怖いけれど、手を伸ばしてみようと思うのです
翌日から、ギデオン様はあの手この手で愛称を呼ばせようとしてまいります。敬称をつけたり、愛称でない名前で呼ぼうものならば、呼ぶまで練習させられる始末。
ねえ、なんでですの!? わたくしたち、契約結婚ですわよね!?
困惑するわたくしに、アディがにこにこと爆薬を落としてきます。
「お父様はリディ母様が大好きみたい。わたしと一緒ね!」
「なっ……」
「リディ母様は? お父様のこと好き?」
好きという感情は、エインズワース家に来るまでわたくしとは無縁のものでした。ようやく好きなものを感じ始めたわたくしにとって、他者への好意を考えることは難題です。ええ、だってアディが問うているのは──夫婦としての愛情なのですもの! さすがのわたくしも、それくらいわかります! だからこそ、頷けないんですのよ!
やめて! 瞳をキラキラさせてわたくしを見ないで!
「アディ、その……わたくしは」
「アデル、今お父様はディアを口説いているところなんだ。ディアはお父様の妻になる前にアデルの義母になってしまったからね。今どうにか妻になってほしいとお願いしているんだ」
困惑したわたくしが口を開くのと、背後のドアからギデオン様の声がするのは同時でした。いやですわ! 聞かれていましたの!?
「お父様! お父様はリディ母様が好きなの?」
「好きだよ。かわいらしく、努力家で、とても好ましいと思っている」
「わたしと同じね!」
「そうだね、アデルに負けないくらい好きだよ」
アディを! 介して! 好きって言わないでくださいまし‼︎
耐えられなくなったわたくしは、思わず立ち上がってしまいました。椅子を蹴立てるように立ち上がるなんて淑女として褒められたことではございませんが、これ以上聞いていられなかったのです。
「ギデオン様!」
「違うよ、ディア。さあもう一度」
楽しそうなアディの笑い声を伴奏に、わたくしは何度もギデオン様の愛称の練習をさせられました。
なんていう屈辱!
◇
挨拶のように愛称の練習をさせられた結果、折れたわたくしはギデオン様を〝ディオン〟と呼ぶことに慣れてきました。
自分の感情に折り合いをつけてしまえば、恥ずかしいことなどなにもありません。単に呼び名が替わっただけ。そういうものだと受け入れてしまえば早いものです。
わたくしがおとなしく呼ぶようになると、ギ……ディオン、そう、ディオンは、なんていうか、本当に距離感がおかしくなりました。こんなに近くに男性がいることなど経験したことがないわたくしは、さすがに距離をあけてくれるよう申し入れたのですが──
「夫婦だからね、私たちは」
という謎理論で断られました。
夫婦って、違いますわよ! わたくしたちはあくまでアディの両親であって、夫婦ではありません!
そう思うのですけれど、だんだん──その、信じてもいいのではないかしらって。そんな風に思うようになってしまったのです。
期待……そう、期待なんですわ。いつの間にかわたくしは、期待してしまっていたのです。今まで、期待というものは裏切られるものだったのに。どうして、またそんな気持ちを抱いてしまったのかしら。
困ってしまったわたくしに、ディオンは微笑みながらそのたびに言うのです。
「私は、君と家族になりたいんだ。君と、アデルと一緒に。君はエインズワース公爵夫人で、アデルの義母だけれど、そこに私の妻という関係も混ぜてもらえないかな」
エインズワース家に嫁いだからには、わたくしの立場はディオンの妻なのですけれど、そういうことではないとディオンは言います。
心の、問題だと。
本当の家族になりたいのだと。
人を信じるのは怖い。家族という存在を手にすることは難しい。
でも、わたくしはアディを信じられた。家族になれた。
だから、相談してみましたの。
「ねえ、アディ。わたくしの相談にこっそり乗ってくださる?」
アディと二人きりで勉強しているときに、そっとお願いしてみました。相談の二文字に、アディのやわらかな雪空の瞳が輝きます。
「わたしに!? いいよ! なぁにリディ母様!」
「その、ディオンの──お父様のことなんですけれど」
「お父様?」
