湖向こうの影
翌朝、シルヴィの町には淡い朝霧が残っていた。
白い石畳は夜露を含み、通りの端を流れる水路には、まだ眠りから覚めきらない空の色が揺れている。白い壁に差した朝の光が、窓辺の硝子飾りを淡くきらめかせていた。
宿の部屋で目を覚ますと、机の上には、昨日リアから受け取ったルミナスの花が置かれていた。
淡い光は、今も消えていない。
自分の指先からこぼれた光。
守りたい、と願っただけで宿った、不思議な光。
「……まだ光ってる」
小さく呟く。
青い花弁の奥で揺れる金の光は、昨夜と変わらず静かだった。
ただの花ではない。
少なくとも、レイにとってはもう、そうではなかった。
窓の外では、シルヴィの町が少しずつ朝の色を取り戻している。白い石畳を行く人の声が、かすかに届いていた。
「まずは、朝飯だな」
軽く伸びをして、レイは部屋を出た。
宿の一階の食堂には、すでに旅人たちの声があった。
木のテーブルには湯気の立つ粥や焼いたパンが並び、奥の暖炉では火が小さく弾けている。巡礼者らしい老夫婦が朝食を取り、行商人が荷の数を確かめながら店主と話していた。
簡単な朝食を頼み、空いた席に腰を下ろす。
温かいスープを口に運んだとき、隣のテーブルから低い声が聞こえた。
「――ノースライトの湖で、また見えたらしいぞ」
レイの手が止まる。
「またって、例の柱か?」
「ああ。湖の北東だ。漁に出ていた連中が見たらしい。今まで何もなかった丘の上に、馬鹿みたいに高い石柱が何本も立ってたってな」
「石柱?」
「一本じゃない。何本もだ。しかも、その奥に聖堂みたいな建物の影も見えたらしい」
聖堂。
その言葉に、胸が小さく跳ねた。
「聖堂って……あんな場所にか?」
「ああ。そこは何もないはずの丘なんだ。村の連中も、舟から何度も見てる場所なんだがな、って言ってるらしい」
思わず、身を乗り出していた。
「あの、その話……詳しく聞かせてもらえますか?」
旅人たちが振り返る。
少しだけ慌てて、言葉を足した。
「その……急に現れたってことですか?」
「そう言う奴もいる。もちろん、霧か雪の見間違いだって笑う奴もいるがな」
ノースライト。
湖の北東。
今までなかった巨大な石柱。
その奥に見える、聖堂のような建物。
スープの器を持ったまま、しばらく動けなかった。
内側が、ふっと熱を帯びる。
(……何それ。絶対、何かあるだろ)
頭の奥に、道が開くような感覚があった。
まだ見ぬ土地。
湖の向こうに現れた謎の聖堂。
何もないはずの丘に、突然見えた柱と建物の影。
ただの噂かもしれない。
けれど、もし本当なら。
そこには、何かがある。
そう思った瞬間、昨日から胸に残っていた曖昧なもやが、少しだけ形を持った。
星の涙。
青いペンダント。
宿で光を宿したルミナスの花。
夜の路地に消えた黒いフードの人物。
それらが全部つながっているとは限らない。
けれど、何かが始まりそうな気配がした。
物語の次の頁が、目の前で開きかけているような。
(これは……行って確かめるしかないだろ)
口元が、少しだけ緩む。
自分でも分かるくらい、心が高鳴っていた。
旅人の一人が、レイを頭から足元まで見る。
「行くつもりか?」
「まだ決めたわけじゃないです。でも、その……聖堂みたいな建物っていうのが気になって」
「物好きだな」
呆れたように言いながらも、男は椅子の背にもたれた。
「俺が見たわけじゃない。詳しく知りたけりゃ、ハルム村で聞くのが早い。最初に見たのは、あそこの漁師たちらしいからな」
「ハルム村……」
その名を、心の中で繰り返す。
ノースライト地方。
ハルム村。
湖の北東。
巨大な石柱と、聖堂のような影。
行き先が、少しずつ形になっていく。
旅人は声を少し落とした。
「それにな、あの辺りは最近、加護が薄いって話もある」
「ルミナス様の加護がか?」
隣の男が眉を寄せる。
「消えたわけじゃない。ただ、湖の奥や丘の周りは、空気が重いらしい。街道沿いでも異獣を見たって話もある」
「物好き以外は近づかん方がいいな」
その言葉に、一瞬だけ現実へ引き戻された。
危ない場所には近づかない。
知らない土地では無理をしない。
ガレンなら、まずそう言う。
けれど、その声を思い浮かべても、高鳴りは消えなかった。
「そのハルム村って、ここからどう行けばいいんですか?」
旅人は、今度こそはっきりとレイを見た。
「……本当に行く気か」
「確かめてみたいんです」
その言葉は、思ったより自然に出た。
旅人は呆れたように息を吐き、それでも説明してくれた。
「町の東門からだ。途中までは道も整ってる。ただ、ノースライトに入ると空気が変わる。湖が多いからな。朝晩はかなり冷える」
「絶対に防寒具を買っていけ。あと、街道は外れるな」
その言葉だけは、少し真面目だった。
「分かりました」
食事を終える頃には、行き先はほとんど決まっていた。
誰かに命じられたわけではない。
正式な依頼でもない。
けれど、昨日から胸の奥で始まっていた何かが、東へ伸びる一本の道になっていた。
ノースライト地方へ行く。
ハルム村で話を聞く。
そして、その聖堂を確かめる。
そう決めた瞬間、次に踏み出す場所がはっきりした。
一度、部屋へ戻る。
机の上のルミナスの花は、まだ淡い光を宿していた。
