二 花が語る嘘
二 花が語る嘘
午後四時ーー
陽が傾き始めた校舎の窓から、橙色の光が差し込む。花咲蕾は図書館の隅の席で、古びた園芸図鑑をめくっていた。
「スズラン……学名Convallaria majalis。多年草、ユリ科。全草有毒。花言葉は再び幸せが訪れる……でも、他にも、純粋謙遜死の訪れ……」
小声で読み上げながら、蕾はふとページを止めた。
「……あなたの帰還を待ちます。」
その一節に、彼女のまなざしがわずかに揺れる。
その時、机の向こう側からひょいと顔をのぞかせる影があった。
「やっぱり、ここにいたか」
白石誠司だった。手には缶コーヒーを二本持っている。
「さすがに今日も温室はこりごりだろ。花って意外と重労働なんだな」
蕾は微笑み、彼の差し出す缶を受け取った。
「ありがとう。……でも、事件のこと、考えてたの」
「事件って……ああ、八重垣邸の。スズランの件、まだ引っかかってるのか?」
「ええ。今日、授業の合間に花屋を何件か調べたの。今の時期、スズランを扱ってる店は限られているの。あの花は、切り花として流通することも少ないから」
「ってことは、誰かが特別に用意した?」
「可能性は高いわ。しかも、あの花束には白いリボンが巻かれていた。まるで贈り物みたいに」
誠司は顎に手を当て、考え込んだ。
「遺書もなかったしな……普通、自殺だったらもっと気配がある気がするけど。スズランの意味が再び幸せが訪れるだとしたら、自殺と矛盾してるってのも……」
「だから私は嘘だと思うの。花が語っているのは、死じゃない。何かを訴えるための演出」
蕾の目は、まっすぐだった。誠司はそれに気圧されるように一歩引く。
「……お前、本当に高校生か?」
「あなたも、もう巻き込まれてるわよ」
冗談めかした蕾の言葉に、誠司は肩をすくめた。
***
放課後ーー
ふたりは八重垣邸の前に立っていた。
邸はすでに警察の規制線が取り払われ、誰もいなかった。門が閉じられているだけで、鍵もかかっていない。記者会見で「事件性なし」と発表されたため、現場検証も終わったらしい。
「……入るのか?」
と、誠司は不安そうに告げる。
「花の匂いが、まだ残ってる」
そう言って蕾は、門を押し開けた。
邸内は静寂に包まれていた。レースのカーテンが風に揺れ、古時計の音だけが響いている。
「こっち……多分、リビング」
部屋に入ると、床に花瓶が転がっていた。水がこぼれた跡が、淡く乾ききらずに残っている。
「ここで倒れていたのね……」
蕾はそっと床に膝をつき、花瓶の破片を拾い上げた。断片のひとつに、指の腹で触れると、乾いた粉のようなものがこびりついていた。
「……花粉?」
粉のようなものを見ながら誠司は呟く。
「スズランの花粉は目立たないはず。もっと細かくて、軽い」
「じゃあこれは……別の花の?」
蕾は立ち上がり、部屋の棚を見渡した。
ふと、暖炉の上に置かれた写真立てに目を止める。
一枚の写真――若い女性と老婦人が微笑んで写っていた。背景は庭。満開のスズランが、二人の足元に咲いていた。
「この人……娘さんかしら?」
と、蕾が言うと、少し考えこんだ誠司が答えた。
「八重垣さんには娘がいたって話、黒木が言ってた。十年前に行方不明になったとか」
「……この花言葉、あなたの帰還を待ちます」
誠司が驚いた顔で蕾を見る。
「何が言いたい?」
「老婦人は、きっと待っていた。娘さんの帰りを。けれど……」
その時、誠司が何かを見つけて声を上げた。
「おい、これ……封筒?」
誠司が拾い上げたのは、棚の裏に落ちていた小さな白い封筒。中には、折りたたまれた一枚の便箋が入っていた。
『愛しいあなたへ』
書き出しは、震えるような字だった。以下は、娘宛ての手紙だった。
──私は、あなたの無事を祈っています。あの日、あなたが出て行ってから、庭のスズランだけが、私に話しかけてくれました。どうか、再び会えますように。私は、あなたを待ち続けます。
手紙の最後には、こう書かれていた。
『今年も咲いたわ。スズランは、あの日と同じ場所で──。』
蕾は、手紙を胸に抱いた。
「……自殺なんかじゃ、ない。これは知らせなのよ」
「知らせ?」と、誠司。
「娘さんへの。自分がいなくなった後でも、思い出せるように花を残したの。スズランは毒を持ってるけど、贈り物にもなる花。愛と危険が隣り合わせなの」
「つまり……誰かに何かを伝えたかった。でもそれは、警察には伝わらなかったってことか」
「そう。花が語る嘘は、表面的な意味じゃない。花言葉は一つじゃない。その中に真実があるのよ」
蕾の指先は、静かに床の一点をなぞっていた。そこには、小さく欠けた白いスズランの花弁が残っていた。
その瞬間、玄関のドアが音を立てた。
「誰か……来た?」
誠司が焦りながら言うと、蕾も続けて、
「隠れて!」
ふたりは急いで隣室に身をひそめた。
ギィ……と軋む足音がリビングに入る。低く、硬い革靴の音。やがて誰かがスズランの破片を拾い、何かをポケットに入れたような音が聞こえた。
「……このままじゃ、足がつく」
男の声だった。冷たく、感情のないトーン。誰かに電話をかけているようだった。
「……ああ、確認は済んだ。リボンもちゃんと持ち帰った」
次の瞬間、ふたりは顔を見合わせた。
誠司が囁く。
「まさか……スズランを置いたのは、あの男……?」
蕾は、リボンという言葉に、心の奥がぞくりと冷えるのを感じていた。
「再び幸せが訪れる……本当にそれだけ?」
と、蕾は独りごちながら囁いた。
沈黙の花は、まだ語りきっていない。
スズランの嘘は、始まりにすぎなかった。




