春への種まき
予想通り、ディオンは雪が深くなる前に領邸に戻ってまいりました。
人払いをした私室の中、二人きりでの会話ですが、そこに甘い色はありません。わたくしたちの声以外は、暖炉の薪がときおり立てるパチパチといった音だけです。
そんな静かな部屋に、ディオンの落ち着いた声がぽつりと落ちました。
「春に向けての種は蒔き終わったよ」
「……ありがとうございます、ディオン。お疲れさまでした」
ディオンの、窓の外に広がる色と同じ双眸には、少し疲れが見えます。
国のために、アディのために、わたくしのために頑張ってくださったこの方に、どんな言葉をかけてさしあげたらいいのかしら。どの言葉も不十分な気がして、わたくしは言葉もなくそっと身を寄せました。
身の危険を呈してまで、わたくしを守ってくださった。その気持ちがとても嬉しい。
そうね、わたくし、ずっと誰かに守っていただきたかった。エインズワースに来たこと自体が、実際はお継父様からの精一杯の守護だったけれど、それに気付けたのもつい最近なの。だから、こんな風に目の当たりにすることは初めてなのですわ。
「本当に、ありがとうございます。わたくし……」
言葉を詰まらせるわたくしの背を、ディオンの大きな掌が撫ぜました。
この掌は、わたくしを一番安心させる手。この手だけを汚すつもりはございません。直接は無理ですが、間接的にならばわたくしにもできますわ。
「尊き薔薇の方とご相談して、早々に末の君はお相手様の領地に静養へ向かうことになりました。今の段階では公式発表はせず、春の議会で不在と共に公表すると。末の君はそちらの総力でお守りになるそうです。それと共に、薔薇の方のご実家から手伝いの人員が多数、薔薇の方の許へ向かわされるそうです」
ランドルフ殿下は、バークレー公爵家で匿われます。
静養ももちろん本当のことですが、簒奪するにあたってカタリナ様たちへの人質とならないよう、バークレー公爵が守ってくださるそうです。
殿下はそのままあちらで婚姻し、新生活を始める手はずは整っております。
同時にフィリップ殿下の後ろ盾として、カタリナ様とご実家のフィーガシュー公爵家が王宮に集結し、殿下とカタリナ様の御身をお守りしてくださるそう。
お継父様お継母さまも同じく、王宮でお二人をお守りしてくださると伺いました。
「セントレス家へ中の君が向かわれるのは、春の直前と決まった」
「そうですか……」
陛下にとって、スティーヴン殿下は最愛の方との息子であり、同時に権力の継承者でもあります。カタリナ様の息のかからない、好きなように動かせる手駒。
陛下にとっての誤算は、手駒であるはずの掌中の珠が、まさかの反逆側の賛同者だったことですわね。
「これで五公爵の意見は揃った。家門の者たちも賛同している。あちらの力は下位貴族ばかりだったが、公爵家の寄り子たちは皆、こちらに着くことを表明している」
「わたくしも、仲良くしてくださっていたご夫人たちに、夫の力添えによって戻られたあの方と和解した旨をお伝えいたしました。きっと、風向きが変わったことをわかっていただけると思います」
貴族は、家を、血を後世に残すことを大切にしております。
陛下やリリベル様が権勢を誇っていた頃は、そちらにおもねる貴族も多かったのですが、五公爵が王妃陛下に付き、王妃陛下の掲げる第一王子殿下がアークベリー公爵家やエインズワース公爵家の後見を得たと知ったならば──その流れは一気に変わります。
そして、議会直前に陛下の跡継ぎとして目されている第二王子殿下が、その手から逃げ出したとしたら。
「あとは、春を待とう」
「ええ……」
議会が始まるまで、あと二月。それまではあちらへ情報を漏らすことなく、そっと隠れていなければ。
「雪が深まった後の肥料の調整は、義父上たちがやってくださるそうだ」
「王宮のことは心配なさらないでください。薔薇の方はとても有能ですから」
ディオンの胸元に頭を寄せると、そっと背に当てられていた手が、頭に移りました。遊ばせたおくれ毛を弄りながら、ディオンがそっとため息をつきました。
「宰相閣下に謝られたよ。もっと後進を育てるのを急げばよかったと。それについては私も同罪だから何も言えないね」
「ディオンやシーク侯がいくら有能でも、文官の方々の力なくては末端までその力は行き届きませんものね」
「その文官たちも、人数がいなければ作業効率も落ちる。一人で複数人分の仕事を抱えるより、余力がある方がよほど仕事が回るというものだ」
本当に後悔ばかりだ、とディオンが珍しく愚痴ります。十五も上の男性ですけれど、なんだか可愛いですわ。
「わたくしも、王宮にいるときは同じでしたわ。自分がどうにかしなくては、と。でも、ここにきて思いましたの。一人で抱えて動くより、皆と行った方が負担も少なく、結果的に早く行えるのだと。上の者は全体を見て指示を飛ばし、責任を取ることだけに集中した方が、きっと物事はすんなり動くのですわ。末端の詳細は、上の者にはわかりませんもの」
王宮では、他国の方をもてなす宴席の食事内容までわたくしが指示することがたびたびありましたけれど、こちらに来て思いましたわ。百歩譲ってお客様の好みをお伝えするところまではしても、メニューを決めるのなんて厨房で働く専門の方に任せておけばよろしいのよ!
