶は、先ほどまでとは違い、今は静かに光を湛えているだけだった。
ミラが祭壇に近づき、結晶を覗き込んだ。
「……本物じゃないね」
レイは一歩近づく。
「本物じゃない?」
「たぶんね」
ミラは腰のポーチから、古びた手帳を取り出した。
ガイの手帳。
何度も開かれたのか、革の表紙は擦れ、角は丸くなっている。
ミラは素早くページをめくり、刻まれた図と目の前の結晶を見比べた。
「星の涙を真似たもの。ガイは、こういうのを“レプリカ”って書いてる」
「星の涙の……レプリカ」
レイは結晶を見つめる。あれほどの反応があったものが、偽物。その言葉が、すぐには噛み合わなかった。
ミラは指先で手帳の図をなぞる。
「形は似せられる。でも、本物みたいに世界を巡る流れには組み込めない」
「世界を巡る流れ?」
「ガイの言い方だと、《みなもと》の循環。星の涙は、その流れの核みたいなものらしい」
ミラは床へ視線を落とした。祭壇へ向かって集まる細い溝。その奥に、乾ききった跡のような青黒い筋がかすかに残っている。
「レプリカには、その流れを自然には作れなかった。だから足りない分を、外から巡らせてたんだと思う」
「外から……?」
「蒼い液体」
ミラは短く言った。
「手帳では、蒼の神髄って書いてある。星の涙から抽出した、高濃度の《みなもと》液……らしい」
レイは思わず、床の溝を見た。
「じゃあ、この溝は……」
「たぶん、その蒼の神髄を流すためのもの」
ミラの声は、いつものように軽くなかった。
「本物の星の涙を真似て作ったものを動かすために、本物の星の涙から奪った力を流していた。そういう仕組みだったんだと思う」
地下の青白い光が、静かに揺れた。
レイは言葉を失う。
綺麗に見えていた結晶が、少しだけ違うものに見えた。
美しい。けれど、どこか痛々しい。
「……そんなことまでして、これを作ったのか」
「昔の人たちが何を考えてたのかは分からない」
ミラは手帳を閉じる。
「でも、ガイはこれを危険なものとして扱ってた」
「危険……」
「本物ほど安定してない。けど、似た反応は起こせる。さっきみたいに」
レイはペンダントを見つめる。
「じゃあ、俺のこれが反応したのは……」
「そっちは、もっと分からない」
ミラは祭壇の結晶へ視線を戻す。
「ただ、無関係じゃないと思う」
無関係じゃない。その言葉が、胸の奥に沈む。
レイはペンダントを服の内側へ戻した。
偽物。
レプリカ。
そう言われても、あの瞬間に走った感覚だけは消えない。ペンダントと結晶が、確かに何かを交わした。その余韻だけが、胸の奥に残っていた。
ミラは祭壇から離れた。
「さて、長居しない方がいいよね」
「え? もう調べなくていいの?」
「調べたいよ。でも、やつらが、また来るかもしれない」
ミラは手帳をしまう。
「それに、今のあんた、かなり無理してるでしょ」
言われて、レイはようやく自分の手が震えていることに気づいた。腕だけではない。身体の芯まで、重くだるかった。
「……ちょっとだけな」
「ちょっとの顔じゃないよ」
ミラは軽く怒った顔をして言う。けれど、責める声ではなかった。
レイは最後にもう一度、結晶を見る。
青白い光が、静かに揺れている。戦いの激しさを、何も知らないかのように。それなのに、胸元のペンダントには、まだ微かな熱が残っていた。
聖堂の外へ出ると、冷たい空気が一気に頬を打った。
地下に満ちていた青白い静けさが背後へ遠ざかり、レイは思わず大きく息を吸う。白い息が、雪の混じる風にほどけた。
だが、安心する間もなかった。
突然、足元の石畳が、ぐにゃりと沈むように揺れた。
「な、何だ――」
空気が歪んでいる。
聖堂の入口から広がる石畳の継ぎ目に、赤黒い光が細く走った。
「これは……まさか……!」
ミラの声が鋭く跳ねた。
「走って!」
考えるより先に、腕を掴まれる。
聖堂の入口から続く石畳が、背後から波打つように崩れていく。
石の継ぎ目に赤黒い光が走り、足元の影がひび割れた。
レイは歯を食いしばり、ミラと一緒に駆け出した。
外套が風に煽られる。
ブーツが凍った石を蹴る。
背後で、石柱の一本が音もなく傾いた。
「石畳を抜けて!」
ミラが叫ぶ。
聖堂の周りに敷かれている石畳の先に、雪をかぶった土の地面が見える。
あと少し。
そう思った瞬間、二人の足元で石畳が大きく沈んだ。
「っ……!」
ミラの身体が横へ傾く。
