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エテルナ ―星の涙と帰る光―  作者: Takeko
第3章 ノースライト地方と星の涙のレプリカ
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湖向こうの影

翌朝、シルヴィの町には淡い朝霧が残っていた。


白い石畳は夜露を含み、通りの端を流れる水路には、まだ眠りから覚めきらない空の色が揺れている。白い壁に差した朝の光が、窓辺の硝子飾りを淡くきらめかせていた。


宿の部屋で目を覚ますと、机の上には、昨日リアから受け取ったルミナスの花が置かれていた。


淡い光は、今も消えていない。


自分の指先からこぼれた光。


守りたい、と願っただけで宿った、不思議な光。


「……まだ光ってる」


小さく呟く。


青い花弁の奥で揺れる金の光は、昨夜と変わらず静かだった。


ただの花ではない。


少なくとも、レイにとってはもう、そうではなかった。


窓の外では、シルヴィの町が少しずつ朝の色を取り戻している。白い石畳を行く人の声が、かすかに届いていた。


「まずは、朝飯だな」


軽く伸びをして、レイは部屋を出た。


宿の一階の食堂には、すでに旅人たちの声があった。


木のテーブルには湯気の立つ粥や焼いたパンが並び、奥の暖炉では火が小さく弾けている。巡礼者らしい老夫婦が朝食を取り、行商人が荷の数を確かめながら店主と話していた。


簡単な朝食を頼み、空いた席に腰を下ろす。


温かいスープを口に運んだとき、隣のテーブルから低い声が聞こえた。


「――ノースライトの湖で、また見えたらしいぞ」


レイの手が止まる。


「またって、例の柱か?」


「ああ。湖の北東だ。漁に出ていた連中が見たらしい。今まで何もなかった丘の上に、馬鹿みたいに高い石柱が何本も立ってたってな」


「石柱?」


「一本じゃない。何本もだ。しかも、その奥に聖堂みたいな建物の影も見えたらしい」


聖堂。


その言葉に、胸が小さく跳ねた。


「聖堂って……あんな場所にか?」


「ああ。そこは何もないはずの丘なんだ。村の連中も、舟から何度も見てる場所なんだがな、って言ってるらしい」


思わず、身を乗り出していた。


「あの、その話……詳しく聞かせてもらえますか?」


旅人たちが振り返る。


少しだけ慌てて、言葉を足した。


「その……急に現れたってことですか?」


「そう言う奴もいる。もちろん、霧か雪の見間違いだって笑う奴もいるがな」


ノースライト。


湖の北東。


今までなかった巨大な石柱。


その奥に見える、聖堂のような建物。


スープの器を持ったまま、しばらく動けなかった。


内側が、ふっと熱を帯びる。


(……何それ。絶対、何かあるだろ)


頭の奥に、道が開くような感覚があった。


まだ見ぬ土地。


湖の向こうに現れた謎の聖堂。


何もないはずの丘に、突然見えた柱と建物の影。


ただの噂かもしれない。


けれど、もし本当なら。


そこには、何かがある。


そう思った瞬間、昨日から胸に残っていた曖昧なもやが、少しだけ形を持った。


星の涙。


青いペンダント。


宿で光を宿したルミナスの花。


夜の路地に消えた黒いフードの人物。


それらが全部つながっているとは限らない。


けれど、何かが始まりそうな気配がした。


物語の次の頁が、目の前で開きかけているような。


(これは……行って確かめるしかないだろ)


