その夜
神殿を出たとき、空はまだ高かった。
朝の白さは少しやわらぎ、昼を過ぎた光がシルヴィの石畳に淡く広がっている。
レイは神殿前の広場で、しばらく足を止めていた。
手の中には、リアから受け取ったルミナスの花がある。
青い花弁の奥に、淡い金の光。
祭壇で見た光が、まだ頭の奥にちらついていた。
――おかえり。
耳で聞いたわけではない。
けれど、その響きだけは、なかなか消えてくれなかった。
「……ほんと、何だったんだろうな」
小さく呟いても、答えは返ってこない。
それでも、気持ちは沈まなかった。
分からないことが増えた。
けれど、それは嫌なことではない。
むしろ、まだ知らない扉の前に立ったような気がしていた。
花をそっと握り直し、神殿を振り返る。
中庭の奥に見えた星の涙は、もうここからは見えない。
それでも、あの光はまだ自分の中に残っている。
そんな気がした。
神殿を離れたあと、レイはシルヴィの町を少し歩いた。
細い水路に沿って白い石の道が続き、窓辺には青い花が飾られている。市場では果物や焼き菓子を売る声が響き、巡礼者たちは神殿で受け取った花を大切そうに抱えていた。
どこも穏やかだった。
けれど、ただ静かなだけではない。
祈りと暮らしが、同じ水の流れの上に重なっているような町だった。
露店で小さなパンを買い、通りの端で食べる。
焼きたての香りが、歩き疲れた身体にじんわりと染みた。
星の涙。
ペンダント。
おかえり。
どれも、まだ一つにはつながらない。
けれど、分からないからこそ、気になって仕方がなかった。
「……あー、もう。分かんない! もういいや!」
片手で髪をくしゃりとかき回し、勢いよく立ち上がる。
「宿に戻って飯にしよう。考えてたら腹減った!」
そう言って歩き出すと、頭の中で絡まっていたものが少しだけほどけた気がした。
レイは宿へ戻り、広間で夕食を取った。
木の皿には、炙った肉と焼き野菜が盛られていた。湯気の立つスープと、少し硬いパンも添えられている。
肉は厚くはなかったが、香ばしく焼かれていて、噛むとじゅわっと脂が広がった。
「……うま」
思わず声が漏れる。
歩き回ったあとだったせいか、素朴な食事でもやけにうまかった。
食事を終えるころには、窓の外の空がゆっくりと茜色に染まり始めていた。
レイは部屋へ戻った。
窓の外では、シルヴィの町に灯りがともり始めている。白い壁に橙色の光が滲み、水路の上には細い月が揺れていた。
剣を壁に立てかけ、背負い袋を下ろしてから、机の上にルミナスの花をそっと置く。
青い花弁は、朝と変わらず瑞々しい。
昼の陽を受け、町を歩き、手の中にずっとあったはずなのに、萎れる気配はなかった。
「……不思議な花だな」
呟いて、椅子に腰を下ろす。
リアの声が思い出された。
――神殿、どうかゆっくり見ていってください。
――きっと……何か感じられると思います。
本当に、何かを感じた。
思っていたより、ずっと大きなものを。
机の上の花を見つめる。
これは、リアから受け取った花だ。
朝の広場で、少し丁寧に、けれどやわらかく差し出された一輪。
そう思うと、手放したくなかった。
「……このまま、枯れないでいてくれたらいいのにな」
思わず、そんな言葉がこぼれた。
今日見た光を思い出させる花。
リアの声や、朝の広場の光まで、一緒に残っているような気がした。
そんな願いが、静かに広がっていく。
ゆっくりと指を伸ばし、花弁に触れる少し手前で指先を止める。
術の形も、祈りの言葉も知らない。
ただ、思った。
――守りたい。
その瞬間。
指先に、淡い光が灯った。
「……え?」
声が漏れる。
光は強くはなかった。
月明かりよりも淡く、けれど確かにそこにある。
指先からこぼれた光が、薄い膜のようにルミナスの花を包んでいく。
青い花弁が、内側からそっと照らされた。
淡い金の色が、花の奥で静かに息づく。
「……なにこれ?」
もう一度、小さく声が漏れた。
また、何かが起きている。
けれど今度は、星の涙から届いた光ではない。
自分の指先からこぼれた光が、花を包んでいる。
そう気づいた瞬間、胸の奥が一気に熱くなった。
目が離せない。
手を離しても、その輝きは消えなかった。
淡い光は、花を閉じ込めるのではなく、やわらかく包んでいた。
傷つけないように。
変わってしまわないように。
このままの姿でいられるように。
レイの「守りたい」という思いが、そのまま薄い膜になって花を守っているようだった。
「……なんかすごい?」
小さく、そう呟く。
自分のことなのに、まだ信じきれない。
