東の街道を進む
東の街道は、シルヴィの丘陵地をゆるやかに抜けていた。
朝の光は柔らかく、小川の水面に細かなきらめきを散らしている。麻や小麦の畑が風に揺れ、遠くでは荷馬車の車輪が乾いた音を立てていた。
レイは土の道を踏みしめながら歩いた。
腰には、手入れを終えた鉄剣。背嚢には旅の道具。ポーチの奥には、布に包んだ小さな花。
シルヴィの白い町並みは、もう背後に遠ざかっている。
振り返れば、セレスティアル山の中腹に、アストラリス神殿の白い輪郭がかすかに浮かんでいた。朝の光を受けたその姿は、水面に映る月のように静かだった。
道の先へ視線を戻しかけたとき、丘陵の向こうに深い緑が見えた。
淡い霞の奥。
スターリットの森だ。
あの森で、ガレンに拾われた。
剣を握らされ、転び、怒鳴られ、それでも何度も立ち上がった。
――剣だけ振るな。足を動かせ。
低い声が、ふいに耳の奥でよみがえる。
「……元気にしてるかな」
小さく呟いて、レイはまた前を向いた。
街道は、まずシルヴィから東へ続いている。
そこからセレスティアル山を左手に見ながら、北へ回り込む道を取る。
ノースライト地方へ。
光の薄い土地へ。
湖の向こうに、あるはずのない影が見えたという場所へ。
日が傾き始めた頃だった。
街道脇の茂みが、不自然に揺れた。
次の瞬間、六つの影が一斉に飛び出す。
レイの足が止まる。
囲まれている。
ボロ布の装い。鈍く光る刃物。値踏みするような視線。
「おい、坊主。荷物置いていきな」
低い声がした。
逃げ道は、ほとんどない。
(……盗賊か)
喉の奥がわずかに乾く。
それでも、剣を抜く手は震えなかった。
――抜いたなら、迷うな。
ガレンの声が、頭の奥で響く。
鉄剣を抜いた瞬間、服の下に隠した青い石がかすかに反応した。
熱というより、空気が一枚薄く張るような感覚。
最初の男が短剣を振り下ろす。
その軌道が、ほんの少しだけ遅れて見えた。
身体が先に動く。
かわす。
弾く。
距離を取る。
一撃目はしのいだ。
だが、それだけではなかった。
刃の向き。
踏み込む足。
肩の沈み。
次にどこから攻撃が来るのかが、前よりもはっきり分かる。
頭の奥に浮かぶ違和感が、今はそのまま動きへつながっていた。
(あれ? ……なんか、動きやすい)
驚きが、ほんの少しだけ遅れて来る。
ためらうより先に、足が出る。
考えるより先に、身体がずれる。
迫る刃を半歩で外し、返す剣で相手の手元を弾く。
青白い光が、ほんの一瞬、腕の周りに薄くにじんだ。
それは盾というほど確かなものではない。
けれど、横からかすめた短剣の衝撃を、薄い膜のように受け流した。
「っ……!」
息を呑む。
できた。
何をしたのか、はっきりとは分からない。
それでも、今の動きは偶然だけではない。
昨日、アストラリス神殿の祭壇で星の涙の光に触れたときから、何かが少し開いた。
そんな感覚がある。
けれど、光に身体が置いていかれない。
踏み込みも、止まり方も、次の一歩も。
森で何度も転ばされながら、身体に叩き込まれた動きだった。
――剣だけ振るな。足を動かせ。
ガレンの低い声が、ふいに胸の奥で重なる。
(ちゃんと鍛えてきて、よかった)
ほんの少しだけ、口元が緩みそうになる。
今なら分かる。
光が反応してくれても、身体がついてこなければ意味がない。
この一歩は、あの小屋の裏で、泥だらけになりながら覚えたものだ。
(この感じ……いいかも)
胸の奥が、かすかに弾む。
けれど、浸っている暇はない。
数が多い。
左右から迫る影。背後の気配。足元の砂利。刃の光。
意識が細かく裂かれていく。
(くそ……!)
