一 薄紅の始まり
一 薄紅の始まり
春の風が穏やかに頬を撫ぜる頃――
町は桜の花びらに包まれていた。
白石誠司と花咲蕾は、東京郊外の小さな公園に立っていた。青空には淡い雲がかかり、満開の桜が枝いっぱいに花を咲かせ、その下にはピンクのじゅうたんが広がっていた。
「すごいね……桜のトンネルみたい」
蕾が息を飲むようにつぶやいた。
「うん。去年の今頃、ここに来られるなんて、想像できなかったな」
誠司もつぶやく。去年の今ごろ――彼らはまだ、ひまわりや紫陽花、バラの謎に翻弄されていた。だが今年、すべてを乗り越え、この桜の下に立っている。
桜の樹影がふたりに淡く落ちて、花びらが舞い、地面には風がつくった模様が刻まれていた。
「今日は……特別な日だよね」
蕾がそっと誠司の腕を押す。誠司は微笑んで、彼女の手を取った。
「あぁ。約束を果たす日だ」
と、誠司。
その言葉に、蕾の瞳が潤んだ。
***
ふたりが歩いて奥へ進むと、ベンチの上に一冊のノートと、一輪の桜の花が置かれていた。ノートの表紙には桜ノートと金文字であった。
「……これ、なんだろう?」
蕾が桜をそっと指で摘むと、花びらはそのままノートの上に舞い戻った。ノートには誠司宛のメッセージがあった。
---
「白石へ
桜は一日で散るからこそ美しいと誰かが言ってた。
もし明日、君がここに来られなくても、今日という今を一緒に抱きしめたい。
私の約束を、どうか覚えていてほしい。
君が私を選んでくれたあの日のように
誠司の隣で、私は生きていたい。
蕾より、桜の下で」
---
誠司は息を詰め、ページを押さえる。桜がひらりと床へ落ち、音もなく終わってゆく。
「……これは、お前が?」
蕾は静かに頷いた。
「去年、君が約束してほしいって言ったから。桜の季節が来たら、この場所で二人の誓いをしようと思ってた」
誠司の目に光があふれた。
「約束……」
街路樹の間を吹き抜ける風が、桜の花びらをひらひらと舞わせる。
「俺は……お前がそばにいてくれたら、それだけでいい」
誠司はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「どんな花が咲いても、どんな謎が降りかかっても……君が一緒なら、俺は前を向けると思う」
蕾はその言葉に涙ぐみ、頷いた。
***
その夜、ふたりは静かに夜桜を見に出かけていた。街灯に照らされた桜が夜闇の中で淡い光を放ち、木々の間に人影もまばらに見えた。
「……桜って、思い出すんだよね」
蕾が吐息混じりに言う。
「うん。潔く散るからこそ、後悔せず、記憶に残るんだろ?」と、誠司。
「お互いを花だと思ってた頃があった。ひまわり、バラ、紫陽花……でも、桜は命そのものの形な気がする」
誠司は言葉を選びながら続けた。
「これまで俺たちが見てきた花は誰かの記憶への導線だった。でも、桜はその先にある一日を精一杯生きる心を教えてくれる」
蕾は頷き、誠司に手を絡めた。
「そうね。だからこそ、最後の章にふさわしいのかもしれない」
夜風がふたりの髪を揺らし、花びらがひらりと誠司の手に落ちた。
誠司はそれをそっと受け取り、小さな箱にしまった。
***
翌朝、公園の桜並木には、祭りの準備が進んでいた。露店が立ち並び、提灯が吊るされ、ベンチの上にはノートと花の箱を納めた約束の箱が置かれていた。
「いよいよだね」
蕾が深呼吸すると、誠司は背後から抱きしめた。
「うん。俺の選んだ道に、君がいる。それがどんな結末でも、きっと幸せだと思う」
蕾はその言葉に温かく微笑んだ。
「私も……最後まで、あなたと一緒に歩きたい」
その場に咲き誇る桜が風に揺れ、花びらが華やかに舞い上がった。
***
祭りは、昼過ぎから始まった。町の人々は約束の箱を中心に集まり、皆で花びらをひとつずつ箱に収めていった。
子どもが「未来へ」と短く宣言し、大人が「感謝を」と言葉を添えた。ひなたへの手紙、アジサイの押し花、そして最後に誠司と蕾の花びらが投じられた。
「これで……すべての章が終わるのかな」
誠司が蕾に囁いた。
「うん。旅は終わる。でも、物語は、いつでもまた咲く」と、蕾。
その言葉どおり、桜の花びらが約束の箱に満ちて、ゆっくり蓋が閉じられた。
***
夕暮れ、桜並木に灯りが燈される頃ふたりは公園を後にした。
誠司は肩にかけた旅行鞄を持ち、蕾は花柄のスカーフをそっと直した。
「これからは……どこへ行くの?」
蕾が訊くと、誠司は笑った。
「どこでもいい。お前がいれば、咲く場所にたどり着ける気がする」
蕾は頷き、ふたりは肩を寄せて歩き出した。
桜の花びらが風に乗って二人の背中に舞い、道は幾重にも連なる花の絨毯となっていた。
──春の光に包まれて、ふたりの物語は、新たな花をめざして続いていく──




