二 記憶の濡れた手紙
二 記憶の濡れた手紙
夜が明けきらないうちから、雨は静かに降り続けていた。
しずく亭の窓辺に立つ蕾は、ガラス越しににじんだ紫陽花坂の景色を眺めていた。雨粒が窓を這い、まるで何かを記憶から削り落とすように、景色をぼかしてゆく。
「雨が、記憶を洗い流すって言葉……。ほんとは、逆なのかもね」
と、蕾が囁くと、誠司が目を細めて質問を飛ばした。
「……どういう意味だ?」
ベッドから起き上がった誠司が、髪をぐしゃぐしゃにしながら近づいてくる。
蕾は視線を窓の外に戻したまま、ぽつりと言った。
「この町、雨が降るたびに思い出し続けてる気がするの。ひなたさんのことを、紫陽花たちが忘れられなくて……」
***
朝食のあと、ふたりは再び藤森邸を訪れた。前日よりも雨脚は弱まっていたが、空には重たい雲が垂れ込めている。
「昨日の手帳……あのF・Rっていうイニシャル、たぶん藤森玲子さんじゃないかな」
と、誠司が持論を展開すると、蕾はうなづきながら答えた。
「誰?」
「町の資料室にあった。紫陽花祭りの創始者の孫娘で、十年前の祭りを取り仕切ってた人物。で……藤森ひなたは、その娘だと思う」
誠司が手にしていたのは、町の広報誌の古いコピーだった。そこには「町の誇り紫陽花祭りと藤森家の絆」と題された記事と、若い女性が小さな女の子と笑い合っている写真が載っていた。
「これが……玲子さんと、ひなたちゃん?」と、蕾。
写真の中の少女は、まだ八歳くらい。濡れたような黒髪に、青紫の浴衣を着て、紫陽花の髪飾りをつけている。
しかし、その笑顔にはどこか影が差していた。
***
藤森邸の書斎。昨日の紫陽花は、雨水を含んで一層瑞々しくなっていた。
ふたりはそっと机の引き出しを開けてみた。中には古びた封筒がいくつか収められていた。手書きの宛名には、すべてひなたと書かれている。
「……手紙だ」
と、蕾は視線を誠司に合わせて呟いた。
封筒の一つを開け、そっと中身を引き出す。
そこには子どもの筆跡で綴られた短い文が、にじんだインクで記されていた。
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おかあさんへ
あめのひも、わたしはすきです。
はなにふれると、しずくがおちてきて、
そのなかに、わたしがうつります。
そのわたしは、なんだかしずかで、
ほんとうのわたしのようなきがします。
ひなた
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「……きれいな言葉だな」
誠司の声がかすかに震えていた。
「こんな小さな子が、本当のわたしなんて言葉、使う?」
疑問に満ちた表情で蕾が言った。それを受け、誠司が答える。
「使わない。でも……誰かに見てもらいたかったのかも」
蕾は手紙を胸に抱えるように持ち、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。
「もしかして、玲子さんは……この子の心に気づいてあげられなかった?」
「どうしてそう思うの?」
「雨の中で、花の色が変わっていくのを、彼女は自分と重ねていた。だけど周りの大人は、花が咲けばそれでいいって思っていたのかもしれない」
***
町の図書館で資料を調べていると、ひとつの新聞記事が目に留まった。
「――見ろ、これ。十年前の六月八日」
誠司が指さした紙面には、小さくこう書かれていた。
《紫陽花祭り、少女の事故により中止》
記事には詳しいことは書かれていなかった。ただ、藤森家の関係者が事故に遭い、町が弔意として祭りを中止した、とだけ。
「事故って……」
と、誠司が言うと、はっきりした口調で蕾が告げた。
「それが、ひなただと思う」
ふたりは言葉を失った。十年前の雨の日、少女は紫陽花坂の石畳で滑って倒れ、意識を失ったまま命を落としたという噂が、町の一部で囁かれていたという。
「でも、事故っていうには、なにかが……ひっかかる」
蕾は目を細めながらそう言った。
***
その夜、再び藤森邸へ向かったふたりは、偶然にも玲子と名乗る中年女性と鉢合わせた。
「……あなたたち、誰?」
玲子は驚いたように眉をひそめたが、ふたりがひなたについて調べていると話すと、力なく微笑んだ。
「そう……もう、そんなに経つのね」
「ひなたさんのこと、教えてもらえませんか?」
蕾が真剣なまなざしで尋ねると、玲子はゆっくりと頷いた。
「ひなたは、少し……感受性が強すぎる子だったの。雨の音に耳を澄ましたり、紫陽花の色に心を揺らしたり。でも……私は、それを過剰だと思ってた」
「普通の子にしたいって……思ってしまった?」
「そう。間違ってたのに……気づいた時には、遅かったのよ」
玲子の声が震えた。
「事故の朝……私は、祭りの準備で忙しくて、彼女のお願いを無視してしまった。今日だけは、家にいてって、そう言われたのに……」
「……紫陽花の髪飾りをつけてた日ですよね」
誠司がそう言いながら写真を見せると、玲子は目を閉じてうなずいた。
「……あの飾りは、私の母が作ったもの。代々、紫陽花祭りの巫女役がつけるものだった。でも……あのときのひなたは、主役じゃなかった。裏方の子ども、ただの家族の一人だった」
「でも、彼女は……色を持ちたかったんだと思います」
蕾の言葉に、玲子はぽろりと涙をこぼした。
「ねえ……あなたたち、もしも花が色を失う理由を見つけたら……許されると思う? 私は、ひなたに謝れると思う?」
その問いに、蕾は静かに首を横に振った。
「謝ることはできる。でも、許されるかどうかは……花が決めることです」
雨の音だけが、静かに響いていた。
***
翌朝、紫陽花坂の一角で、ふたりはふと小さな手紙の欠片を見つけた。雨に濡れ、ぼろぼろになりながらも、かろうじて読める文字がそこに残っていた。
【わたしは、また いろを とりもどしたい】
【みんなに あいされたい。 でも、わたしのいろは……】
蕾はそれを胸に抱くようにして、目を閉じた。
「花の色は、いつも誰かの感情で咲いてる。失われたものを探すんじゃなくて、また育て直すんだよ。感情の根から」
「……その手紙は、そういう意味なんだな」
誠司が静かにうなずく。
紫陽花たちは、雨に濡れながらも、確かに少しずつ――色を帯び始めていた。