……あら、なんなら好みや禁忌食材の伝達も、わたくしがやらなくてよかったことではありませんこと? それぞれ他の者が調べて指示をして、その指示をしたことのみをわたくしや殿下が把握しておけばよかったのですわ!
そう、あの宴席の全体予定だって、わたくしが全部把握して指示して調節して……いやですわ、今考えてみるとありえませんのよ! どう考えてもわたくしの仕事ではありませんでしたわ! 外交を司るアークベリー家や、当日国の顔として参加されるフィリップ殿下のためだからと頑張ってしまったあの頃のわたくし! なんて考えなしなの!
「本当に……もっと現場を担当する者たちにまかせるべきでしたわ。誰か一人が抱え込むのはおかしなことでした」
過去の自分の愚かさに頭を抱えたくなったわたくしに、ディオンは優しい声をかけてくださいます。
「そうだな。私ももっと手足となる者たちを信用して任せるべきだった。そして、上の者だって一人では判断に困る時に動けなくなるのだから、相談相手が複数いなくてはね。私にとってはディアや義父上、宰相閣下だな」
「ふふ、わたくしとおんなじですわ。わたくしも、ディオンや皆様がいてくださらなければ駄目ですもの」
うさぎは馬にならなくてもいいのです。馬は馬の領分を、うさぎはうさぎの領分をそれぞれ全うし、そしてお互いに協力したならば、きっともっと早く目的のものに手が届くはずですもの。
「ところでディア」
髪を弄っていたディオンの長い指が、わたくしの額に移ります。熱なんてありませんけど、どうしたのかしら。
「ん、少し熱いか……? 最近食が細くなっているという報告を受けたが……体調が悪いのか? 度々体調を崩しているそうだが」
「あっ、大丈夫ですのよ! わたくし、よく頭痛がする体質ですの。冬の始めはよく起こるのですわ」
たしかにここまで頻繁ではありませんでしたけれど、王都よりエインズワースは寒いですから、きっとそのせいですわ。
ですが、奥様やご両親を流行り病で亡くしているディオンは、わたくしの体調不良が気になるご様子。わたくしも逆の立場であったなら同じように心配いたしますし、それに……心配していただけることが、少し嬉しくもありますの。
「ご心配をおかけして申し訳ありません」
「少しでも普段と違うようならば言ってくれ。君の体調はなにより優先されるものだ。そうだな、医者を呼ぼう」
「薬湯ならば飲んでおりますわ。大丈夫ですわよ」
着ていた自身の上着まで着せかけようとするディオンをおとめするのは、ちょっと骨が折れました。
◇
お医者様の見立ては、環境の変化による体調不良ということでした。
ですが、ディオンの心配は収まりません。わたくしの頭痛が続いているのと、食の細さが改善されないことが原因なので、わたくしは言われるがままに安静にしております。
動かないからお腹がすかないのでは、ともちらりと思いましたけれど、体調を崩しているわたくしが申すことでもありませんわね。
「リディ母様、具合はどうかしら……」
ディオンの不安が伝播したのか、アディも不安げです。
お勉強の時間以外はわたくしの隣にずっといるため、夫婦の寝室にはアディの私物がだいぶ増えました。今も、寝台に横たわるわたくしの隣で静かにしておりますし。
「あたたかくしておりますし、今日は頭痛もないから大丈夫ですのよ。本当に、冬場はよく頭痛が起きるだけですの」
「でも……リディ母様、寝込むことなんてなかったから……」
実母であるシャーロット夫人が妊娠中に流行り病にかかり、寝付いていたことを知っているアディは、わたくしが寝台で静養しているだけで不安なのですわね。
上体を起こしたわたくしは、そっとアディを抱き寄せます。
「アディ、優しい子ね。わたくしは大丈夫ですの。本当なのよ? 部屋を暖かくしているし、ここのところ頭痛が起きる頻度も減っていてよ? ただ念のため、こうやって横たわっているだけで、わたくし自身は元気なのです」
「でも……リディ母様が、もし……」
自分で言っていて不安がせりあがってきてしまったのでしょう。アディの雪空の瞳にぷくっと涙の粒が浮かびます。
「わたくし、健康ですのよ。頭痛持ちではありますけれど、ここ十数年寝込むことなどありませんでしたもの」
「約束ね、ね、約束してね。どこにもいっちゃ、やなの……」
「約束いたしましてよ。わたくし、ずっとアディの側におります。お任せくださいまし」
そう言って小さな頭を撫でますと、アディは泣き顔を隠すようにわたくしの胸元に顔をうずめました。
「不安にさせてしまいましたわよね。ごめんなさい、アディ」
「ううん……元気なら、いいの」
