馬にはなれなくても、うさぎはうさぎであるだけでよいのです
エインズワース領に初雪が降ったのは、ディオンが不在の時でした。
この地の初めての雪を共有できなくて残念ですが、仕方ありません。春に向けて、各地で根回しを頑張ってくださっているディオンの無事を祈るだけですわ。
窓の外に目をやると、白い花びらのように舞う雪。生気溢れる美しい装いを見せていた庭園も、徐々に静謐な美しさへ姿を変えております。
……雪が積もって立ち往生などなさらないといいのですが。エインズワースで本格的に積もる前には王都へ向かうとおっしゃっていたので、明日あたりにはお戻りになるかしら。
庭から目をそらし、つと空を見上げると、しんしんと雪のかけらを降らせるその空は、夫や娘の瞳の色に染まっております。
純白より幾分灰がかったその色が、どこか暖かく思えるのは……きっと、二人の影響ですわね。だって、ディオンもアディも、とても暖かく、優しい人たちだもの。二人の持つあの雪空は、わたくしにとってとても愛おしいもの。
ディオンのぬくもりがなくてさみしい。今はアディもお勉強の時間だから側におりませんし、こうして部屋で一人でおりますと、なんだか夢の中にいるみたい。
目を覚まして、またわたくしひとりぼっちだったらどうしましょう。王宮の、あの客室にいたら。
冷たい窓ガラスにそっと額をつけて、ため息をつく。それは、身震いをするほど恐ろしい想像です。
わたくしは、もうあそこには立てない。アディの、ディオンの、エインズワースの暖かさを知ってしまった今、もうあそこへは戻りたくないんです。
「早く……」
早く、お戻りになってほしい。
早く、わたくしの憂いなど笑い飛ばしてほしい。
冷たいガラスにわたくしのため息がかかって、曇りました。
◇
「リディ母様!」
午後のお茶の時間になって、アディと顔を合わせますと、あの憂いが嘘のように吹き飛びます。いやだわ、わたくし、なんであんなに暗い考えを巡らせていたのかしら。
今日のアディは、赤いベルベットのドレスを着ていて、まるで冬薔薇のよう。明るい笑顔はエインズワースの華ね。とても愛らしくて、愛おしいわたくしの花。
「お勉強、お疲れ様ですわ。よく頑張りましたね」
「メアリ先生の授業も面白いのよ! リディ母様の授業も大好きだけど、メアリ先生のも好き。でもね、たまにはリディ母様の授業も受けたいなぁ……」
今まではアディの教育はわたくしが主で行っておりましたが、ここ最近わたくしが体調を崩しがちだったため、ディオンが何人かの先生を正式に雇ったのです。そのため、アディの勉強の際にはわたくしは別室で家の仕事をしておりました。
「そうですわね、わたくしもアディと学ぶのはとても楽しゅうございましたから、たまにはご一緒させていただきたいですわ」
「あのねあのね、わたし絵本を持ってきたの。さっきの授業の復習として、先生がリディ母様に聞いてもらってくださいって」
「まあ! 嬉しいわ。もしよかったらお茶の前に聞かせてくださる?」
「リディ母様は暖炉の近くにいてね。寒いとまた頭痛くなるかもしれないから」
アディの暖かな手に誘われるように暖炉前のソファに腰かけると、侍女のミシェルがひざ掛けをかけてくれました。シーク産の羊の毛をたっぷり使って編まれたひざ掛けはとてもあたたかくて、この冬のお気に入りのひとつです。
「奥様、食欲はございますか?」
「いえ……紅茶だけいただくわ」
「……よろしければ、温めたミルクをお持ちします。生姜と蜂蜜を入れるとおいしいのですよ。身体の芯から温まれば、頭痛も少し軽減するかもしれません」
ここ最近悩まされている頭痛が心配なのか、ミシェルが新しい飲み物を提案してくれました。温めたミルク……どんな味なのかしら。アークベリー邸では冬の飲み物は温葡萄酒か紅茶ばかりで、王宮では紅茶しか飲まなかったから、少し気になりますわ。
「リディ母様、ミルクにするの?」
首を傾げるアディに、ミシェルが微笑みます。
「お嬢様も同じものを召し上がられますか? ジンジャーミルクはこの地方でよく冬季に飲まれる飲み物なんですよ」
「お父様も飲んでらした?」
「ええ、旦那様が幼い頃は、よく。ホットワインよりジンジャーミルクの方がお好みでしたね」
わたくしの侍女頭を務めるミシェルは昔からこのエインズワース邸にいるので、ディオンの幼い頃を知っております。幼いディオン……どんな風だったのかしら。
「ホットワイン! 気になるわ!」
「ワインという名は付けども、ほとんど温めたジュースですけどね。こちらも甘くておいしいです」
「ミルクとワインはどっちが甘いの?」
「どちらも甘いですよ。ワインの方は香辛料が効いていますが、葡萄と林檎とオレンジで作るので甘いのです。大人はワインを足して、子どもはそのまま飲みますよ」
「わたし、ホットワインが飲んでみたい……だって、ちょびっと大人っぽいわ」
ワインという名前に惹かれて、アディはホットワインを選ぶみたい。目を輝かせてお願いをしております。可愛いわ。
準備の手間を考えてわたくしも同じものを頼むと、ミシェルからはジンジャーミルクを再度勧められました。食が細くなっているわたくしに、少しでも栄養のあるものを摂ってほしいとまで言われてしまうと、何も言えません。
「果物もお持ちしますね。オレンジなどいかがですか? いい香りですよ。冬葡萄の方も是非味わっていただきたく」
葡萄は秋の果物ですが、エインズワースや、ここより北の地方では雪室や氷室に保管をすることで冬も食べられるように工夫しています。それを冬葡萄と呼んでいるのですが、貴重な果物なので、王宮でも頻繁には食卓に上がりません。
「まぁ……そんな貴重なものを」
「ヴァーノン山の氷室に保存すればいいので、そこまで貴重ではないのですよ。ここは、王都より冷えるので」
食欲はなかったけれど、冬葡萄と聞いて揺らいでしまいました。あれは本当に甘くておいしいですから、アディに味わってほしいですわ!
