星の涙の祭壇
リアの背中が広場の向こうへ離れていく。
栗色の髪が朝の光を受けて揺れ、白い衣の裾が水盤の反射を淡く拾っていた。
レイは手の中のルミナスの花を見下ろす。
青い花弁の奥に、淡い金の光がひそんでいる。
指先に残る温もりは、まだ消えていなかった。
「……行くか」
小さく呟いて、神殿の奥へ足を向けた。
白い回廊は、外の広場よりもさらに静かだった。
高い柱が左右に並び、その一本一本に星と花を組み合わせた紋様が刻まれている。朝の光は柱の間から斜めに差し込み、磨かれた石床の上に細い光の帯を作っていた。
人の声はある。
参拝者の足音も、巫女たちの衣擦れも、遠くで響く祈りの声も。
けれど、それらは不思議と大きくならない。
神殿そのものが、音の角をやわらかく受け止めているようだった。
回廊の奥には、神殿護衛隊の姿があった。
白を基調とした胸当てに、淡い金の紋章。
彼らは参拝者の流れを妨げることなく、柱のそばや回廊の端に静かに立っている。
剣は抜かれていない。
だが、視線は広場全体をゆっくりと見渡していた。
星の涙が安置されている場所。
そう思えば、警備があるのは当然だった。
けれど彼らは、祭壇のそばに立っているわけではない。
遠くから、この祈りの空間そのものを守っている。
その距離が、かえって神殿の静けさを壊さずにいた。
花を手にしたまま、回廊を進む。
やがて白い柱の列が途切れ、視界がふっと開けた。
そこには、中庭があった。
神殿の内側に抱かれるように造られた、静かな庭。
白い石畳の中央には細長い水盤があり、その水面に朝の光が細かく散っている。水の縁には青い花が植えられ、風が通るたび、花弁が小さく揺れた。
水盤の向こう。
中庭を挟んだ先に、祭壇があった。
白い石で組まれた高い台。
その上に、ひときわ大きな結晶が浮かんでいる。
――星の涙。
思わず、足が止まった。
遠くから見ても分かった。
あれは、ただの宝石ではない。
透明なはずなのに、内側に淡い青と金の光を宿している。光は強く放たれているわけではなく、結晶の奥でゆっくりと呼吸するように満ちていた。
周囲の空気まで、少し違って感じる。
澄んでいる。
けれど、冷たいわけではない。
水に手を入れる直前のような静けさと、春の陽だまりに触れたときのような温もりが、同じ場所にある。
参拝者たちは、中庭の手前で静かに祈っていた。
祭壇までは、水盤と花の植えられた中庭が隔てている。
それでも、星の涙は隠されることなく、水と花の向こうに静かに佇んでいた。
ゆっくりと息を吸う。
手の中のルミナスの花が、ほんの少し温かくなった気がした。
一歩、前へ出る。
石床を踏む音が、小さく響いた。
その瞬間。
水盤の水面が、かすかに揺れた。
風はなかった。
けれど、水の上に散っていた朝の光が、ひとすじだけ形を変える。
星の涙の奥で、淡い青と金の光が瞬いた。
次の瞬間。
光は、中庭を渡っていた。
水盤に散った朝の反射をすべるように越え、青い花の縁を照らし、白い石畳に細い光の筋を残して――まっすぐ、レイの胸元へ届く。
身体が動かなかった。
目をそらすこともできなかった。
一瞬だった。
けれどその一瞬の中に、水のきらめきも、花の影も、白い石の光も、すべて焼きついた。
服の下に隠れた青いペンダントが、布越しに淡く温もりを帯びる。
強い熱ではなかった。
痛みでもない。
ただ、遠くから届いた誰かの手が、そっと触れたような感覚だった。
息を止める。
手の中のルミナスの花が、かすかに光を返す。
青い花弁の奥にひそんでいた金の色が、星の涙から届いた光と、ほんの一瞬だけ重なった。
そのとき。
意識の奥で、声ではない響きが広がった。
