三 亡き人からの手紙
三 亡き人からの手紙
夜風が、屋敷の窓ガラスを揺らすように叩いていた。
花咲蕾と白石誠司は、八重垣邸の一室、使用されていなかった応接間に身をひそめていた。先ほどの男はすでに姿を消していたが、ふたりの心には警戒の火がまだ灯っていた。
「……さっきの声、覚えあるか?」
誠司が小声で訊いた。蕾は首を横に振る。
「わからない。でも、あの人……スズランのリボンを持ち帰った。足がつくって言ってた」
「ってことは、やっぱり誰かが意図的に花を置いたってことだよな。つまり、あの自殺は――」
「演出よ。花を嘘の象徴に仕立てた誰かがいる。……そして、八重垣さんはそれに気づいていた。だから、残したの。手紙も、花も」
蕾は立ち上がり、部屋を見渡す。家具はどれも古く、時代が止まったままのようだった。
「……あの写真に写っていたスズランの庭、気になる」
「庭? 確か……裏側だったよな」
ふたりは靴音を殺し、そっと廊下を抜けて勝手口を開けた。すると、そこには静かな月明かりに照らされた小さな庭があった。
「ここか……」
木々の影が揺れるなか、一角にだけ、白く浮かぶように咲いている草花があった。
「……あれ、スズラン?」
蕾はそっと近づき、手を伸ばして花に触れた。ひんやりとした感触。だが不思議なことに、よく見ると本物のスズランではなかった。
「これ……造花よ。よくできてるけど、茎の接着に人工樹脂が使われてる。香りも、ない」
と、蕾が言うと、誠司が静かに答えた。
「じゃあ、写真のあのスズランも?」
「きっと庭が偽物だったんだわ。……何かを隠してたのかもしれない」
そのとき、蕾はふと地面に目を留めた。
「ここの土だけ、色が違う」
「掘ってみるか?」
誠司がスコップ代わりに傘の柄を使って掘り始める。数分後、何か固いものにあたった音がした。
「……木箱?」
古びた木箱が、ひと抱えほどの深さから現れた。誠司が慎重に持ち上げると、表面には薄くカビのようなものが浮いている。
「開けるぞ……」
パキン、と蓋が外れる。中には布にくるまれた小さな包みがひとつと、手紙が数通入っていた。
「……手紙?」
蕾は、震える手で包みを開いた。
便箋には、癖のある達筆でこう綴られていた。
『由子へ』
あなたがこの手紙を読む時、私はもうこの世にいないのでしょう。あなたは私を許さないかもしれません。でも、どうしても伝えたいことがあります。
あの日、あなたが家を出た夜のことを、私は一生後悔しています。あなたの声を遮り、何も聞こうとしなかった私は、母親として失格でした。
あなたは何かを言おうとしていた。私に伝えたいことがあったはず。それを私は拒絶してしまった。
だから、私はこの庭にあなたの帰り道を残しました。スズランのように、再び幸せが訪れることを信じて。
もし、これを読んでいるのがあなたでないのなら――どうか、誰かがこの言葉を届けてくれますように。
花咲くとき、母はまだ、あなたを想っていました。
――八重垣貴子
読み終えたとき、蕾の指先がわずかに震えていた。
「……由子、って」
「娘さんの名前じゃないか?」と、誠司。
「ええ。……きっと、あの人は最後の最後まで、娘さんに帰ってきてほしかったんだと思う。けれどそれを言葉にできなかった」
「だから花を使った?」
「そう。花言葉に込めたの。自分の声を。……本当の意味で、自分の人生を閉じるために」
蕾は、そっと木箱を閉じた。
「でも、邪魔をした誰かがいる。あの電話の男。彼は花を偽装した」
「何のために?」
「わからない……けれど、おそらく八重垣さんの死を利用しようとした人間」
そのとき、誠司が箱の底に張り付いていた封筒に気づいた。
「……これも手紙か?」
中には、未開封の封筒が一通だけあった。宛名もなく、表にはこう書かれていた。
「届かなかった最後の手紙」
開くと、そこには震える文字でたったひと言。
『あなたの帰りを、まだ待っています。母より』
その瞬間、蕾の目にうっすらと涙が浮かんだ。
「……花は、すべてを語らない。でも、こうして残された言葉は、沈黙を超えるの」
誠司は、言葉を失ったように空を見上げた。
月明かりのなか、庭の造花は本物のように揺れていた。
「この手紙、どうする?」
と、誠司が尋ねると、蕾は静かに答えた。
「……届ける。由子さんが生きているなら、必ず。これが最後の願いだから」
ふたりの背後で、古い家の扉が軋んだような音を立てた。
まだ誰かが、この家に来ていたのかもしれない。
けれどそれは、次なる謎の始まりに過ぎなかった。




