三 嫉妬と誤解
三 嫉妬と誤解
文化祭二日目。校舎内の熱気は前日以上に高まっていたが、演劇部の控え室はまるで冷房が効きすぎたかのようにひんやりとしていた。
花束事件の余波が、部員たちの間にじわじわと不穏な空気を広げていた。
「昨日の花束の件、結局誰が仕掛けたのか、まだわからないの?」
ある部員がそう尋ねた瞬間、室内の空気がさらに張り詰めた。
「……問い詰めたって、犯人が名乗り出るわけないでしょ」
それまで沈黙していた一ノ瀬美月が、鏡越しに呟いた。彼女の目元には疲労の色がにじんでいたが、それ以上に何かを堪えるような緊張があった。
「でも、昨日のあれは演出を超えてた。誰かが物語を使って、個人的な思惑をぶつけてきてる気がする」
「もしかして……誰か、先輩を狙ってるとか……?」
その言葉に、場の空気が凍りついた。
誠司は廊下の外からそのやりとりを聞きながら、隣でノートを手に構える蕾に小声で訊いた。
「……これ、だんだんきな臭くなってきたな。昨日のバラの花束、あれだけじゃ終わらない気がする」
「ええ。バラは咲いた。けれど、とげはまだ隠されたままよ」
***
その日の午後、演劇部の控え室で再び異変が起きた。
美月の衣装に、小さな切り裂きが入っていたのだ。
舞台衣装は厚手の布でできており、簡単には破れない。その裂け目は、まるで刃物で切られたような鋭さだった。
「これ……偶然じゃない。誰かがわざと……!」
美月の声が震える。手には裂けたドレスの裾が握られていた。
すぐさま教師に報告が入り、部内でも防犯カメラの確認や所持品検査が行われることとなった。
だが――証拠は何ひとつ出なかった。
***
その夜、蕾と誠司は図書室の奥の資料室にいた。手元の机には、演劇部の歴代配役一覧と文化祭の記録が並べられている。
「これ、やっぱり何かあるな。3年前に同じ演目があって、そのとき主役だった天川奏って人が、急に退学してる。しかも、記録には自主退学ってあるけど……その直後、演劇部の顧問も異動になってるぞ」
誠司が指差した書類には、あまりに都合の良い整理が並んでいた。
「表向きは丸く収められてる。でも、実際は違う。何かあったのよ」
蕾の目は書類を見ながら静かに細められていた。
「そして、そのなにかが、今また繰り返されようとしている。黒いバラを通して」
と、蕾が告げると、訳がわからないという表情を浮かべた誠司が、
「でもさ、なんで今なんだ? 3年も経ってるんだぞ?」
「それだけ、忘れられない傷だったのよ。……そして、誤解されたままの想いも、そこにある」
そのとき、図書室の入り口から誰かの足音が近づいてきた。
「……白石くん、花咲さん。ちょっと話があるの」
姿を現したのは、朝倉すみれだった。
***
屋上。
夕暮れの光が街を照らすなか、蕾と誠司、そしてすみれの三人はベンチに座っていた。
「……わたし、昨日の花束。誰が置いたか知ってるかもしれない」
その言葉を聞き、蕾は驚きに満ちた顔をし、
「えっ?」
「というより、思い当たる人がいる。……それは、たぶん恨みじゃない。未練なの」
すみれは、制服の袖をぎゅっと握った。
「昔、美月先輩が書いた初稿の薔薇の檻、読んだことがあるの。図書室の奥にこっそり残ってたから」
「そこに、何かあったの?」
蕾が問うと、すみれは少し戸惑いながら続けた。
「……王女が黒いバラを持って誓うの。裏切られたんじゃない。忘れられたって。かつて愛された人の記憶から、自分が消えていくのが一番の裏切りだって」
その言葉に、蕾の目が動く。
「それって……裏切りじゃなく、嫉妬の物語」
すみれは静かに頷いた。
「そう。演劇は、現実の感情の鏡だったの。天川奏って人……実は、美月先輩の親友だったらしい。ふたりで一緒に台本書いて、舞台に立って、毎日遅くまで練習して……」
「でも、何かが起きた」
「うん。突然、奏さんが出られなくなった。そのあと、先輩はその台本を一人で改稿して、自分で演出し始めた」
誠司が呟く。
「それで、奏って人が先輩に裏切られたと感じた?」
「……たぶん、逆も同じ。先輩も、奏さんに置いていかれたって思ってる」
蕾はその言葉を聞きながら、静かに黒いバラの花言葉を口にした。
「あなたは私を裏切った。でも、裏返せば――あなたに期待していた。それが、嫉妬と誤解を生む」
***
翌日。
最終公演の当日。
蕾は、開演直前の講堂の裏手で、美月を呼び止めた。
「一ノ瀬さん。天川奏さんに、会いましたか?」
美月の目が、大きく見開かれる。
「……どうして、その名前を?」
「バラの誓いは、まだ果たされていない。あなたが、演劇という形で続けてきた想いは、誰かに伝わっていないままです」
「それは……違う。私は、あの人の才能を、全部……」
言葉が詰まる。美月の瞳が、かすかに潤む。
「私は、ただ、忘れたくなかった。一緒に作った舞台を、永遠に残したかったの」
「でも、それは誰かのいない舞台になってしまった。……だから、花が再び咲いた。過去の誓いを、今度こそ本物にするために」
美月は、小さく笑った。
「……私ね、毎年、あのバラを温室で育ててた。誰にも咲かせられないって言った奏に、じゃあ私が咲かせてみせるって」
「それが、あなたの誓いだったのね」
***
最終公演が終わったあと、舞台の中央にひとつのバラの花瓶が置かれていた。
そこに挿されたのは、赤と黒が混じり合った一輪のバラ。
誰が挿したのかは、誰も知らなかった。
けれど、それは嫉妬と誤解の物語が、再生へと変わった証でもあった。
舞台の幕は閉じた。だが、花の言葉はまだ終わっていない。
蕾は、控え室の窓から空を見上げて呟いた。
「次は……どんな花が、語りかけてくるのかしら」
その横顔を、誠司がじっと見つめていた。