けれど、確かに起きている。
もう一度、自分の指先を見る。
さっきまで、そこから光がこぼれていた。
自分の中から出た光が、ルミナスの花を包んでいた。
「俺……こんなことできるんだ」
声にした瞬間、胸の奥が一気に熱くなった。
思わず、口元がゆるむ。
「いや、これ……すごくないか?」
誰に聞かせるでもなく呟いた声が、自分でも少し弾んでいた。
浮かれるな。
まず確かめろ。
調子に乗るな。
ガレンがそばにいたら、きっとそう言われていた。
そんな低い声まで、頭の中に浮かんでくる。
でも今、この部屋にはレイしかいない。
誰も止めない。
誰も小言を言わない。
そう思った瞬間、抑えていたものが一気にこみ上げた。
「やったー!」
思ったより声が大きくなって、慌てて口を押さえる。
けれど、口元の笑みまでは隠しきれなかった。
花を傷つけないよう、そっと手に取る。
淡い光を宿したルミナスの花は、指先の中でほのかに温かい。
どうにも座っていられなかった。
花を手にしたまま、狭い部屋の中を少し歩く。
机のそばから寝台の前へ。
それから、また机の前へ戻りかけて、結局そのまま窓辺へ向かう。
胸の奥で、光がまだ跳ねているようだった。
すごい。
剣を振るのとは違う。
ガレンに教えられた動きをなぞるのとも違う。
ただ「守りたい」と思っただけで、光が形になった。
まるで、魔法みたいだ。
そんなことを思った瞬間、また口元がゆるむ。
手の中のルミナスの花を見下ろす。
小さな光は、まだ消えていなかった。
「……やばいな、これ」
小さく笑う。
うれしさを隠しきれないまま、窓を開けた。
シルヴィの夜風が、部屋に流れ込んでくる。
白い石畳には橙色の灯りが滲み、水路には細い月が揺れていた。
窓辺に立ち、手の中の花をもう一度見下ろす。
そのときだった。
通りの端に、ひとつの影が見えた。
灯りの届きにくい路地の入口。
黒いフードを深く被った人物が、ゆっくりと歩いている。
ただの旅人に見えた。
シルヴィには巡礼者も旅人も多い。
珍しい姿ではない。
それなのに、目を離せなかった。
頭の奥に、かすかな違和感がよぎる。
あれは、少し違う。
理由は分からない。
歩き方か。
周囲を見渡す仕草か。
それとも、灯りの中にいるはずなのに、影だけが濃く見えるせいか。
はっきりとは言えない。
けれど、穏やかな町の空気の中で、その人物の周りだけがわずかに沈んで見えた。
黒いフードの人物が、ふと立ち止まる。
顔は見えない。
けれど、こちらを見たような気がした。
息をひそめ、窓辺でじっと目を凝らす。
次の瞬間、人物は何事もなかったかのように路地の奥へ消えていった。
夜の通りには、また穏やかなざわめきが戻る。
白い石畳。
橙色の灯り。
水路に揺れる月。
どれもさっきまでと同じだった。
それでも、頭にはあの影の輪郭が残っていた。
――光が強い場所ほど、濃い影もできる。
小屋を出る前、ガレンがそう言っていた。
(……今の、何だ?)
ただの旅人だったのかもしれない。
でも、そう片づけるには、違和感が薄れない。
神殿であの光に触れてから、頭の奥に残っていた澄んだ感覚。
それが今、かすかに引っかかっていた。
ゆっくりと窓を閉めた。
夜風が遮られ、部屋の中が少し静かになる。
手の中のルミナスの花が、淡く光っている。
その光は、さっきよりも静かで、やわらかかった。
夜の影を見たあとだからこそ、その小さな輝きが妙に心強く感じられる。
花を机の上へそっと戻してから、剣の位置を確かめ、寝台に腰を下ろす。
星の涙も、ペンダントも、夜の影も。
答えはまだどこにもなかった。
それでも、目をそらしたいとは思わなかった。
何かが始まっている。
自分は、その入口に立っている。
そう思うと、胸の奥がまた小さく高鳴った。
ここで何も見なかったふりをするのは、違う。
そんな気がした。
机の上の花をもう一度見ると、青い花弁の奥で淡い金の光が静かに揺れていた。
リアの声や、朝の広場の光が、そこにまだ残っているような気がした。
「……大事にしないとな」
小さく呟いて、花を傷つけないよう、机の中央へそっと置き直した。
灯りを落とす。
部屋は夜の青に沈んだ。
窓の外では、遠くの鐘がひとつ鳴る。
その余韻が消えるころ、横になった。
目を閉じても、まぶたの裏にはまだ、星の涙から届いた光が残っている。
水と花と白い石の上を、一瞬で渡ってきた光。
そして、意識の奥で響いた言葉。
――おかえり。
その意味は、まだ分からない。
けれど、机の上のルミナスの花は、夜の中で静かに光り続けていた。




