朝の広場とルミナスの花
翌朝。
窓から差し込む光で、レイは目を覚ました。
薄い布越しに入ってくる朝日は、シルヴィの石畳に反射しているのか、森で見る光よりも少し白く澄んでいた。
しばらく天井を見上げてから、ゆっくりと身を起こす。
昨日は、思っていた以上によく眠れた。
宿の外からは、人の声が聞こえてくる。
荷車の車輪が石畳を転がる音。
遠くで鳴る鐘の余韻。
どこかの店先でパンを焼いているのか、香ばしい匂いが窓の隙間からかすかに入り込んでいた。
寝台から下り、身支度を整える。
剣を腰に帯びると、その重みが自然と背筋を伸ばさせた。
今日は、アストラリス神殿へ行く。
そう思うだけで、胸の奥が少し落ち着かない。
宿を出ると、シルヴィの朝はすでに動き始めていた。
石畳の通りには、参拝へ向かう人々がゆるやかに流れている。白い布を肩にかけた巡礼者、花籠を持つ親子、旅装のまま神殿の方角へ頭を下げる老人。
通りの脇を、細い水路が流れていた。
澄んだ水の上に朝の光が散り、小さな光の点が白い壁に揺れている。窓辺には青い花が飾られ、風に触れるたび、花弁の奥で淡い金の色がかすかに息づくように見えた。
町全体が、静かな祈りの中にある。
そう思った。
けれど、不思議と重苦しくはない。
市場からは果物を並べる声が聞こえ、子どもたちは石段の端を駆け上がっていく。巡礼者の列の横を、パンを抱えた店主が笑いながら通り過ぎた。
祈りと暮らしが、同じ朝の中に並んでいる。
その流れに沿って、神殿へ続く坂道を上った。
道は少しずつ高くなっていく。
振り返れば、シルヴィの屋根が斜面に沿って重なり、その向こうに朝の畑と街道が見えた。昨日、自分が歩いてきた道が、光の中に細く続いている。
前を向くと、白い石段の先に神殿の門があった。
アストラリス神殿。
近くで見るその姿は、昨夕に遠くから眺めたときよりも、ずっと大きかった。
白い柱が空へ向かって伸び、柱頭には星と花を組み合わせた紋様が刻まれている。朝の光が石の表面をなぞり、淡い金色の線を浮かび上がらせていた。
門の両脇には、神殿護衛隊の者たちが静かに立っていた。
白を基調とした胸当てに、淡い金糸の紋章。手は剣の柄に置かれていないが、その姿勢には隙がない。
参拝者たちは緊張しすぎることもなく、その前を通っていく。
守られている。
けれど、見張られているわけではない。
そんな距離感だった。
門へ近づくと、護衛の一人が視線を向けた。
腰の剣を見たのだろう。
「参拝ですか」
「あ、はい」
少し背筋を伸ばして答える。
「中では抜剣なさらぬようお願いします」
「分かりました」
護衛は短く頷き、それ以上は何も言わなかった。
門を抜け、神殿前の広場へ入る。
そこは、朝の光に満ちていた。
白い石で敷かれた広場の中央には、浅い水盤がある。水面には空の青が映り、時折、落ちてきた花弁がゆっくりと輪を描いていた。
広場の端には、花籠を持った巫女たちが立っている。
彼女たちは参拝者に一輪ずつ、青い花を手渡していた。
花弁は深い青。
その奥に、淡い金の光がひそんでいる。
強く輝くわけではない。
けれど朝の光を受けると、花の中に小さな星があるように見えた。
(……ルミナスの花、かな)
足を止めた。
そのときだった。
広場の向こうで、一人の巫女が小さな子どもに花を渡していた。
白い麻の衣に、薄いショール。
栗色の髪が、朝の風にふわりと揺れる。
子どもが花を受け取って嬉しそうに笑うと、その巫女もやわらかく目を細めた。
なぜか、その姿から目を離せなかった。
どこかで見たことがある。
そう思った瞬間、巫女がこちらを向いた。
目が合う。
彼女は一瞬だけ驚いたようにまばたきをして、それから、花籠を抱え直して歩いてきた。
「……あなたは」
澄んだ声だった。
近づいてくるにつれ、その顔がはっきり見える。
胸の奥で、記憶が小さく揺れた。
一年前。
ベルデ村の成人の儀。
神官のそばに立っていた若い巫女。
陽の光を受けた白い衣。
風に揺れる髪。
一瞬だけ合った視線。
「あのときの……」
思わず声が漏れた。
巫女は少しだけ嬉しそうに微笑む。
「覚えていてくださったんですね」
