五 再生の花言葉
五 再生の花言葉
翌朝、八重垣邸の庭には早すぎる初夏の陽射しが差し込んでいた。風がスズランの葉を優しく揺らすなか、ひとつの事件が静かに終わりを告げようとしていた。
白石誠司は、警察官に囲まれてパトカーへ連行される男の背を見つめていた。
「……結局、あいつは何者だったんだ?」と、誠司。
「久世良誠吾の部下。保佐人という立場で、八重垣家の財産を管理していたらしいわ」
隣で答えたのは、制服のリボンを整えながらもその表情に張り詰めた空気を残している、花咲蕾だった。
「名義上は八重垣貴子さんの生活支援という形だったけれど、実際には監視と口封じ……。そして、死後整理の手配まで済ませていた」
「それって……最初から死ぬのが前提だったってことかよ」
誠司が苦々しく呟くと、蕾はスズランの造花を一輪、そっと手に取った。
「八重垣さんはきっと、自分の命が利用されていることに気づいていた。でも、声にする代わりに花を使った。沈黙の中で、誰かがその嘘に気づくのを待っていた」
「そして、お前が見抜いた」
蕾はほんの少しだけ微笑んだ。
「私はただ、花の言葉に耳を傾けただけ。……だけど、それが届いてよかった」
庭の隅には、警察に保護された女性が座っていた。茶色のロングカーディガンに身を包み、痩せ細った体を小さく丸めている。八重垣由子――十年前に姿を消した、貴子の娘だった。
「……ただいまって言ってたな、あの人」
と、誠司は感慨深そうに告げる。
「ええ。戻ってきたのよ。スズランが再び咲いたように。……母のもとへ」
蕾は木箱の中に残っていた最後の押し花をそっと包んだ。それは、唯一色あせていなかったスズランだった。
「再び幸せが訪れるって、花言葉は死を前提にした希望じゃない。生きるために戻る場所があるっていう意味なのよ」
誠司は蕾の言葉を噛み締めるように、ゆっくりと頷いた。
***
数日後。
ふたりは校舎裏の温室にいた。
事件のあとは、まるで何事もなかったかのように日常が戻ってきた。しかし、そのなかでふたりだけが、確かに何かを知ってしまったことを感じていた。
蕾は自分の花壇に、新しく植えたスズランの苗を手入れしていた。
「この花、屋敷の庭にあった造花じゃない。本物の、苗よ。……由子さんが置いていったの。『母の願いを咲かせてほしい』って」
誠司はスコップを受け取りながら、照れくさそうに笑った。
「お前と一緒に花いじるの、最初は変な感じだったけどな。……今は、ちょっとだけわかる気がする」
「何が?」
「花って、何も言わないけど、何かを残してる。俺たちが聞こうとすれば、ちゃんと返してくれるんだなって」
蕾は嬉しそうに笑った。
「そう、ちゃんと伝えてくれる。言葉にできないものも、全部」
そのとき、温室のドアが音を立てて開いた。
「花咲さん、白石くん、ちょっといい?」
入ってきたのは、新聞部の黒木だった。手には一枚のプリント。
「これ、ちょっと変な話でさ。文化祭の準備で演劇部が使う道具の確認してたら、誰かのカバンに黒いバラの造花が紛れてたらしいんだ」
「黒い……バラ?」
蕾の眉がピクリと動いた。
「そのカバンの持ち主がね、演劇部の主役を務める予定だった子でさ。でも急に『やっぱり降ります』って。……理由は言わずにね」
誠司と蕾は顔を見合わせる。
「黒木くん、そのバラの造花、まだある?」
と、蕾が訊き返すと、黒木は冷静に答えた。
「ああ。うちの部室に預けてあるよ。気になる?」
蕾は静かに立ち上がった。目には、すでに次の声なき言葉を聞こうとする色が宿っている。
「黒いバラの花言葉、知ってる?」
蕾の言葉を聞き、考えをめぐらす誠司であったが、結局わからずに訊き返した。
「いや、なんだ?」
「あなたは私を裏切った……」
その場に、一瞬冷たい空気が流れた。
「誠司、また少し手伝ってくれる?」
「……ああ。どうせまた巻き込まれるんだろ?」
「うん。でも、今回は演劇の舞台裏の話よ」
ふたりの笑い声が温室に響いた。風に揺れるスズランの苗が、かすかに頷いたように見えた。
***
数日後。
八重垣邸の庭に、ひっそりとした小さな式が執り行われた。
参列者は少なく、娘の由子と関係者、そして警察の関係者のみ。簡素な献花台に、蕾はそっとスズランの鉢を置いた。
「……スズランのもうひとつの花言葉を、知ってる?」
傍らの誠司に、彼女は囁くように語った。
「静かな幸せ。言葉にはならなくても、誰かと分け合える、小さな時間のこと」
誠司は、祭壇に手を合わせながら静かに頷いた。
スズランはそっと花開き、まるでこの物語の結末を祝福するように揺れていた。
けれど同時に、それは新たな幕開けの兆しでもあった。
花は、また語りはじめる。
今度は――
黒いバラの裏切りが、その舞台に上がる。