「リディ母様、ミシェル、冬ぶどうってなぁに? 普通のぶどうとは違うの?」
「秋に食べたものとは少し品種は違いますが、普通の葡萄ですよ。ですが、寒いところで長く保存できるので、果物が減る冬には貴重になるのです。北のスチュアート領などが産地として有名ですわね」
「とても甘い葡萄ですよ、お嬢様。今お持ちしますから、お待ちくださいませね」
ミシェルが準備のために退室すると、アディの側についていたヘレンがそっと絵本を手渡します。ベルンドーク語で書かれた、うさぎのお話ですわね。
アディは手渡された絵本を開くと、照れたように笑いました。
「じゃあ、ぶどうが来るまで、リディ母様、聞いてくださる?」
「もちろんよ、アディ。ぜひ聞かせてくださいまし」
「はい! えぇと……むかしむかし、む、みゅ、みゅーねっとの、森に、足のはやーい、けれどもとてもちぃさな、うさぎ、が、いました……」
たどたどしく始まった音読は、けれどもすぐに滑らかになっていきます。
まぁ、アディ、とっても上達が早いのね! 以前苦戦していた〝うさぎ〟も、綺麗に発音できてますわ!
可愛らしいアディの音読を聞いていると、わたくしはなんでか泣きたくなるような気持になってきました。
こんな幸せが夢じゃないなんて、なんて素敵なことでしょう。
だからこそ、この幸せを、守りたい。いいえ、守るのです。希望ではなく、現実として。
「うさぎは、馬にはなれませんでした。でも、うさぎは、自分の足で、どこまでもとんでいける。うさぎは、うさぎのまま、世界一のうさぎになりました……おしまい」
「素敵でしたわ! 上手に読めましたわね、アディ!」
感極まって拍手をいたしますと、アディのふっくらとした頬が薔薇の花のように赤らみました。
「もうこんなにしっかり読めるなんて……呑み込みが早いですわ。発音も綺麗でしてよ」
「でもね、やっぱり〝うさぎ〟が難しいのよ。間違えそうでドキドキしちゃうの」
「ドキドキしてしまうのはわかりますわ。わたくしも、初めはそうだったもの。おんなじですわ」
そのままアディと絵本について話をしていますと、ミシェルとティーワゴンを押したメイドが部屋にやってきました。
「ぶどう!」
「アディ、座って待ちましょう? さあ、わたくしの隣にいらして」
暖炉の前に立っていたアディの手をそっと引いて、ソファに座らせます。ぽすんとおとなしく腰掛けたものの、アディの視線は果物にくぎ付けですわ。葡萄、好きですものね。早く食べてみたいですわね。
絵本を片付けるためにヘレンが退出をする傍ら、テーブルの上に飲み物や果物、焼き菓子などが並べられていきます。
「さあ、こちらが冬葡萄ですよ。せっかくなので皮付きのものを少しだけ準備いたしました。お嬢様は初めてですからね」
通常なら食べやすく皮を剝き、種も取り出してある状態でしか供されることはありませんが、どういうものなのかを見せるためにわざわざ準備してくれたみたいですね。アディの「学びたい」という気持ちに添ってくれる心がとても嬉しいですわ。
「うわ、すごい……あまぁい」
冬葡萄を口に含んだアディが、思わずといった様子で感想を漏らしました。くすぐったい気持ちで、わたくしも口にいたします。
秋葡萄より甘みが強く、氷室で保管されていたためか、果汁もしっかりあります。口の中に広がる甘みに、つい顔がほころんでしまいますわね、アディ!
「たくさん食べてくださいましね、アディ。わたくしも食べますが、たくさんは入らないの」
「ミルクも飲まなきゃだもんね」
「そうですわね、冬葡萄ばかりでは身体が冷えると怒られてしまいますわ」
実際にはミシェルたちに怒られるということはございませんが、つい甘えたくなってそんなことを口に出してしまいます。
ですが、側で控えているミシェルが真面目な面持ちで頷くので、わたくしはこらえきれずに笑い声をあげてしまいました。
うさぎは弱いかもしれません。馬のように早くは走れないかもしれない。
けれど、うさぎにはうさぎの強みがあり、戦い方があるのです。
だから、この幸せを守るために、わたくしも頑張りますわ。




