挿話:真実の愛を持っていた人
フィリップには、幼い頃から婚約者がいた。リディア・アークベリー公爵令嬢。蜂蜜色の髪と青空の瞳を持つ美しい令嬢は、賢く、つつましく、すべてが完璧だった。
はじめはフィリップも嬉しかった。可愛い婚約者は全力で自分を支えてくれていて、輝かしい未来しか見えていなかった。第一王子たる自分は、長じて王太子となり、国王となる。そんな未来しか見えていなかった。
躓いたのはいつの頃だったろうか。
王子妃教育を終え、王太子妃教育まで受けだしたリディアと違って、外国語で躓きまくり、勉強の進みが遅くなったころだったろうか。
それとも側近が付き、彼らとの交流が楽しくなったころだったろうか。
自分の才能に、限界が見えてしまった頃だろうか。
優秀な婚約者と、平凡な自分。
有能な婚約者と、彼女に支えられるハリボテの自分。
誰からも頼られる婚約者と、カラッポの自分──
いやがおうにでも突きつけられる現実に気づいてしまってからは、フィリップは今までのようにリディアを見れなくなった。
リディアが悪いのではない。わかっていたけれど、自分の弱さを直視できなかったフィリップは、すべての原因をリディアに求めた。
王子である自分を尊重せず、有能さをひけらかすリディアが悪い。
自分を支える姿を他者に隠さないリディアが悪い。
自分に甘えず、頼らないリディアが悪い──
他責思考に陥ったフィリップに、側近たちは甘い毒のような言葉を注ぎ続けた。間違いを正すこともなく甘言を囁き堕落させる彼らに、弱いフィリップは喜んで堕ちて行った。
フィリップの愚かさを補佐するリディアは、フィリップの地位を妬んで脅かす意地悪な悪役になり。
フィリップの欲しいものを差し出す側近たちは、忠義の塊として重用され。
そしてフィリップは、最大の間違いを犯すのだ。
(今ならばわかる。僕の弱さがベティと胎の子を殺し、デイヴィスを破滅させ、リディアに傷を負わせた。王族として教育されていたのにも関わらず、すべてから逃げたいと易きに流れた僕が、皆の人生を狂わせた)
ベティと出会ったのは、デイヴィスの手引きだった。もしかしたら仕組まれていたのかもしれない。けれども、彼女を愛したあの気持ちだけは真実だったと、フィリップは思った。
真実の愛。甘い言葉だ。けれどもそれは、他者の命や人生と取り換えていいほど重いものではなかった。王族として優先すべきものを間違えた。自分の愛は単なる愚かさの行く末でしかなかった。多数の命を絶たせ、母や弟たちを悲しませた真実は、正しいとしてはいけないものだ。真実であっても、間違っていた。
フィリップは、幼い頃から父の無能さと、それを全力でもってかばい続ける母の姿を見てきた。一日も早く母の助けとなりたかったし、父のような王にはなりたくないと思っていた。
だが、自分もまた父の子だったのだと、今となっては思う。愚かさが、無能さが、腹立たしいくらいに同じだった。
あんなにも忌避していたのに。
父と同じにならないための、リディアだったのに。
自分のみっともない劣等感など、リディアに話してしまって頼ればよかったのだ。真面目で、親切で、頑張り屋の彼女ならばきっと、微笑んで受け入れ、助けてくれただろうに。
自分は、頼るべき者を間違えた。
眠るたびに、父の哄笑と、母の悲鳴と、こわばった近衛隊長の顔が現れる。毒々しい血しぶきと、床に転がる最愛の人の首と共に。
見開かれたこげ茶の瞳。わななく薄紅の唇。
そして、真実の愛の首を刈った血まみれの剣が己の手にあるのを見て、悲鳴を上げて目覚めるのだ。
(ベティを殺したのは父上だ。だが、その剣を持たせる道をもたらしたのは僕だ。僕が、ベティを殺した──)
悪夢がフィリップを苛むというのならば、それはフィリップに下された罰なのだろう。一生、あの悪夢と共に生きていくのだ。
憔悴した日々を過ごしていたフィリップの許に一通の手紙が届けられたのは、秋も深くなったある日のことだった。
◇
(手紙……?)
幽閉されているとはいえ、フィリップがいるのは豪華な作りの離宮の一室だ。だが、差し入れられる品物はすべて王宮の統制下にある。三食きちんと食事が出されるものの、外の情報はほぼ入ってこない。
離宮のフィリップが知っているその後のことは、宰相であるシーク侯爵から口頭で伝えられたことだけだ。罪人としてデイヴィスが処刑され、他の腹心たちもそれぞれ罰を与えられ、フィリップが婚約破棄を突きつけたリディアがよそに嫁いだという、三つの結末。
食事のトレイに隠すようにしておかれたその白い封筒を、フィリップはじっと見つめた。宛名すらない、白い封筒。しばらく眺めたのち、おそるおそる手を伸ばし、裏返す。薄紅の封蝋には、紋章の押印はない。宛名も署名もないことを考えても、秘密裏に届けられたものだろう。
(母上……?)