レイも足を滑らせ、視界がぐらりと揺れた。
間に合わない。
そう脳裏をよぎった瞬間、服の下でペンダントが強く熱を持った。
考えるより先に、身体が動く。
胸元から淡い光が広がり、薄い膜のようにレイの身体を包んだ。
「ミラ!」
レイは崩れかけた体勢のまま踏み込み、ミラの身体を横抱きに抱え上げた。
「ちょ、レイ!?」
驚いた声が耳元で弾ける。
その瞬間、レイを包んでいた光の膜が、腕の中のミラへも広がった。
守るように。
二人をひとつの淡い光で包み込むように。
レイは奥歯を噛みしめ、残っている力を全部足に込めた。
凍った石畳を蹴る。
視界が跳ねた。
背後で、石の床が赤黒い光に割れていく。
ほんの一瞬、身体が宙に浮いた。
外套が風に広がり、ミラの髪が頬をかすめる。
次の瞬間、レイは雪をかぶった土の上へ転がり込んだ。
腕の中のミラをかばうように肩から落ち、息が詰まる。
薄い光の膜が、一度だけ揺れて、砕けるようにほどけた。
それでも、石畳の外へ出られた。
土の冷たさが、頬に触れている。
その直後、背後で空間が裂けた。
音ではない。
世界そのものが破れるような、低く深い震えだった。
レイは顔を上げる。
聖堂の中央から、黒い裂け目が開いていた。
それはただの闇ではない。青白い光を呑み込みながら、赤黒い筋を星形に広げ、石柱も、階段も、入口も、ゆっくりと内側へ引きずり込んでいく。
「……これが…星の裂け目」
ミラが息を呑むように呟いた。
その声には、はっきりとした震えがあった。
「ガイの手帳にあった。星刻文明の遺構が、裂け目に呑まれたり、別の場所に流れ着いたりすることがあるって」
レイは何も言えなかった。
青白い光が、聖堂の奥で一度だけ強く瞬く。
次の瞬間、建物の輪郭がずれた。
石の壁が薄くなり、柱の影が引き伸ばされ、祭壇へ続く入口の奥が黒く沈んでいく。
そして――
聖堂が、呑まれた。
崩れ落ちたのではない。
そこにあったはずのものが、裂け目の内側へ折り畳まれるように消えていった。
後に残ったのは、雪に埋もれた石柱の欠片と、黒く焦げたような地面だけだった。
レイはしばらく動けなかった。
胸の奥が熱い。
けれど、その熱はもう力ではなく、身体の奥に残った疲れのようだった。
「……レイ」
ミラが身を起こし、すぐにレイの顔を覗き込んだ。
「大丈夫?」
「……大丈夫」
そう答えたつもりだったが、声は思ったよりかすれていた。
立ち上がろうとして、足に力が入らない。
ミラは短く息を吐くと、近くの岩を指した。
「少し座って。今のは、さすがに無理しすぎ」
「……うん」
レイは素直に頷いた。
ミラに支えられながら岩まで歩き、そこに腰を下ろす。冷たい石の感触が、外套越しに身体へ伝わってきた。
しばらく、二人とも言葉を発しなかった。
風の音だけが、聖堂の消えた丘を通り抜けていく。
「……消えた」
ようやく、レイが呟いた。
「うん……」
ミラは、黒く焦げた地面を見つめたまま小さく息を吐いた。
「一度呑まれた場所は、こっちに長く留まれないってことか」
「じゃあ、あのレプリカも……」
「影の教団からも、私たちからも、手の届かないところへ行った」
「でも、見た」
ミラが言う。
「レプリカがあった。影の教団も来ていた。あんたのペンダントは反応した」
少しだけ間を置いて、彼女は続ける。
「それだけでも、十分すぎる手がかりだよ」
レイは小さく頷いた。
考えようとしても、頭がうまく回らない。
今はただ、息を整えるだけで精一杯だった。
やがて、ミラが立ち上がる。
「戻ろう。ここに長くいるのはよくない」
そう言ってから、ミラはレイを見た。
「……立てそう?」
「ああ」
立とうとして、少しふらついた。
ミラはすぐに隣へ戻り、肩を貸す。
「無理しない。村まで、私が支えるから」
「……悪い」
「さっき抱えて飛んだ分、これで貸し借りなしってことで」
ミラはそう言って、少しだけ笑った。
それから、ほんの少し視線をそらす。
「……それと、助けてくれてありがと」
その声は、いつもの調子より少しだけ小さかった。
レイもかすかに笑い返し、彼女の肩を借りながら山道へ足を向ける。
道はゆるやかに下っていき、やがて遠くに、ハルム村の灯りが見え始めた。
雪の中に滲む小さな明かりが、今はひどくありがたく見える。
白い息が、夜の冷気にほどけていく。
二人の影は寄り添うように、静かな雪道を進んでいった。