――おかえり。
言葉だったのか。
音だったのか。
それとも、ただそう感じただけなのか。
分からなかった。
けれど確かに、レイはそう受け取った。
おかえり。
ここへ来たのは初めてのはずだった。
アストラリス神殿も、星の涙も、昨日まで遠い名前でしかなかった。
それなのに、その響きは不思議なくらい深く残った。
知らない場所なのに、どこか懐かしい。
初めて見たはずの光なのに、ずっと前から自分を待っていたような気がする。
喉が、小さく震えた。
「……」
何か言おうとして、言葉にならなかった。
ペンダントの温もりが、ゆっくりと広がっていく。
その奥で、何かが目を覚ますような感覚があった。
記憶ではない。
知識でもない。
ただ、頭の奥に細い光の筋が通ったような、静かな変化。
ルミナスの花を握りしめすぎないよう、そっと指の力を緩めた。
水盤の上に散っていた光は、もう元の朝の反射へ戻っている。
白い石。
青い花。
浅い水のきらめき。
そして、中庭の向こうに佇む星の涙。
すべては何事もなかったかのように静かだった。
しばらくして、ようやく周囲を見ることができた。
参拝者たちは、変わらず中庭の手前で祈っている。
遠くの護衛隊も、柱のそばで姿勢を崩していない。
誰も、今の光に驚いている様子はなかった。
(……見えて、なかったのか?)
遅れて、疑問が浮かぶ。
星の涙から届いた光。
耳ではなく、意識の奥で感じた「おかえり」という響き。
何一つ分からない。
けれど、見間違いだったとは思えなかった。
水と花と白い石の上を、一瞬で渡ってきた光。
その輝きは、まだまぶたの裏に残っていた。
服の上から胸元へ手を当てる。
ペンダントは、もう強く光ってはいない。
けれど、そこにある重みだけが、さっきまでとは少し違って感じられた。
ただ母から、大事にしなさいと言われて渡された。
エテルナへいざなわれた、あの瞬間。
危ない場面でも、何度か自分を守ってくれた。
そして今、星の涙から届いた光は、このペンダントに触れた。
ここまで重なれば、もうただの飾りとは思えない。
服越しにペンダントの形を確かめる。
分からないことばかりなのに、胸の奥が少しだけ熱くなる。
やっぱり、このペンダントは特別なんだ。
そう思うと、不安より先に、目を離せない何かを見つけたような高揚が残った。
それに、あの光が触れてからだった。
さっきまで、ゆらゆらと揺れて輪郭を結ばなかった感覚が、少しだけ澄んでいる。
何かが増えたわけではない。
けれど、自分の中のどこかが、ひとつ開いたような気がした。
目に映る景色は同じだった。
白い石も、水盤も、青い花も、祈る人々の姿も変わらない。
けれど、その奥にある空気の色のようなものが、前よりもはっきり分かる。
この場所は穏やかだ。
あの光は、自分を傷つけるものではなかった。
理由を説明できるわけではない。
それでも、そう感じたことだけは、さっきよりもずっと確かなものとして頭に残っていた。
顔を上げると、中庭の向こうで星の涙は静かに浮かんでいた。
淡い青と金の光を内側に抱きながら、何も語らない。
けれど、拒まれている感じはしなかった。
むしろ、奥へ進む道の入口だけを、そっと示されたような気がした。
手の中のルミナスの花を胸の前に持ち、静かに頭を下げる。
それが正しい作法なのかは分からない。
けれど今は、そうしたかった。
頭を上げると、朝の光が中庭に満ちていた。
水盤が白く輝き、青い花が風に揺れている。
その向こうで、星の涙は変わらず静かに佇んでいた。
しばらくその場に立ち尽くしたあと、ゆっくりと回廊へ戻った。
手の中のルミナスの花は、まだほんのりと温かかった。