「アディは、わたくしが本当のお母様に、お父様の妻になっても……その、よろしい?」
曖昧な訊き方をする自分の醜さに目をそむけたくなります。
本当は、わたしが許されたいの。
アディの、ディオンの、家族になりたいの。
でも、言葉にするのは本当に怖い。淑女の仮面で隠した奥の、臆病なわたくしに、アディはがっかりしないかしら。
「リディ母様は、わたしのお母様よね? わたしのお母様は、お父様の奥様でしょう?」
「そう……よね」
はっきりしないわたくしに、けれどもアディは不快に思うことなく、笑って言いました。
「わたしね、リディ母様がお母様で嬉しいの。わたしにはね、産んでくれたお母様と、育ててくれたママと、とっても大事にしてくれるリディ母様がいるのよ! リディ母様は大事な家族なの。わたしのお母様で、お父様の奥様! 他の人ではだめなのよ?」
アディ。わたくしの胸にある、真実信じられる愛情を灯してくれた大切な娘。
他でもないアディが、背中を押してくれるのです。
それならば、手を伸ばしてみてもいいのではないかしら。怖くても、足掻いて、つかんでもいいんじゃないかしら。
「じゃあ、わたくし、頑張ってみます」
「お父様の奥様になるのを? がんばらなくても、リディ母様しかお父様の奥様にはなれないわ! リディ母様は、わたしとお父様の大好きな人なのよ!」
アディの小さな手が、膝の上に重ねられたわたくしの手の上にそっと乗せられました。あたたかな、小さな手。確かに伝わる愛情に、嬉しくなります。
「わたくしも、アディとディオンが……大好きです」
勇気を、出さなくては。
◇
「ディオン」
その日の夕方、わたくしは勇気を出してディオンの元を訪ねました。アディの灯してくれた勇気が、消えない前に踏み出したくて。
「ディア、どうしたんだい?」
一人で部屋を訪ねたわたくしに、ディオンは不審がる様子もなく優しく声をかけてくださいました。
アディと同じ雪空の瞳は穏やかで、言葉で、態度で、視線でわたくしのことを受け入れてくれるのだと言ってくれている。だから、あとはわたくしがきちんと申し入れるだけ。身体の前で組み合わせた指に、つい力が入ります。
リディ、リディ、どうか力を貸して。わたくしに、あなた以外の家族ができるのよ。
あの春の日、わたくしは諦めた心持ちでこの家に嫁いだけれど、思いがけなくアディという娘ができて、今、もしかしたら本当の旦那様ができるのかも。リディだけだったわたくしの世界に、アディが加わって……そして、ディオンがいてくれたなら。
張り裂けそうなくらい高鳴る心臓を落ち着かせるため、深呼吸をひとついたします。
「わたくし、ディオンにお願いがあってまいりました」
アディの小さな手の温かさを思います。外交より簡単なはずなのに、なんでこんなにも緊張するのでしょうか。難しいことではないのです。きっと、断られることも……ない、はず。
深呼吸をひとつして、わたくしはディオンの目を見ました。結婚式の際に見た、疲れ切って感情のない瞳ではなく、それは冬の空の色をしているのにとてもあたたかなまなざしです。窓の外の夕陽が射し込んでいるからかしら。それとも、ディオンの気持ちがあたたかいせいかしら。
「あの、わたくし」
「うん」
「ええと、わたくし、エインズワース家に嫁いできて、アディのお母様になったのです」
「そうだね、ディアが来てくれて本当によかった。アデルを見つけてくれてありがとう。最初の頃は私も余裕がなさ過ぎて、君やアデルを放置しすぎてしまっていて申し訳なかった」
「もう謝らないでくださいまし! 責めたいわけではありませんの。それで、それでですね、あの、わたくしと、ディオンは……一応、夫婦でしょう?」
この部屋に来る前にどう話そうか考えてまいりましたのに、まったく思い出せません。何度もディオンを謝らせたいわけではないのに。
「……私は一応じゃなく、君の隣を一生歩いていきたいと思っているよ」
身体の前で握り締めた指に、ディオンの大きな手が重なります。
「最初の頃、私は君を後回しにしてしまったけれど、決して君をお飾りにしたり、ないがしろにしたいわけでもなかったんだ。言葉が足りなくてごめん。……私のうぬぼれでなければ、今日来てくれたのもその話だね?」
