ハルム村
ハルム村に着いたのは、空の青が薄く暮れ始める頃だった。
岩場に囲まれた小さな集落だった。風を避けるように木造の家々が肩を寄せ合い、すぐそばの湖だけが、淡い夕光を受けて静かに揺れている。
湖面の端には薄い氷が張り、冷たい風が吹くたび、細かな光を返した。岸辺の葦は白く乾き、遠くの山影には雪が残っている。
この地にも、ルミナスの加護は確かにある。
けれど、シルヴィのように町全体を包み込む光ではない。遠くから薄く届いた膜のようなものだった。家々の軒先に小さな星の飾りはあるが、その輝きもどこか控えめで、村人たちの表情には、冬の厳しさを前にした静かな緊張が刻まれている。
レイは外套の襟元を押さえ、小さく息を吐いた。
「寒っ……これ、完全に氷のエリアだな」
白くなった息が、すぐに風にほどける。
ミラは隣で肩のマントを引き寄せながらも、平然としていた。灰色の毛織りマントの下で、革鎧が軽く軋む。
「ノースライトでは、まだ優しい方だよ」
「これで?」
「うん。今日は風が弱い」
レイは思わず湖の方を見た。
薄い霧が水面の上を流れ、遠くの湖岸を白くにじませている。夕方の光を抱いた水面は静かで、どこか底の見えない深さを感じさせた。
「……広いな」
「でしょ。天気がいい日は、向こう岸まで光って見えるよ」
ミラの調子はいつも通りだったが、視線は村の入口、湖畔、家々の隙間をさりげなく見ていた。
初めて来た場所を見る目ではない。
レイはその横顔を見る。
気づけばミラは、当然のように隣を歩いていた。
出会ってから、まだ数日しか経っていない。それなのに、この距離感は妙に自然だった。
けれど同時に、まだ何か見えないものがある。
そう感じる距離でもあった。
二人が向かったのは、湖畔に建つ一軒の家だった。
ミラが以前、この村を訪れたときに世話になった人物――アレクの家だという。
木の扉の前に立つと、ミラが遠慮なく叩いた。
すぐに中から重い足音が近づいてくる。
扉が開き、広い肩をした男が顔を出した。年は四十前後。日に焼けた顔に、湖の風で刻まれたような皺がある。
「おお……ミラか」
「久しぶり、アレク」
ミラの顔が、少しだけ明るくなる。
アレクも扉口で彼女を見て、それからレイへ視線を移した。
「そっちが連れか。ノースライトの寒さには弱そうだな」
「寒すぎますよ……」
レイが思わずそう漏らすと、アレクは低く笑い、扉を大きく開けた。
「中へ入れ。外で話してたら、先に耳が凍る」
家の中へ入ると、暖炉の火がはぜる音が、外の冷気を切り離していた。
木と煙の匂いがする室内で、奥から柔らかな声がした。
「ミラ?」
顔を出したのは、穏やかな表情の女性だった。
ミラの表情が、また少しやわらぐ。
「ハンナ、久しぶり」
「本当に久しぶりね。無事でよかった」
ハンナはそう言ってから、レイへ視線を向けた。
「そちらの子が、一緒に来た子?」
「うん。レイ」
「レイです。お世話になります」
レイが少し慌てて頭を下げると、ハンナは柔らかく笑った。
「そんなにかしこまらなくていいのよ。冷えたでしょう。すぐ温かいものを出すから、座っていて」
その声だけで、少し肩の力が抜けた。
家の中は、外とは別の世界のようだった。
壁には漁具や乾かした網が掛けられ、棚には香草の束と古びた木箱が並んでいる。窓の外では湖が静かに光り、薄い氷の上を風が白く撫でていた。
しばらくして、木のテーブルに湖で獲れた魚のグリルと、湯気の立つスープが並んだ。
ハンナが最後の皿を置く。
「はい、できたよ。遠慮しないで食べて」
レイはスープをひと口飲んだ。
魚の旨みと香草の香りが、冷えきった身体にゆっくり染みていく。
思わず声が漏れた。
「うまっ……」
ミラが小さく笑う。
「でしょ。ハンナの料理、冷えた日には本当にありがたいんだよ」
「それはよかった。まだあるから、しっかり食べてね」
ハンナはそう言って、空いた皿をそっと寄せた。
そのやり取りで、張り詰めていた空気が少しほどけた。
レイはもう一度スープを口に運ぶ。
温かい。