「失礼します、奥様、お嬢様。薬湯をお持ちいたしました」
アディと話していると、ミシェルが薬の時間を知らせてきました。
ここ最近薬湯を変えたのだけれど、頭痛の頻度が落ち着いてきたのは、それが効いているのかしら。王宮の頃は清涼感の強いものを使っていたけれど、今は少し癖がある、まろやかな味のものになりました。蜂蜜が入っているせいか、干し草のような香りの中に甘い香りが混じって、少し不思議な気持ちになりますわ。
「母様のお薬、最初は林檎みたいな香りのお茶だったのに、今は違うの?」
「そうですね、奥様のお身体に合うものに変更しております」
「ねえ、最近、レイラとエミリーじゃなくて、ミシェルとポーラばかりが母様のところにいるわ。本当に母様のお身体は大丈夫なの?」
薬湯を口にしている隣で、アディがミシェルを質問攻めにしていますわ。
たしかに最近レイラやエミリーといった普段の侍女たちはあまり配属されることはございませんが、それはわたくしが身支度を整えたり執務をこなしたりすることが減ったためですのよ。
「ええ、お医者様からも問題ないと言われております。ただ、わたくしたち年配の者の方が対応しやすいため、今はお嬢様がおっしゃったような配属にしております」
「ほんとう? ほんとうに母様は大丈夫?」
「大丈夫でございますよ。もう少ししたら頭痛もおさまりますでしょう」
「元気になるのね?」
「なりますとも!」
アディとミシェルの会話を聞きながら、わたくしは薬湯を飲み干しました。
王宮のものより薄く作ってくださっているのに効きがいいなんて、ありがたいことですわね。濃い薬湯は飲みづらかったですもの。
「ただ……エインズワースはこれからもっと寒くなりますから、早めに王都へ戻られる準備をすると伺いました。今は、馬車に詰めるクッション類を支度しております」
「ええ、本格的に雪が積もり出したら馬車が動けなくなるから、その前には戻る予定ではありますわね。それにしても、クッション? 王都から来るときにはたくさんは持ってこなかったわ」
王都とエインズワースは比較的近いとはいえ、長時間の馬車の旅では身体が痛くなるもの。そのため座面に敷くクッション類はいくらかむこうから持ち込んではまいりましたが……それ以上に準備しているの?
「母様のお身体を大事にするため?」
「そうですね、それもあります。それに、お嬢様もたくさんもたれかかれるものがあった方が楽な旅路になるかと存じます。つまり、皆様のためでございますよ」
「そんなに手間をかけなくてもいいですわ。エインズワースも冬ごもりの準備がございますし」
「奥様、わたくしどもは奥様達のお世話をさせていただけるのが楽しいんですよ。メイドたちも刺繍の手習いになると言って、暇があれば作成に励んでおります」
「そう……ミシェルたちが楽しいのならばいいのだけれど。その代わり、きちんと手間賃を渡して頂戴ね。もちろん、無理な作業もしては駄目よ? これから寒くなるのだから、まず身体を労わって頂戴」
見返りのない仕事なぞさせてはいけませんわ。特に本来必要のない仕事ならば、その分報酬を与えるべきです。
それでも……気遣いにあふれる心づくしの準備の報告は、ありがたい限りですわね。エインズワースの皆は、本当に気持ちよく働いてくださいますから、わたくしも全力で守りたいですわ。
そんな風に思っていたら、アディから「もう! 母様こそ身体をいたわってほしいの!」と可愛らしく怒られてしまいましたわ。
ブラック企業のブラックなところって、やっぱり人手が足りなくて一人頭の業務量が多いことだと思うんですよ……。余裕がないと人は削られていく。
リディアはようやく過去の自分の置かれた状況がかなりおかしかったのだと憤れるようになりました。
外国の賓客をもてなすパーティの音頭を取るのは本来外交関係者かなと思うのですが、この時は外交担当の人数が少なく(これは今も少ない)、皆外国に行ってしまっている→代わりになる人がいなくて偉い人にお鉢が回る→リディアに任せておけば動けなくなるし(フィリップサイド)、面目は立つから(王宮サイド)、リディアに押し付けとけ!なルートだったようです。
一介の公爵令嬢がやる仕事じゃないですね。誰ですかね、この仕事持ち込んだの。
この時はリディアが失敗することを望んだ人が画策してました。国として失敗は駄目なのでは?という疑問より、第一王子やその婚約者の失敗を望む声の方が大きかったようです。
外交担当の家の令嬢であり、第一王子の婚約者なのだからリディアが相応しい!と言われて、当時のリディアでは断るという選択肢すらなかった模様。