その瞬間、風を裂く音がした。
ひとつの影が、横から滑り込む。
鋭い一閃。
盗賊の一人が体勢を崩し、地面に転がった。
「右!」
短い声。
レイは反射で動いた。
振り返りざまに、迫る刃を弾く。視界の端では、別の盗賊が膝をついていた。
速い。
正確だ。
無駄がない。
横合いから走った斬撃に、盗賊の視線が流れる。
そのわずかな隙に、レイは息を整えた。
足元の砂利を踏みしめ、崩れた相手の体勢に合わせて一歩入る。
剣を振るというより、流れの中へ刃を差し込むように。
浅い。
けれど、確実に届いた。
盗賊の動きが鈍り、そこへ次の刃が重なる。
レイが開いた隙へ、横合いの刃が滑り込む。
その一撃で崩れた体勢へ、レイが踏み込む。
即席の連携なのに、不思議と噛み合っていた。
やがて盗賊たちは顔を見合わせ、じりじりと後退する。
次の瞬間、茂みへ散るように逃げていった。
静寂が戻った。
レイは肩で息をしながら、剣を下ろす。
「……助かった」
声をかけると、隣に立つ相手が軽く笑った。
革鎧に、旅慣れた身のこなし。焦茶色の髪を後ろで束ね、落ち着いた目で逃げた盗賊の方を見ている。
年は近い。
けれど、場数が違う。
それだけはすぐに分かった。
彼女は剣を収めながら、ちらりとレイを見る。
鋭い目だったが、敵意はない。
頭の奥をかすかな感覚がよぎり、少なくとも今ここで刃を向けてくる相手ではないと思えた。
「いい動きしてたよ。ちょっと危なっかしかったけど」
軽い調子だった。
けれど、その目はよく見ている。
レイは苦笑した。
「そっちは……かなり慣れてるな」
「まあね。こういうの、初めてじゃないし」
肩をすくめる仕草が自然だった。
「私はミラ。あんたは?」
「レイだ。よろしく」
短いやり取り。
それだけで、張りつめていた空気が少しだけほどけた。
ミラは逃げた盗賊たちの方を一度だけ見てから、街道の先へ視線を向ける。
「で? レイは一人旅?」
「ん……ああ。一人旅の途中」
「どこに向かってるの?」
レイは少しだけ迷った。
助けられたとはいえ、出会ったばかりの相手に何でも話すべきではない。
けれど、ミラの視線に嫌な濁りはない。
それに、さっきから彼女は周囲を警戒しながらも、こちらの荷や懐には目をやっていなかった。
盗賊とは違う。
そう思えた。
「ノースライト地方」
その名を聞いて、ミラが小さく頷いた。
「ノースライトか~」
「知ってるのか?」
「少しね」
レイは短く頷いた。
「ハルム村に向かってる」
「ハルム村か。なら、行ったことあるよ」
「本当?」
「うん。寒いけど、人は悪くない」
ミラは街道の先へ視線を向けた。
「案内、してあげようか?」
あまりにも自然な提案だった。
レイは一瞬だけ考える。
すぐに信用しすぎるのは危ない。
ガレンなら、そう言うかもしれない。
けれど、一人で進むより、道を知る相手がいる方がいい。
そして何より、さっきから頭の奥の感覚は静かなままだった。
「……じゃあ、頼む」
「決まり」
ミラは軽く笑い、街道の先へ歩き出した。
しばらく進んだあと、ふと横目でこちらを見る。
「それにしてもさ」
「ん?」
「さっきの動き。普通じゃないよね」
レイは少しだけ肩をすくめた。
「まあ……ちょっとした、癖みたいなもんかな」
「癖であれなら、だいぶ面白いね」
ごまかすように笑っても、ミラはそれ以上追及しなかった。
ただ、少しだけ興味深そうに頷く。
その視線は、敵を見るものではない。
けれど、ただの好奇心だけでもなかった。
何かを見極めようとしている目だった。
数日後。
東へ進んでいた街道は、セレスティアル山を左手に見ながら、ゆるやかに北へ回り込み始めていた。
道の表情も、少しずつ変わっていく。
大地はなだらかな丘陵から、荒れた岩肌へ。柔らかかった草の色は薄れ、代わりに針葉樹の濃い緑が目立ち始める。
その道中、二人は何度か異獣に遭遇した。
街道沿いの林から飛び出してきた、濁った目の獣。
岩場の陰で身を潜めていた、爪の長い獣。
どれも数は多くなかったが、普通の獣とは明らかに違っていた。毛並みは荒れ、呼吸は不規則で、何かに追い立てられるように襲いかかってくる。
レイは最初こそ動きの読みにくさに戸惑った。
けれど、ミラの戦い方は、ガレンから教わったものとはまるで違っていた。
正面から受け止めない。
二本の短剣を低く構え、足を止めず、相手の爪を紙一重で外しながら横へ回る。踏み込みは軽く、退く動きも速い。獣が追おうと向きを変えた瞬間には、もう別の角度から刃が入っていた。
倒すというより、かき回す。
勢いを乱し、視線を奪い、足場を崩す。
その間に、レイは頭の奥に浮かぶ予感のようなものを頼りに、敵の攻撃の軌道を見切っていく。
爪が来る。
肩が沈む。
次は右。