シルヴィの光とは違う。
神殿の静けさとも違う。
けれど、ここにも確かに、人が暮らす温度があった。
食後、暖炉の前に腰を下ろすと、ようやくレイの身体から力が抜けた。
外の寒さが嘘のように、火の熱がじんわりと指先に戻ってくる。
アレクは椅子に深く腰を下ろし、ミラを見る。
「それで、今回は何を追って来た」
問い方は短い。
だが、ミラがただ旅の途中で寄ったわけではないことを、最初から分かっているようだった。
ミラは肩をすくめる。
「ノースライトに、聖堂みたいなものが現れたって話を聞いた」
アレクの眉がわずかに動いた。
「……その話か」
「知ってるの?」
「漁に出た村の者が見たらしい。湖の北東、石の丘の向こうに、今までなかったはずの建物の影が見えたとな」
レイは思わず身を乗り出した。
「今までなかったはずの?」
「ああ。昔から漁に出ている連中が言うんだ。あそこにあんな石の柱はなかった、とな。霧が晴れた朝、湖の向こうに突然見えたらしい」
アレクは低く続ける。
「だが、近づいて確かめた者はいない。あの辺りは加護が薄い。獣も落ち着かん」
ルミナスの加護が薄い。
ガレンの小屋を出てから何度も聞いた言葉だった。
だが、ハルム村に着いてからは、その意味が少しだけ分かる。
ここでは光がある。
けれど、遠い。
人の暮らしを守るには足りていても、外の闇を完全に退けるほどではない。
レイは無意識に胸元へ触れかけ、途中で手を止めた。
「……行くなら、明るいうちにしろ」
アレクが低く言う。
「ノースライトの夜は、よそ者に優しくない」
「覚えておきます」
レイが答えると、アレクは小さく頷いた。
「それでいい。霧が出たら、湖岸でも方向を見失う」
ハンナが静かに湯を注ぎ足す。
「行くなら、今夜はちゃんと休んで。冷えた身体のまま歩くと、足元を取られるわ」
「はい。ありがとうございます」
火のそばに、明日の道が簡単ではないことだけが静かに残った。
そのあと、アレクとハンナが寝床の準備を始めると、レイは暖炉の前でミラに視線を向けた。
「そういえばさ、ミラ」
ミラは炎を見たまま、小さく返す。
「ん?」
「さっき、アレクさんが言ってたけど……何かを追って来たのか?」
ミラの肩が、ほんの少しだけ揺れた。
けれどすぐに、いつもの調子で火を見つめる。
「まあね。少しだけ」
「少しだけ?」
「古いものが好きって言ったでしょ」
レイは小さく頷いた。
「それだけじゃない気がした」
ミラはしばらく黙っていた。
火の中で薪が小さく崩れる。
やがて、少しだけ声を落とした。
「昔、師匠がこういう場所を追ってたんだ」
「師匠?」
「うん。ガイって言うの。古い遺跡や、星刻文明の痕跡を調べてた人」
星刻文明。
その言葉に、レイの意識がわずかに引っかかった。
シルヴィで聞いた古代の聖堂。
神殿の星の涙。
胸元に隠した青いペンダント。
まだうまく繋がらない。
けれど、その名には、どこか重みがある。
「その人は、今も?」
ミラは小さく首を横に振った。
「分からない。今は、いない」
短い答えだった。
それ以上は語らない。
けれど、その一言だけで十分だった。
ミラがただの好奇心だけでここにいるわけではないことは、分かった。
暖炉の火が、ぱちりと小さく弾ける。
「だから、明日は私も行く」
レイはミラを見た。
「……そっか」
「邪魔?」
「いや。助かるよ」
レイはそう言って、少しだけ笑った。
「一人で行くより、ずっと心強い」
ミラも小さく笑った。
その声は軽い。
けれど、火に照らされた横顔には、さっきと同じ静けさが残っていた。
信用しきれるほど、まだ何も知らない。
けれど、嘘ばかりを言っている相手にも見えなかった。
少なくとも、頭の奥の直感は警鐘を鳴らしていない。
レイは窓の外へ目を向ける。
湖は暗くなり始めていた。
霧の向こうに、まだ見えない丘がある。
巨大な石柱。
聖堂のような影。
そして、薄くなった加護の先にある何か。
明日、あそこへ行く。
その思いだけが、冷たい湖の夜に、小さく灯っていた。