「え、いや、その……はっきり覚えてたわけじゃないんだけど」
慌てて言葉を探す。
「でも、なんか……見たことある気がして」
言ってから、少し気恥ずかしくなった。
もっとまともな言い方はなかったのか、と自分でも思う。
巫女はくすりと笑った。
「私は覚えています。ベルデ村の成人の儀で、名を授かった方ですよね」
「うん。俺はレイ」
言ってから、少し遅れて頭を下げた。
「えっと、今は旅の途中で……アストラリス神殿を見に来たんだ」
「レイさん、ですね」
彼女は丁寧にその名を口にした。
ただ名前を呼ばれただけなのに、胸の奥が少しくすぐったい。
「私はリアと申します。アストラリス神殿で巫女をしています」
「リア……」
レイはその名を繰り返した。
声に出すと、朝の光の中にすっと溶けるような響きだった。
リアは花籠から一輪の花を取り出した。
「参拝の方には、こちらをお渡ししています」
差し出されたのは、さきほど見ていた青い花だった。
近くで見ると、花弁は思っていたよりも薄く、光を透かすように重なっている。淡い金の色は、花の奥で静かに揺れていた。
両手で受け取ると、指先にほのかな温もりが伝わった。
ただの花の温度ではなかった。
誰かの祈りが、まだそこに残っているような温もり。
「ありがとう」
自然と声が出た。
リアは小さく頷いた。
「神殿は初めてですか?」
「うん。シルヴィに来たのも初めて」
「では、少し驚かれるかもしれません。朝の神殿は、とても綺麗ですから」
「道中の宿場でも同じこと言われた」
「そうなのですか?」
リアの目が少しだけ丸くなる。
「白い石が、光を吸ってるみたいに見えるって」
「ふふ。分かります」
リアは水盤の方へ視線を向けた。
「朝は、石も水も花も、少しずつ光を返すんです。大きな光ではありませんけれど……見ていると、心が静かになります」
その言葉は、説明というより、彼女自身がいつも感じていることをそのまま口にしたようだった。
手の中の花を見る。
青い花弁の奥で、金の光が小さく揺れていた。
「リアは、ずっとここに?」
「はい。まだ学ぶことばかりですが、巫女としてお仕えしています」
「そっか」
何を言えばいいのか、少し分からなくなる。
けれど沈黙は、不思議と気まずくなかった。
水盤の上を風が通り、朝の光が細かく揺れる。
その光が、リアの白い衣の袖にも淡く映っていた。
リアはふと、レイの腰の剣に目を向けた。
「旅は、大変ではありませんでしたか?」
「ああ……まあ、大変だけど」
少し考え、肩の力を抜いた。
「でも、悪くないよ。歩いてると、今まで知らなかったものが見えてくるから」
「そうですか」
リアは微笑んだ。
「レイさんらしいですね」
「え、俺らしい?」
思わず聞き返してしまった。
リアは少し困ったように、けれど楽しそうに目を伏せる。
「すみません。うまく言えません。ただ……ベルデ村で見たときも、少し遠くを見ているような方だと思ったので」
「遠く?」
「はい。目の前にいるのに、どこか、その先も見ているような」
返事に詰まった。
そんなふうに見えていたのか。
自分では、ただ分からないことばかりを追いかけているだけのつもりだった。
けれどリアの言葉は、不思議と嫌ではなかった。
広場の端で、別の参拝者が立ち止まっているのが見えた。
リアもそれに気づき、花籠を抱え直す。
「すみません。そろそろ戻らないと」
「あ、うん。仕事中だったよな」
「はい」
リアは一歩下がり、丁寧に頭を下げた。
「神殿、どうかゆっくり見ていってください」
それから少しだけ表情をやわらげる。
「きっと……何か感じられると思います」
レイは花を手にしたまま、静かに頷いた。
リアは他の参拝者の方へ歩いていく。
栗色の髪が、朝の光を受けてやわらかく揺れた。
その背中を、しばらく見送った。
胸の奥が、ほんの少しだけ熱い。
何かが始まったような気がした。
けれど、それが何なのかはまだ分からない。
手の中のルミナスの花が、かすかに温もりを返している。
花を見つめ、それから顔を上げた。
白い神殿は、朝の光の中で静かに佇んでいた。
その奥で、何かが自分を待っている。
そんな気がした。




