三 始まりの光
三 始まりの光
夜明が近い薄明の中、公園の桜たちは淡い茜色に染まりつつあった。
花びらはまだ空気に揺れ、香りはしっとりと夜露を帯びている。
ふたりは、小径を抜けて歩きながら、互いの影を背に背を寄せ合い、静かな呼吸を感じていた。
「誠司、ねえ」
蕾がそっと言葉をかけると、誠司は囁き返す。
「うん?」
「これから、何をしよう?」
答えはふたりの胸にあった。
桜の季節は終わるけれど、ふたりの旅は終わらなかった。
――心の奥底にある可能性が、光を透かすようにゆらりと揺れる。
その日の朝、公園はすでに人影でにぎわっていた。
提灯の灯りが薄明を照らし、露店の準備の音が遠くから聞こえてくる。
新たな始まりは、静かに、しかし確かに始まっていた。
蕾と誠司はベンチに腰かけ、手をつないで黙っていた。
「なんか、これからって感じがするな」
誠司がそう呟くと、蕾はじっと彼の指先を見つめながら頷いた。
「次の花は……まだ見えないけど」
「でも、確かに、俺たちの前にはある」
その言葉どおり、どこまでも続く桜並木の先に、朝の光が差し込んでいた。
祭りが始まり、人々が桜の下を散策するなか、ふたりはカフェ風の露店でコーヒーと桜餅を分け合った。
ひらひらと舞い散る花びらを横目に、誠司がふと笑った。
「覚えてるか? 最初にふたりで花の謎を追ってたとき、お前ほんとに花好きだなって言ったよな」
「うん、言った」
蕾は照れくさそうに笑い、その目にはかすかに涙が浮かぶ。
「でも、今ならわかる。花を追うって、ただ綺麗なものを見るためじゃないんだ。誰かを想って、記憶を受け止めて……その先で、自分たちが咲くためのものだった」
誠司は深く頷きそう言った。そして、彼は続けて、
「それに気づかせてくれて、ありがとう、蕾」
その言葉に、蕾も強くうなずいた。
露店から遠く離れた芝生広場で、ひとつのステージが用意されていた。
そこには「桜ノートの朗読会」と書かれた小さな看板が立っている。
「……やるのか?」
誠司が小声で尋ねる。
蕾は背筋を伸ばして頷いた。
「やる。旅の終わりに、ふたりで書き綴った物語を、ここで分かち合いたいの」
ステージ前には、寝転ぶ子どもたち、じっと聞き入る大人たち、シャッターを押す観光客の顔があった。注目は、夜明けの光。
胸の奥、緊張がせり上がってくる。
「じゃあ……俺、裏方やるよ」
誠司が言って袖を引っ張ると、蕾は笑顔で頷いた。
「ありがとう。それじゃあ、終わってから…二人で、桜の小径を散歩しよう」
誓いは交わされた。
朗読のアナウンス音が響き、蕾はステージに上がった。
手には桜ノート。ページをめくるたび、紙がかすかに震える。
照明が桜の木漏れ日を再現し、蕾の声が静かに広がっていく。
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「ひとつの約束を、ずっと抱えて、春は巡る――」
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ノートには、これまでの全章の記憶が記されていた。
ひまわりの季節、黒バラの誓い、アジサイの祈り、そして今、桜。
聞き入る人々の表情が、ゆらりと動く。
誠司も、涙を堪えながら、彼女のその姿を見守っていた。
「――白石、ともに咲こう」
蕾がその一節を読み終えると、静寂が訪れた。
桜の木の下、時間が止まったかのように。
「ありがとうございました」
蕾は深く一礼し、客席へと手を振る。
温かい拍手が、風に乗って二人に届いた。
終演後、露店に戻ったふたりは、そっと顔を見合わせた。
「すごかった…見てくれた人たちが、私たちの物語を受け止めてくれた」
誠司はふくっと笑って、彼女の肩を抱いた。
「これだから、旅はやめられないな」
「ええ……私も同じよ」
そう言う蕾の笑顔は、これまでにない柔らかさと輝きを帯びていた。
午後になると、公園の雰囲気は一層和やかになっていた。
桜のトンネルをくぐりながら、ふたりは一本道を歩く。
誠司の手には、小さな木箱がある。
「これ、なに?」
と、蕾が聞くと、誠司は微笑んで箱を開けながら答えた。中には、小さな種が入っている。
「桜の種。旅の終わりに、俺らの始まりとして育てようと思って」
蕾は目を潤ませながら、種をひとつ取り出した。
「……ありがとう、誠司」
蕾はそう言うと、種を胸に抱くようにして、そっと土の上に置いた。
夕暮れが近づき、提灯が灯り始め、桜の花びらが金色に輝いた。
「見て、誠司」
蕾が指さす先、一本の桜の古木の下に、小さな苗木が植えられていた。
「約束の桜だっていうプレートが付いてるな」
誠司は小さく笑いながら告げる。ふたりは苗木に手を当てた。
「ここに私たちの物語の根を植えよう」
蕾は呟き、さらに続けた。
「どんな風が吹いても、雨が降っても、元気に咲いてくれるように」
誠司は力強く頷いた。
「俺が、ちゃんと育てるよ」
夜。ライトアップされた桜の木の下、ふたりは最後に約束を交わした。
「これからも…お前と一緒に、咲き続ける道を歩いていきたい」
誠司が真剣な瞳で告げる。
「私も――あなたとなら、どこまでも、咲いていける」
蕾はゆっくりと頷いた。
花びらが柔らかくふたりを彩るなか、誓いは春の夜に溶けていった。