見えた瞬間、半歩だけ外し、ミラが作った隙へ剣を差し込む。
ミラが獣の懐を裂いて離れる。
レイが踏み込み、崩れた体勢を逃さず叩く。
何度か剣を合わせるうち、言葉にしなくても分かる間が増えていった。
ミラの足運びは、見ているだけでも勉強になった。
速いだけではない。
止まらないことで、相手に狙いを定めさせないのだ。
ガレンの剣が、立って、受けて、崩さずに進むためのものだとしたら、ミラの剣は、流れて、外して、相手を乱すためのものだった。
レイはその違いを、戦いながら少しずつ身体で覚えていく。
頭の奥に浮かぶ直感も、ミラへ向けて警鐘を鳴らすことはなかった。
むしろ、隣にいることで見えるものが増えていく。
そんな感覚があった。
吹き抜ける風は鋭くなり、吐いた息が白くほどけた。
空気が違う。
肌で分かる変化だった。
ミラが肩のマントを引き寄せ、小さく息を吐く。
「……やっぱり、こっちは冷えるね」
声は軽い。
けれど、周囲を確かめる視線は油断していなかった。
レイも外套の前を合わせる。毛皮の裏地がなければ、風はもっと深く体温を奪っていただろう。
「買っておいてよかったな……外套も手袋も」
「寒い土地をなめると、だいたい後悔するよ」
ミラはそう言って笑う。
その歩き方は相変わらず軽い。足場の悪い道でも、無駄がない。周囲への視線もさりげない。
旅慣れている。
それだけではなく、戦い慣れてもいる。
ただ目的地へ向かっているのではなく、道の途中に落ちている小さな違和感まで拾おうとしている。
その夜、二人は街道脇の岩陰で火を起こした。
風は冷たかったが、岩が吹きつける寒さを少しだけ遮ってくれる。小さな焚き火の上で湯が揺れ、乾いた薪がぱちりと音を立てた。
ミラは火のそばに座り、革手袋を外して指先を温めている。
「ハルム村ってさ」
しばらく火を見ていたミラが、ふと口を開いた。
「湖のそばにあるだけの、小さな村なんだよね。悪いところじゃないけど、旅人がわざわざ目指すような場所でもない」
「そうなのか?」
「うん。だから気になってた。レイは、なんでハルム村に行くの?」
「シルヴィで聞いたんだ」
レイは素直に答えた。
「ノースライトの湖の北東に、大きな石柱が見えたって」
「石柱?」
「一本じゃないらしい。霧の向こうに、何本も立ってたって。その奥に、聖堂みたいな建物の影も見えたって話だった」
ミラの目が、焚き火の向こうで少しだけ細くなる。
「……その噂なら、私も聞いたよ」
「ミラも?」
「うん。湖の北東に、あるはずのないものが見えたって」
風が、火の先を小さく揺らした。
「だからハルム村なんだ」
「湖の近くの村なら、何か聞けるかもしれないと思って」
レイはそう言って、火へ薪を一本足した。
火の粉が、夜の空気に小さく舞う。
「正直、気になるんだ。急に現れた石柱とか、聖堂みたいな建物とか……そんなの、何もないわけないだろ」
少しだけ声が弾んでいた。
自分でも分かるくらいに。
ミラはその横顔を見て、ふっと笑った。
「分かるよ。私も興味あるし」
ミラは火に視線を戻した。
「古い石柱。聖堂みたいな影。そういう話は、放っておけない」
「ミラも、そういうの好きなのか?」
「まあね。古いものは嫌いじゃないよ」
軽い言い方だった。
けれど、その声の奥には、ただの好奇心だけではない静けさがあった。
焚き火の向こうで、夜の風が細く鳴っている。
ハルム村。
湖の北東。
石柱群と、聖堂のような影。
まだ遠いはずのそれが、火の揺らぎの向こうで、少しだけ近づいた気がした。
翌朝からも、二人は北へ回り込む道を進んだ。
岩場には雪が残り、足元の感触も硬く変わっていく。
誰かと並んで歩く道は、これまでの一人旅とは少し違っていた。
同じ方向へ向かう相手が隣にいる。
ただそれだけで、道の見え方が少し変わる。
ルミナスの加護は、確かにこの地にも届いている。
だが、その光はシルヴィで感じたものより、どこか遠い。薄い膜の向こう側から届くような、頼りなさがあった。
それでも、レイの足取りは自然と前へ向いていた。
冷たい風の向こうに、まだ見ぬ湖と、石柱群と、聖堂のような影がある。
本当にそんなものがあるのか。
あるなら、どうして急に現れたのか。
考えるほど、足の奥が少し熱を帯びる。
「……早く見てみたいな」
思わずこぼすと、ミラが横で小さく笑った。
「そういうところ、分かりやすいね」
「え、そうか?」
「うん。でも、嫌いじゃないよ」
そう言って、ミラは前を向いた。
冷たい風の中、二人はセレスティアル山を左手に見ながら、北へ回り込む道を進んでいった。
ノースライト地方。
荒々しい岩肌と、薄い光の膜に包まれた寒冷の地。
その奥で、まだ見ぬ古代の聖堂が、静かに待っている。