封蝋の色からわずかな期待を持ち、封を開ける。ひどく失望されたのか、幽閉されてからというもの、母を始め誰からも手紙など来なかった。
だが、フィリップの期待は、思いがけない形で裏切られた。
「……リ、ディア」
〝敬愛なるフィリップ殿下〟という書き出しから始まるその手紙を、フィリップは握り締めた。
かつて、自分が身勝手にも踏みつけにして、冤罪をかけ、高潔なるその尊厳を汚した婚約者。どんな恨み言が書いてあるのかと身が震えたが、自分に彼女の恨みを退ける権利はない。どんな罵詈雑言も受け入れるべきなのだと、勇気を振り絞って美しいその手蹟で綴られた文章を読み始めた。
(そんな……)
リディアの手紙は、フィリップを案じる言葉から始まっていた。
フィリップの心労に、悲しみに、慟哭に寄り添う言葉。側にいた時にはもらったことのないそれらは、リディアの謝罪に繋がっていた。
支えることがフィリップのためになると信じていたが、離れた今、ようやく個人として求められていたものが違っていたことに気付いたこと。国のための婚約者としてしか寄り添えなくて申し訳なかったこと。早く気づけなかったことが悲劇を起こす一因となってしまった後悔が、真摯な言葉で綴られていた。
(リディアは悪くない。悪くないのに……)
フィリップなど足元にも及ばないほどに優秀な元婚約者は、やはりフィリップより先にいた。昔はこの能力の差が恨めしく、つらく、苛立たしかった。だが、離れてみれば、こんなにも自分のことを考え、思い、助けてくれていたのだとわかる。
(僕は、愚かだ)
手紙は複数枚に亘っていた。フィリップを案じる言葉、リディアの後悔や謝罪に続いて現れたのは、フィリップの起こした悲劇が引き出した未来の姿。
増えた負担によって身体を壊した実弟。仲睦まじかった婚約者との婚約を解消した異母弟。人手を失ったことでままならなくなった宮中。そして、それを無理やりどうにかしようとして、愚かにもほどがある決断をしようとしている、父王。
〝このままではいけません〟。そう、リディアは言う。このままでは国が壊れると。
父はリディアを王宮に戻そうとしているという。異母弟を王太子にするための道具として、彼女を離婚させ、引き戻そうと。それがうまくいかないようならば、自分の側室として新たに子どもを産ませようと。
(こんなことを、望んでいたんじゃない。僕は、なにを──)
〝縁が切れたわたくしが願うのもおこがましいことですが、今はフィリップ殿下しか頼れません。どうか、そのお慈悲に縋らせてください。どうか、あなたの弟たちを、あなたの母を、あなたの愛した国を助けるため、また進退窮まったわたくしへ、どうかあなたの手を差し伸べてはくださいませんでしょうか。
わたくしは、あなたの許を離れて初めて、あなたのおっしゃっていた真実の愛がなんなのかを理解いたしました。それから切り離されることの、耐えがたい苦しみも。
あなたから真実の愛を奪う一因となったわたくしが、あなたへ助力を乞うことは愚かしいとわかってはおりますが、今はあなたしか頼れないのです。
このままでは夫は血塗られた道を往くでしょう。国のため、娘のため、わたくしのために。
わたくしは、これ以上血が流れることを望みません。あなたが望むなら、わたくしはどんな罰でも受けましょう。ですが、わたくしは、娘から、夫から、このエインズワースの地から離れることは、どうしてもできないのです。
わがままだとは承知しております。ですが、生涯たった一度のわがままを、あなたへ願うことを許していただきたいのです〟
フィリップは、知らず涙をこぼしていた。
頼られたかった。可愛い婚約者の、あこがれる王子様でいたかった。そう、すべてはそこからはじまっていたというのに。
(リディア、君は──幸せになったんだね。そして、僕の家族が、君のそんな幸せを壊そうとしている。それなのに、君は、僕を思い出し、頼ってくれたのか)
彼女は王宮を出て、エインズワースの地で真実の愛にたどり着いた。そして今、その愛を守るために自分のできることを為そうとしている。フィリップの許に手紙を届けるために、きっと彼女は様々な伝手をたどったはずだ。
フィリップは、真実の愛と信じた彼女のために手を尽くさなかった。傲慢にもすべてを手にしたまま愛をつかもうとし、ごみのようにリディアを捨て、結果すべてを失った。
(僕にできることはなんだ)
このままこの離宮で自らの愚かさを嘆くことか。
ベティと、生まれぬまま死んでしまった我が子のために泣くことか。
自分のせいで苦労をかけた母や弟たちに、自分と同じ悲しみを負わせることが、自分のできることなのか。
否。
フィリップは、リディアの手紙をぐしゃりと潰しかけ──寸前で手を離した。
そうだ、自分にはまだできることがあるはずだ。
床に落ちたリディアの手紙を拾い上げたフィリップは、再びそれを封筒に戻すと、そっと大切に書棚にあった本に挟んだ。
嘆く日々は終わりにする。そのための一歩として、フィリップは宰相を離宮に呼ぶよう、離宮の使用人に命じたのだった。