レイはそれを丁寧に包み、ポーチの奥へしまった。剣を腰に差し、背嚢を肩に掛けると、その重みが、これから向かう道をはっきりと身体に伝えてきた。
それから市場へ向かう。
朝の市場には、旅人向けの品が並び始めていた。花飾りや菓子の店の向こうで、革袋、干し肉、火打石、厚手の手袋が軒先に吊られている。
道具屋の隣には、防寒具を扱う店もあった。
厚手の毛織りマント、毛皮を裏に縫い込んだ外套、耳まで覆える帽子。シルヴィの朝には少し大げさに見える品ばかりだったが、旅人の忠告を思い出すと、笑って済ませる気にはなれなかった。
レイは毛皮裏の外套と厚手の手袋を選び、残りの銅貨を確かめながら支払いを済ませた。
それから道具屋の軒先へ移る。
ロープ。
火打石。
予備の革紐。
小さな折りたたみナイフ。
干し肉。
荷物を増やしすぎれば足が鈍る。
けれど、足りなければ困る。
ガレンなら何と言うだろう。
――持ちすぎるな。だが、足りねえよりはましだ。
そんな声が、頭の奥で自然に響いた。
「これと、これ。あと、干し肉を少しお願いします」
店主と短くやり取りをして、必要なものを買う。
硬貨を渡すとき、革袋の中に残る枚数を確かめた。
余裕があるわけではない。
だが、ガレンが背嚢にこっそり足してくれていた銀貨のおかげで、最低限の支度はできる。
買った物を背嚢に収め、次に鍛冶屋へ向かった。
鍛冶屋は市場の奥、細い水路を渡った先にあった。
扉を開けると、鉄と火の匂いが鼻を打つ。炉の赤い光が、白い石の町の中でそこだけ別の温度を持っていた。
「おう、剣か? 見せてみな」
職人が顔を上げる。
レイは腰の剣を外し、差し出した。
「少し見てもらえますか。これからノースライト地方まで行くので」
職人の眉が、わずかに動いた。
「ノースライトか。なら、湿気と寒さに気をつけろ。刃も鞘も、油を忘れるな」
職人は剣を受け取り、鞘から抜く。
刃が朝の光を細く返した。
「悪くない。よく使われてるが、雑には扱ってないな」
「師匠に、手入れをさぼったら怒られるので」
「いい師匠だ」
職人は短く笑い、砥石を取り出した。
刃が石に触れる音が、静かに店の中へ広がる。
その音を聞いていると、スターリットの森が浮かんだ。
朝霧の中、木剣を握った手。
足元の土。
ガレンの低い声。
――剣だけ振るな。足を動かせ。
あの言葉は、町に来ても、神殿を見ても、まだ身体のどこかに残っている。
少しして、剣が戻ってきた。
「大きな欠けはない。しばらくはこれで問題ないだろう。ただ、東の街道を外れるな。急ぐなら山道を使うやつもいるが、今はおすすめしない」
「何かあるんですか?」
職人は剣を鞘に戻しながら、少しだけ眉を寄せた。
「最近、加護の薄い道で獣が荒れてる。普通の獣ならまだいい。だが、そうじゃないのも出る」
異獣。
その言葉は出なかった。
けれど、レイには分かった。
シルヴィへ来る道で見た、馬車の残骸。
旅人たちの声。
加護が届いているはずの街道にも、異常が滲み始めている。
「分かりました。街道を行きます」
「それがいい」
職人はうなずき、剣を返した。
店を出ると、外の空気は冷たく澄んでいた。
市場のざわめきの向こうに、アストラリス神殿の白い輪郭が見える。
高い石段。
朝の光を受ける柱。
青い花の揺れる広場。
少し迷ってから、神殿前広場へ向かった。
出発前に、少しだけ見ておきたかった。
リアがいるかもしれない。
そう思ったことは、自分でも少し照れくさかった。
広場には、すでに参拝者たちが集まり始めていた。
噴水の水が朝の光を弾き、白い石畳に細かな光を散らしている。巫女たちが青いルミナスの花を手渡し、巡礼者が両手で受け取って頭を下げていた。
人の流れの端に立ち、さりげなく周囲を見渡す。
栗色の髪。
柔らかな笑顔。
少し丁寧な声。
けれど、探していた姿は見当たらなかった。
(……いない、か)
胸の奥に、小さな空白ができる。
大きな落胆ではない。
ただ、少しだけ、肩の力が抜けた。
昨日、花を渡してくれたときのリアの笑顔が、ふと浮かぶ。
――神殿、ゆっくり見ていってください。きっと……何か感じられると思います。
感じた。
確かに、何かを感じた。
そして今、その先を知りたいと思っている。
ポーチの上から、そっとルミナスの花の位置を確かめた。
花は布に包まれ、静かに収まっている。
その奥に、小さな温もりがあるような気がした。
「また戻ってくるよ」
声には出さず、心の中でそう呟く。
神殿に向けて軽く頭を下げ、レイは踵を返した。
シルヴィの東門へ向かう道は、朝の人通りでゆるやかに賑わっていた。
行商人の荷車が軋み、巡礼者が宿を出て、子どもが水路のそばを駆けていく。白い壁に朝日が差し、窓辺の硝子飾りが淡くきらめいていた。
門の外には、東へ続く街道が伸びている。
その先に、ノースライト地方がある。
湖。
巨大な石柱。
聖堂のような建物の影。
レイは背嚢の紐を握り直した。
危険は分かっている。
けれど、分からないものをそのままにしておく方が、今は難しかった。
「……行くか」
短く呟き、東の街道へ足を踏み出す。
白い石の町が、少しずつ背後へ遠ざかっていく。
胸元には青いペンダント。
ポーチの奥には、リアから受け取ったルミナスの花。
その小さな重みを感じながら、レイはまだ見ぬ北東の土地へ歩き出した。