口元が、少しだけ緩む。


自分でも分かるくらい、心が高鳴っていた。


旅人の一人が、レイを頭から足元まで見る。


「行くつもりか?」


「まだ決めたわけじゃないです。でも、その……聖堂みたいな建物っていうのが気になって」


「物好きだな」


呆れたように言いながらも、男は椅子の背にもたれた。


「俺が見たわけじゃない。詳しく知りたけりゃ、ハルム村で聞くのが早い。最初に見たのは、あそこの漁師たちらしいからな」


「ハルム村……」


その名を、心の中で繰り返す。


ノースライト地方。


ハルム村。


湖の北東。


巨大な石柱と、聖堂のような影。


行き先が、少しずつ形になっていく。


旅人は声を少し落とした。


「それにな、あの辺りは最近、加護が薄いって話もある」


「ルミナス様の加護がか?」


隣の男が眉を寄せる。


「消えたわけじゃない。ただ、湖の奥や丘の周りは、空気が重いらしい。街道沿いでも異獣を見たって話もある」


「物好き以外は近づかん方がいいな」


その言葉に、一瞬だけ現実へ引き戻された。


危ない場所には近づかない。


知らない土地では無理をしない。


ガレンなら、まずそう言う。


けれど、その声を思い浮かべても、高鳴りは消えなかった。


「そのハルム村って、ここからどう行けばいいんですか?」


旅人は、今度こそはっきりとレイを見た。


「……本当に行く気か」


「確かめてみたいんです」


その言葉は、思ったより自然に出た。


旅人は呆れたように息を吐き、それでも説明してくれた。


「町の東門からだ。途中までは道も整ってる。ただ、ノースライトに入ると空気が変わる。湖が多いからな。朝晩はかなり冷える」


「絶対に防寒具を買っていけ。あと、街道は外れるな」


その言葉だけは、少し真面目だった。


「分かりました」


食事を終える頃には、行き先はほとんど決まっていた。


誰かに命じられたわけではない。


正式な依頼でもない。


けれど、昨日から胸の奥で始まっていた何かが、東へ伸びる一本の道になっていた。


ノースライト地方へ行く。


ハルム村で話を聞く。


そして、その聖堂を確かめる。


そう決めた瞬間、次に踏み出す場所がはっきりした。


一度、部屋へ戻る。


机の上のルミナスの花は、まだ淡い光を宿していた。


レイはそれを丁寧に包み、ポーチの奥へしまった。剣を腰に差し、背嚢を肩に掛けると、その重みが、これから向かう道をはっきりと身体に伝えてきた。


それから市場へ向かう。


朝の市場には、旅人向けの品が並び始めていた。花飾りや菓子の店の向こうで、革袋、干し肉、火打石、厚手の手袋が軒先に吊られている。


道具屋の隣には、防寒具を扱う店もあった。


厚手の毛織りマント、毛皮を裏に縫い込んだ外套、耳まで覆える帽子。シルヴィの朝には少し大げさに見える品ばかりだったが、旅人の忠告を思い出すと、笑って済ませる気にはなれなかった。


