四 黒バラの正体
四 黒バラの正体
文化祭が幕を下ろした翌日、校舎は夢の終わりのように静まり返っていた。
片づけの終わった教室には、紙テープや色とりどりの装飾の残骸だけが風に揺れていた。だが、ひとつだけ片づけられなかったものがある。
講堂の舞台中央。最後の公演で誰かが置いた赤と黒の混じったバラ。
それは誰のものなのか。何を意味するのか。
誰もがその答えを知らなかった。ただひとりを除いて。
***
放課後。
蕾と誠司は、旧校舎の裏手にある使われていない温室へ向かっていた。
案内してくれているのは、新聞部の黒木だった。
「……ここ、本当は立ち入り禁止なんだけどな。演劇部の美月先輩、毎週ここに通ってたって話があってさ」
黒木の言葉に、蕾が続けて言った。
「植物の手入れをしてた、って言ってたわね。黒いバラも、たしかここで育ててたって」
「でもな、誰かが『あれは先輩のじゃない』って言ってたんだよ」
「……え?」
「先輩が入部する前から、あの黒いバラは温室にあったらしい。卒業した人から聞いた話だけど、代々触れないでおく花として、ずっと咲き続けてるって」
蕾は、無言で温室の扉に手をかけた。金属の取っ手は冷たく、かすかに湿っていた。
ギィ……と重い音を立てて、扉が開く。
中は静寂だった。
埃を含んだ陽の光がガラス越しに差し込み、放置された植木鉢や枯れた葉が空気を染めている。けれど、部屋の一角だけが異様なほど手入れされていた。
そこには――黒いバラの鉢植えが置かれていた。
「……まるで、眠っていたみたいね」
蕾はゆっくりと近づき、バラの花弁に触れた。表面には細かく銀色の粉がついていて、微かに甘い香りが漂っている。
「誠司、ここ見て」
鉢の裏側に、小さな金属製のネームプレートが打ち付けられていた。
Eternelle - 天川奏
《永遠にーカナデ》
誠司が目を見開く。
「……天川奏の名前……?」
「ええ。やっぱり、この黒バラは彼女が残したものだった」
蕾の声は静かだが、どこか震えていた。
「美月さんは、ずっとこの花を自分のものとして育ててきた。でも、本当は違った。もともとこの温室にいたのは、彼女じゃなくて――奏さんだった」
***
その晩、誠司は蕾の家で遅くまで調べ物をしていた。
蕾の机の上には、旧演劇部の記録、文化祭パンフレット、そして天川奏の名前が載った学園報。
「……3年前、文化祭の直後に自主退学。その前は、全国の演劇コンクールで最優秀演技賞まで取ってたって……すげえな」
と、誠司が感慨深そうに告げると、対する蕾が冷静な口調で答えた。
「でも、彼女が最後に残したのは演技じゃなくて、沈黙だった。学校を去った理由は記録にない。家庭の事情とも、病気とも言われていたけれど、全部憶測」
「そして、その沈黙の代わりに咲き続けたのが、黒いバラ」
蕾はペンを走らせながら呟いた。
「Eternelle って、フランス語で永遠の意味。永遠に続く花。でも、それは――終わらなかった感情とも言える」
「……誓いが、消えずに残ったってことか」
「ええ。きっと、奏さんは美月さんへの想いを、花に託して残した。でも、美月さんはそれを、別の意味で受け取った。裏切られた証として、あの花を使った」
「誤解が生んだ象徴……か」
「そう。そしてその誤解が、次の世代にまで連鎖して、また誰かの想いを飲み込もうとしてたの」
***
次の日、蕾は美月を温室に呼び出した。
昼下がりの光のなか、ふたりは黒バラの前に立っていた。
「……あなたが、奏さんの花を育てていたのは知ってる。でも、本当は、咲かせられなかったんじゃないかしら?」
美月は無言だった。
蕾は、静かに続けた。
「奏さんは、あなたを責めていなかった。むしろ、何も言わずに去ることで、あなたの夢を守ろうとした。自分が消えることで、あなたが舞台に立てるように」
「……違うわ」
美月が低く、かすれた声で言った。
「私は、彼女に置いていかれた。突然、出られないって言われて……それっきり、彼女は理由を言わなかった。私は、ただ、裏切られたって思って……」
「でも、それは違った。自分の感情を言葉にできなかった彼女と、信じたかったあなたのすれ違いだった」
蕾は、バラの鉢を指差した。
「この黒いバラは、誓いの花だった。ふたりが一緒に永遠に舞台を作り続けるという夢。でも、それが果たされる前に、誤解で壊れてしまった」
美月の肩が震える。
「……だったら、どうして今さら、奏が戻ってこようとするのよ?」
「彼女は、戻ってこようとしたんじゃない。想いを残していたのよ。バラに、台詞に、そして――あなたの演劇に」
その瞬間、美月の頬をひとすじ、涙がつたった。
「……私、ずっと思ってた。どうして、最後まで私に言ってくれなかったのって。でも、それは私が聞こうとしなかっただけだったのかもしれない」
蕾は微笑んだ。
「花は言葉を持たない。けれど、咲くことそのものが、ひとつの返事だったのよ」
***
文化祭から一週間後、演劇部の倉庫から一本のビデオテープが見つかった。
ラベルにはETERNELLE 初期稽古映像と書かれていた。
そこには、天川奏と一ノ瀬美月が並んで舞台稽古をする姿が映っていた。台詞を合わせ、笑い合い、ときに言い争いながら、それでも同じ夢を見ていたふたりの姿。
テープの最後、カメラに向かって奏が微笑んで言った。
「もしこの舞台が完成したら、きっと咲く。誰にも咲かせられなかった黒バラが、私たちの花になる」
***
放課後。
蕾と誠司は温室の前にいた。
蕾の手には、あのバラの押し花と、新しく書かれた台詞カード。
「咲かない花なんてない。誓いは、いつか誰かに受け継がれる。たとえ、一度は枯れてしまったとしても」
誠司は隣で小さく笑った。
「お前ってさ……たまに、人よりも花の声を信じてるよな」
「だって、花は本音しか話さないのよ。人間みたいに、嘘をつかないもの」
その温室の奥。静かに咲く黒いバラが、ゆらりと風に揺れた。
それは、誤解を越えたその先に、再び咲いた永遠の想いだった。




