三 封印の記憶と最後の願い
三 封印の記憶と最後の願い
町の朝は、まだしっとりと湿っていた。
前夜までの雨は止んでいたが、空には分厚い雲が漂い、紫陽花坂の一角にだけ陽が差していないように感じられた。まるで、まだ誰かが眠っているかのように。
「封印された空間があるって、ほんとなのかな……」
誠司がそうつぶやきながら、坂道をゆっくりと登る。
「あるよ。きっと、ひなたの心と一緒に、閉じ込められてるんだと思う」
蕾の言葉は、どこか確信に満ちていた。
***
鍵は、藤森邸の奥座敷にあった。
玲子から受け取ったそれは、錆びついた古い鉄の鍵で、花を模した装飾が施されていた。
「紫陽花の模様……」と、蕾。
「その鍵はね、蔵の裏手にある祈りの間を開けるためのものよ」
玲子の声は静かだった。
「祭りの巫女が代々使ってきた儀式の空間。でも、十年前に閉じたの。……あの子の事故のあと、私は鍵をかけて……誰にも見せなかった」
「でも、ひなたさんはそこに、何かを残したんですよね?」
蕾の問いに、玲子は頷いた。
「祈りの花……そう言ってた。私はよくわからなかったけど、あの子はその花を咲かせたくて、ずっと何かを書いてた。絵や言葉や……感情のかけらを、小さなノートに」
「……ノート?」
「ええ。でも、探しても見つからなかった。あの事故以来、祈りの間に入っていないから……」
***
祈りの間は、藤森邸の裏手、苔むした小道を抜けた先にあった。
扉は風雨にさらされて歪みかけていたが、鍵を差し込むと、かすかな音を立てて開いた。
中はひんやりと冷たい空気に満ちていた。外とはまるで異なる時間が流れているかのように、そこだけが十年前で止まっているようだった。
「……ここが、封印された空間」
蕾がそう言い、足を踏み入れた瞬間、胸の奥が締めつけられるような感覚に襲われた。
棚には色とりどりの和紙で折られた紫陽花の花が無数に並び、天井からは紙の風鈴が下がっていた。床の上には、ノートや色鉛筆、万年筆のインク瓶が散らばっている。
「これ、ひなたさんの……」
誠司が一冊のノートを拾い、ページをめくると、そこには幼い文字で綴られた詩のような断章が続いていた。
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わたしのいろが にじんでいく
だれのめにも みえないいろ
それでも このはなは
だれかのこころに さくのです
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「これは、祈りだ……」
蕾は呟いた。
「色を持ちたい、存在を証明したい――でも、自分だけでは咲けない。誰かの心に咲く花になりたいって、そう願ってたのかも」と、誠司は告げる。
そのとき、ふと部屋の隅の一輪の造花が目に留まった。
紫陽花の形をした紙の花。それだけが、周囲の装飾と違って色を持っていなかった。
「これ……なんで色がないの?」
誠司が触れようとすると、蕾がすっと手を伸ばして制した。
「だめ。これは……ひなたの未完の祈り」
蕾の手は震えていた。花の中心に、小さなポケットが縫い込まれていることに気づき、慎重に糸をほどくと――中から、一枚の紙が出てきた。
それは、ひなたが誰にも見せずに書いた、最後の手紙だった。
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おかあさんへ
わたしのいろが、なくても、
みとめてくれますか?
しずかなときに、そばにいてくれますか?
わたしは、みんなとちがってもいいですか?
さいごのまつり、いっしょにあるいてくれますか?
あじさいのあめのなかで――
ひなた
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「……この手紙は、願いだったんだ」
蕾の頬を、涙がすべり落ちた。
「誰にも言えなかった想い。最後まで、受け取られなかった願い」
誠司はゆっくりとしゃがみ、蕾の肩に手を置いた。
「でも、こうして今、俺たちが見つけた。ちゃんと届いたよ。彼女の気持ち、祈り……全部、ここに残ってた」
「……色って、感情の記憶なのね」
蕾は立ち上がり、部屋の中央に立つ。
「この部屋は記憶の空間だった。だから、紫陽花たちも色を失ったの。彼女の気持ちが、ずっとここに閉じ込められてたから」
ふたりは、花のない紫陽花の造花に、そっと色鉛筆を走らせた。
青、紫、そして淡いピンク。
「――色、戻ったな」
と、誠司が言うと、笑みを浮かべた蕾が答えた。
「うん。彼女の祈りが、ようやく咲いた」
***
その夜、藤森玲子に手紙を渡すと、彼女はしばらく声を出せなかった。
「……こんなにも、静かに、叫んでたのね。私、何も……見ようとしてなかった……」
涙が頬を伝い、やがて彼女はその手紙を胸に抱いた。
「ありがとう。あなたたちがいなかったら、私はこのまま……あの子の祈りを知らずに生きてた」
蕾は微笑んだ。
「花は、咲く場所を選べません。でも、見つけてくれる人がいれば……いつかまた、光を浴びることができます」
玲子は静かに頷いた。
「来年、紫陽花祭りを……ひなたの名で再開します。その時は、あなたたちにも来てほしい」
紫陽花坂の夜道、蕾と誠司は、色づいた花々の間をゆっくり歩いた。
雨は止んでいたが、葉先から落ちるしずくが、まるで彼女の涙の続きのように、静かに地面に吸い込まれていった。
「色を取り戻したな」
と、誠司が言うと、対する蕾が嬉しそうに告げた。
「うん。誰かを想うことって、こういうことなんだね」
ふたりの背後で、灯籠が揺れ、紫陽花の影を淡く浮かび上がらせた。
そしてその影の中に、ひなたの面影が、ほんのわずか――微笑んだように見えた。