ディオンの掌は、アディよりもっとずっと大きいですけれど、どちらもわたくしよりあたたかい。
握り締めた指をほどくように握られて、言葉を失います。なにか一言でも口にしたら、涙が出てしまいそう。
「一生懸命な君が、誰かに寄り添おうと努力する君が、けれども自分のことになると途端に不器用になる君が、とても愛おしいと思っている。君が自分の好きなものに気付いていく中で、その数のうちに私も入れてほしいと、そう願っていたんだ。こんな年になって恥ずかしいけどね」
「そんな!」
ディオンが自嘲気味に笑うのを止めたくて、つい声を上げてしまいました。ああ、泣きたいわけじゃないのに。困らせてしまうのに。
「そんな、ことっ……ないのです。わた、わたくし……もう、ディオン、が、ディオンを……」
きちんと伝えなければ伝わらない。そう思って言葉を紡ごうといたしますが、しゃくりあげてしまって声になりません。
こんな幼いわたくしが大人のディオンに認められるわけがないと、ついそう思ってしまいそうになるけれど、一度そっと手を引かれてその腕の中に収められてしまったら、もうその行動だけでディオンから呆れられていないのだと知らされます。大丈夫、この人は、そんなひどい人じゃない。わたくしを受け入れてくださる。アディのような優しい人だもの。
「私の妻は、君だよ、ディア。大事にするから、どうか信じてほしい」
髪に、額に、頬に、ディオンの唇が触れます。雨のように降る愛情に、自分が欲していたのがそれだったのだと実感しました。
「はい……。わたくしを、ディオンのお嫁様にしてください」
頷いて、目を閉じたわたくしの唇に、ディオンのやわらかな愛情が触れる。一度、二度。そしてもうなにがなんだかわからなくなって。
わたくしは、愛して、愛されたかった。家族が、居場所が欲しかった。
王宮でわたくしは、努力の方向を間違えたのですね。多分きっと、フィリップ殿下が欲しかったのも同じもの。
支えることが愛情だと思っていたけれど、きっとそれだけでは駄目だった。向き合ってほしいと願っていたけれど、感情を顔や口に出すことははしたないという教えを信じて疑わなかったわたくしでは、あの方には駄目だった。
ごめんなさい、殿下。助けられなくてごめんなさい。わたくしたち幼い頃から一緒だったのに、わかってあげられなかった。アディやディオンのようにあなたに渡してあげられなかった。もし理解できていれば、あんな悲劇は起きなかったのに。共に歩めなかったとしても、きっと手を貸すことはできたのに。
間違えてばかりのわたくしが幸せになっていいのかなんてわからない。ディオンの妻になりたいと願って、受け入れてもらえたけれど、子を持つことがまだ怖い。
それでも、心は、想いはとめられない。好きだという感情が、こんなに嵐のようなものだなんて知らなかったの。
ディオンのお嫁様になって、わたくしはきっと変わらざるを得ない。貴族として血を継ぐことが第一の義務なのだから、怖いからと目を背けたままではいられない。
でも、わたくしはひとりじゃないのです。わたくしが間違えそうになったならば、ディオンがいてくれる。アディがいてくれますもの。
二人は、お日様の光のようにあたたかくて、この家に来てなによりも大切になった、わたくしの〝一等好きなもの〟なのですから。
フィリップ王子に謝ることはないと思うのですが、真面目っ子のリディアには無理だったみたいです。
浮気は浮気なので、手順を間違えた罪はフィリップ王子にあると思うよ……。
家族の喪失から目を背けて仕事に打ち込んでしまったギデオンの間違い。
王族の責務と自分の能力の限度から逃げてしまったフィリップの間違い。
そして、耐えて支えることが愛なのだと思ってしまっていたリディアの間違い。
国政が動くことを最優先して、各所の負担を見なかったことにしていた大人たちの間違いもありますね。
皆どこかで止まれていれば今の形はなかった。
取り返しのつかない間違いはあるけれど、間違いから未来につなげていけるものもまたあると思うのです。
何人も命落としてるので難しいところですが。なにが正しかったとか、誰にもわからない。




