湖畔の丘と古代の聖堂
翌朝、レイとミラはハルム村を出た。
空は低く曇り、湖の上には薄い白い霧がかかっていた。村の家々から立ち上る煙は、冷たい風に押されるように横へ流れている。
ハンナが持たせてくれた包みを背嚢にしまい、レイは外套の前を合わせた。
アレクに教えられた場所は、ハルム村の北東にある小高い丘だった。
湖のほとりを左手に見ながら、二人は凍った土の道を進んでいく。水面はところどころ薄く凍り、風が渡るたび、割れた硝子のような光を返した。
シルヴィで感じたルミナスの加護は、ここにも確かに届いていた。けれど、その光は遠く、冷たい空気の底でかすかに揺れているだけだった。
「……やっぱり、空気が違うな」
レイは小さく呟いた。
ミラも周囲を見ながら頷く。
「村の近くでこれなら、丘の向こうはもっと薄いかもね」
その言葉の通り、丘へ近づくほど、光の加護は薄くなっていく。
道中、二人は何度か異獣に遭遇した。
黒ずんだ毛並みを持つ、狼に似た獣。
目を赤く濁らせた山犬。
岩陰から飛び出した、角の欠けた小型の獣。
どれも、最初から怪物として生まれたものには見えなかった。
本来なら、この土地の寒さや岩場に馴染んで生きていた獣なのだろう。けれど今は、動きが荒く、呼吸が乱れ、何かに追い立てられるように襲いかかってくる。
レイは迫る爪の軌道を見切り、半歩だけ外した。
頭の奥に、次の動きがかすかに浮かぶ。
右。
そう思った瞬間、異獣の体勢がわずかに崩れた。
レイが剣を入れるより早く、ミラが横から滑り込む。
二本の短剣が低く走り、異獣の視線を奪った。正面から受け止めるのではなく、爪を外し、回り込み、相手の足元を乱していく。
速い。
けれど、ただ速いだけではない。
止まらないことで、相手に狙いを定めさせない。
ミラの動きに合わせて、レイは一歩踏み込んだ。崩れた体勢へ剣を差し込み、異獣を地面へ倒す。
倒れた異獣の体から、黒い靄のようなものがわずかに滲んだ。
それはすぐに、冷たい風の中へ薄く散っていく。
ただの血の匂いとは違っていた。
レイは剣を下ろし、息を整える。
「……ここも異獣が多いな…」
倒れた異獣の体から滲んだ黒い靄は、もう風にほどけていた。
レイはそれを見つめながら、ふとガレンの声を思い出す。
森の濁り。
スターリットの森で、ガレンがそう呼んでいたものと、似ている気がした。
「……濁り、か」
思わず呟くと、ミラが短剣を払って、少しだけ目を細めた。
「濁り?」
「ガレンが、そう呼んでた。獣を変にする、良くない気配みたいなものを」
「へえ……そんなふうに言うのね」
ミラは倒れた異獣へ視線を落とした。
「濁り…良くない気配、か…」
二人は、無駄な戦いを避けながら進んだ。
避けられないものだけを退け、深追いはしない。ミラが足を使って異獣の動きを乱し、レイが見切った隙へ剣を入れる。何度か繰り返すうちに、二人の呼吸は少しずつ合っていった。
ミラの足運びは、レイにとって見ているだけでも勉強になった。
ガレンの剣は、立って、受けて、崩さずに進むためのものだった。
ミラの剣は、流れて、外して、相手を乱すためのものだった。
まるで違う。
けれど、その違いが面白い。
レイは戦いながら、少しずつ身体で覚えていった。
やがて、湖のほとりが遠ざかり、道は岩混じりの斜面へ変わった。
小高い丘の上に、石柱が見えた。
一本ではない。
欠けた柱。
斜めに傾いた柱。
半ば土に埋もれた柱。
それらが霧の中に並び、その奥に、建物の影が沈むように立っていた。
朽ちた聖堂のような姿。
雪と苔に覆われ、半ば岩山に呑まれるようにして建っている。
つい最近までそこになかったはずのもの。
だが目の前のそれは、まるでずっと昔からこの丘に眠っていたかのように、静かに佇んでいた。
レイは足を止めた。
「……あれか」
声が、思ったより小さくなる。
ミラも隣で目を細めた。
「アレクが言ってた石柱……本当にあるね」
風が吹いた。
崩れた入口の奥から、冷たい空気が流れ出してくる。外の風とは違う、古い石の奥に閉じ込められていたような冷たさだった。
レイの胸元で、青い石がわずかに熱を持った。
強く光るわけではない。
けれど、何かに触れたような反応だった。
「……中に、何かある」
レイが呟くと、ミラは二本の短剣に手をかけた。
「じゃあ、慎重に行こう」
レイも剣の柄を握り直した。
二人は、聖堂の開口部へ足を踏み入れた。
外観は、苔と岩に半ば呑まれていた。崩れかけた石柱。雪をかぶった階段。ところどころに絡みついた枯れ草。
けれど内部へ入ると、外の荒れた姿とは違う、奇妙な静けさが満ちていた。
石造りの壁には、風化した星形の紋様が刻まれている。その周囲を、細い溝が幾何学的に走っていた。
装飾のようにも見える。
けれど、ただの模様にしては整いすぎている。
レイは壁に目を向けた。
「これ……普通の聖堂って感じじゃないな」
「うん」
ミラは壁の刻印を見ながら、少しだけ目を細めた。
「こういう溝、ガイの手帳にも似たものがあった」
「ガイの?」
「星刻文明の遺跡にあるんだって。ここが本当にそうかは、まだ分からないけど」
断定はしない。
けれど、ミラの声にはいつもの軽さの奥に、確かな緊張があった。
奥へ進むほど、空気は重く冷たくなる。
中央の広間のさらに奥には、地下へ続く石段が口を開けていた。暗がりの奥から、水滴の落ちる音だけがやけに遠く響いてくる。
レイは息を呑んだ。
不安よりも先に、胸の奥が高鳴っている。
まだ知らないものが、この先にある。
そう思うだけで、足の裏が熱を帯びるようだった。
「……地下か」
「こういう場所は、下に何かあることが多い」
ミラは短剣を抜き、刃の向きを確かめるように軽く構えた。
「経験?」
「うん。あまり楽しくない方のね」
レイは小さく息を吐き、剣を構え直す。
胸元の青い石は、静かに熱を残していた。
理由は分からない。
ただ、この奥に何かがある。
その感覚だけが、足を前へ押していた。
「行こう」
二人は石段へ足を踏み入れた。
苔に覆われた階段は滑りやすく、レイのブーツが小さく軋む。
ミラが先に降りる。足取りは軽いが、視線は壁、天井、足元を細かく拾っていた。
やがて、階段の奥から淡い青白い光が滲み始める。
「この光……」
レイが思わず声を漏らすと、ミラがすぐに振り返った。
「静かに」
短い声だった。
その一言で、空気が一段引き締まる。
青白い光は、地下の奥から、呼吸するように淡く揺れていた。