レイは毛皮裏の外套と厚手の手袋を選び、残りの銅貨を確かめながら支払いを済ませた。


それから道具屋の軒先へ移る。


ロープ。


火打石。


予備の革紐。


小さな折りたたみナイフ。


干し肉。


荷物を増やしすぎれば足が鈍る。


けれど、足りなければ困る。


ガレンなら何と言うだろう。


――持ちすぎるな。だが、足りねえよりはましだ。


そんな声が、頭の奥で自然に響いた。


「これと、これ。あと、干し肉を少しお願いします」


店主と短くやり取りをして、必要なものを買う。


硬貨を渡すとき、革袋の中に残る枚数を確かめた。


余裕があるわけではない。


だが、ガレンが背嚢にこっそり足してくれていた銀貨のおかげで、最低限の支度はできる。


買った物を背嚢に収め、次に鍛冶屋へ向かった。


鍛冶屋は市場の奥、細い水路を渡った先にあった。


扉を開けると、鉄と火の匂いが鼻を打つ。炉の赤い光が、白い石の町の中でそこだけ別の温度を持っていた。


「おう、剣か? 見せてみな」


職人が顔を上げる。


レイは腰の剣を外し、差し出した。


「少し見てもらえますか。これからノースライト地方まで行くので」


職人の眉が、わずかに動いた。


「ノースライトか。なら、湿気と寒さに気をつけろ。刃も鞘も、油を忘れるな」


職人は剣を受け取り、鞘から抜く。


刃が朝の光を細く返した。


「悪くない。よく使われてるが、雑には扱ってないな」


「師匠に、手入れをさぼったら怒られるので」


「いい師匠だ」


職人は短く笑い、砥石を取り出した。


刃が石に触れる音が、静かに店の中へ広がる。


その音を聞いていると、スターリットの森が浮かんだ。


朝霧の中、木剣を握った手。


足元の土。


ガレンの低い声。


――剣だけ振るな。足を動かせ。


あの言葉は、町に来ても、神殿を見ても、まだ身体のどこかに残っている。


少しして、剣が戻ってきた。


「大きな欠けはない。しばらくはこれで問題ないだろう。ただ、東の街道を外れるな。急ぐなら山道を使うやつもいるが、今はおすすめしない」


「何かあるんですか?」


職人は剣を鞘に戻しながら、少しだけ眉を寄せた。


「最近、加護の薄い道で獣が荒れてる。普通の獣ならまだいい。だが、そうじゃないのも出る」


異獣。


その言葉は出なかった。


けれど、レイには分かった。


シルヴィへ来る道で見た、馬車の残骸。


旅人たちの声。


加護が届いているはずの街道にも、異常が滲み始めている。


「分かりました。街道を行きます」


「それがいい」


職人はうなずき、剣を返した。


店を出ると、外の空気は冷たく澄んでいた。


市場のざわめきの向こうに、アストラリス神殿の白い輪郭が見える。


高い石段。


朝の光を受ける柱。


青い花の揺れる広場。


少し迷ってから、神殿前広場へ向かった。


出発前に、少しだけ見ておきたかった。


リアがいるかもしれない。


そう思ったことは、自分でも少し照れくさかった。


広場には、すでに参拝者たちが集まり始めていた。


噴水の水が朝の光を弾き、白い石畳に細かな光を散らしている。巫女たちが青いルミナスの花を手渡し、巡礼者が両手で受け取って頭を下げていた。


人の流れの端に立ち、さりげなく周囲を見渡す。


栗色の髪。


柔らかな笑顔。


少し丁寧な声。


けれど、探していた姿は見当たらなかった。


(……いない、か)


胸の奥に、小さな空白ができる。


大きな落胆ではない。


ただ、少しだけ、肩の力が抜けた。


昨日、花を渡してくれたときのリアの笑顔が、ふと浮かぶ。


――神殿、ゆっくり見ていってください。きっと……何か感じられると思います。


感じた。


確かに、何かを感じた。


そして今、その先を知りたいと思っている。


ポーチの上から、そっとルミナスの花の位置を確かめた。


花は布に包まれ、静かに収まっている。


その奥に、小さな温もりがあるような気がした。


「また戻ってくるよ」


声には出さず、心の中でそう呟く。


神殿に向けて軽く頭を下げ、レイは踵を返した。


シルヴィの東門へ向かう道は、朝の人通りでゆるやかに賑わっていた。


行商人の荷車が軋み、巡礼者が宿を出て、子どもが水路のそばを駆けていく。白い壁に朝日が差し、窓辺の硝子飾りが淡くきらめいていた。


門の外には、東へ続く街道が伸びている。


その先に、ノースライト地方がある。


湖。


巨大な石柱。


聖堂のような建物の影。


レイは背嚢の紐を握り直した。


危険は分かっている。


けれど、分からないものをそのままにしておく方が、今は難しかった。


「……行くか」


短く呟き、東の街道へ足を踏み出す。


白い石の町が、少しずつ背後へ遠ざかっていく。


胸元には青いペンダント。


ポーチの奥には、リアから受け取ったルミナスの花。


その小さな重みを感じながら、レイはまだ見ぬ北東の土地へ歩き出した。


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