一 出会いと誘い
一 出会いと誘い
春の午後。校舎の裏手にある古びた温室には、ほのかな甘い香りと湿った土の匂いが混ざっていた。
「……もう少し右。そこ、茎が折れやすいから気をつけて」
小柄な少女――花咲蕾は、誠司の手元をじっと見つめていた。彼女の指先はまるで花そのもののようにしなやかで、今にも蕾が開くような静かな気配をまとっている。
「まさか、昼休みに園芸部の手伝いをさせられるとは思わなかったよ」
白石誠司は額の汗をぬぐいながら、鉢植えの苗を慎重に持ち上げる。スコップを置き、蕾の指示通りに植え替えを終えたところで、ようやくため息をついた。
「助かった。私ひとりじゃ、このペチュニアの移動は間に合わなかったから」
蕾はかすかに笑った。だがその目は、微かな陰を孕んでいた。
誠司は、彼女のこんな静かな一面を知っている。学年は同じだが、蕾はいつもひとりでいることが多く、友達も少ない。その代わり、花の話となると止まらない。
「なんでそんなに花のこと、詳しいんだ?」
ふとした疑問が口をついて出た。蕾は手のひらで土をならしながら答えた。
「母が、昔、花屋をしていたの。だから小さい頃から、花に囲まれて育ったのよ」
「へえ、それであんなに花言葉とかも詳しいんだな」
「花は、何も言わない。でも、ちゃんと語ってるのよ」
「……それって、矛盾してない?」
「ふふ。そうかもしれない。でも、沈黙の中にある言葉に気づける人だけが、真実を拾えるの」
どこか詩的なその言葉に、誠司は言い返すことができなかった。彼女は、やっぱり少し変わっている。でも、嫌いじゃない――そんな風に思った、その時だった。
温室の外から、ざわめきが聞こえた。
「おい、聞いたか? あの八重垣邸で事件だってさ……」
「まじかよ、あそこって空き家じゃなかった?」
誠司と蕾は顔を見合わせた。八重垣邸――学校のすぐ近くにある、古い洋館。長く一人で暮らしていた老婦人がいたと聞いている。
蕾は立ち上がり、制服のスカートの土を払った。
「行ってみよう。何か、気になるの」
「気になるって、お前……ただの野次馬になっちゃうぞ?」と、誠司。
「違う。なんだか、花の気配がする」
誠司は苦笑しながらも、彼女の後を追った。
***
八重垣邸は、明治期の面影を残す瀟洒な建築だった。高い煉瓦塀と鉄製の門が周囲を囲い、道からは邸の様子はほとんど見えない。
だがその日は門が開き、警察車両が数台停まっていた。門の外には野次馬が集まり、ざわざわと噂話が飛び交っていた。
「自殺らしいよ。老婦人が、リビングで倒れてたって」
「そばにスズランの花束があったんだって……」
その言葉に、蕾の足が止まった。
「スズラン……?」
「どうした?」
誠司は不思議そうな顔をして聞き返す。
蕾は、微かに眉を寄せて呟いた。
「スズランの花言葉、知ってる?」
「え? 確か、再び幸せが訪れるとか、純粋って感じだっけ」
「そう。けれど、死の意味もあるの」
誠司はどきりとした。
「スズランはね、有毒植物なの。全体に毒がある。美しいけれど、人を殺せる花よ」
その口ぶりに、誠司は思わず背筋を正した。蕾は、門の先を見つめるように立ち尽くしていた。
その時、ひとりの男子生徒がふたりに近づいた。
「おい、蕾。白石。お前らも来てたのか」
「黒木くん……」
新聞部の黒木圭だった。情報通で、学校の内外の事件に首を突っ込むことで有名だ。
「今朝、通報があったのは午前八時前。遺体は老婦人・八重垣貴子さん。部屋に鍵はかかってなかったが、明らかな自殺だったらしい。ただ――」
黒木は少し声を落とした。
「遺書がなかったんだってさ。しかも、スズランの花束にはリボンが巻かれていた。綺麗に、結ばれてたって」
「……死を選ぶ人が、花を贈るように置くかしら?」
蕾の声が、風の中に溶けていく。
「それに、スズランは春の終わりに咲くの。まだ咲く時期には早すぎる」
「じゃあ、誰かが用意して、置いたってことか……?」
誠司がつぶやく。蕾は、まるで誰かの言葉を思い出すように、目を閉じた。
「花は、沈黙している。でも、真実は黙っていないわ。私は……知りたいの」
そう言った彼女の目には、確かな決意が宿っていた。
「蕾、まさか……首を突っ込む気か?」
誠司があきれたように言うと、蕾はにこりと笑った。
「もちろん。私は花の言葉を聞けるもの」
誠司は肩をすくめながら、ポケットに手を突っ込んだ。
「ったく……面倒な奴に関わっちゃったな」
そう口では言いながらも、彼の表情はどこか楽しげだった。
その日、春の空はどこまでも高く澄んでいた。けれども、蕾と誠司が向かっているのは、美しい花が語る死の謎。
沈黙のスズランが、何を語ろうとしているのか。
物語の扉は、今、静かに開いた。




