一 濡れた石畳の街
一 濡れた石畳の街
列車のドアが静かに開くと、濡れた空気がふたりを包み込んだ。
「……降ってるね」
誠司が呟いた。駅のホームに立つ彼の肩には、細かな霧のような雨粒がしっとりとまとわりついていた。
「梅雨の街って聞いてたけど、ほんとにずっと雨なんだね」
蕾は傘を開きながら駅前の景色に目を向けた。そこには古い石畳の小道が蛇のように続き、湿った紫陽花の花が民家の軒先から顔を覗かせていた。どの家も瓦屋根で、どこか昭和を思わせる趣がある。
「ここが、雨坂町……」と、誠司。
ふたりが今回訪れたのは、山間の小さな町。通称紫陽花の里と呼ばれ、梅雨の時期には観光客も訪れるが、今年は例年よりも人影が少ないらしい。町のホームページには「花の祭りは中止」とだけ記されていた。
「変ね。紫陽花が有名な町なのに、花祭りが突然中止なんて」
蕾は眉をひそめた。何かが隠されていると、本能が囁いているようだった。
***
ふたりは町のはずれにある民宿「しずく亭」に宿を取っていた。宿の女将は小柄な老婦人で、淡い藤色の作務衣を着ていた。
「まあまあ、お若い方が……。こんな雨の中、よくいらっしゃいました」
「あの、紫陽花祭りって……もうやらないんですか?」
誠司が遠慮がちに尋ねると、女将の手がほんの一瞬止まった。
「……ええ。祭りは……もう、やめたんです」
「何か、理由があるんでしょうか」
蕾が静かに言葉をつなぐと、女将は少し首を傾けて笑った。
「……いえね。理由なんて、そんな大したものじゃないのよ。花が……咲かなくなったの。ただ、それだけ」
「咲かなくなった……?」
「そう。紫陽花がね、ここ数年……色を失っていくんですよ。不思議と。青も、紫も、赤も……全部、灰色みたいになって」
「灰色の紫陽花……」
蕾は、ふと手帳を取り出して書き留めた。
「花言葉が……変質してる?」
誠司はその言葉を聞き取り、目を見開いた。
「それって、あのひまわりのときと同じような……」
その言葉を受け、蕾が答えた。
「ううん、たぶん少し違う。今回は記憶じゃない。もっと、曖昧で、揺らいでるもの……感情の色が失われてるのかもしれない」
***
その日の午後、ふたりは町の中心部にある紫陽花坂へ向かった。
雨脚は強くなったり弱くなったりを繰り返し、坂道の石畳には水たまりが不規則にできていた。紫陽花たちはしとしとと降りしきる雨に濡れて咲いていたが、その色合いは確かに奇妙だった。
「……ほんとだ。どの紫陽花も、まるで色を忘れたみたい」
誠司が立ち止まり、近くの花に手を伸ばす。
その花は、白くもなく、青くもなく、ただ薄い灰をまとっていた。色の名前を問われても答えられないような、どこか名前のない存在だった。
「これは……無彩の紫陽花」
蕾がそう名付けたその花は、周囲のどの花よりも静かで、寂しげに見えた。
「ねえ、誠司。紫陽花の花言葉って、何だと思う?」
と、蕾が尋ねると、少し考えこんだ誠司が答えた。
「たしか、移り気とか、冷淡とか……だよな」
「そう。でも、本来は、家族の結びつきとか、和解っていう意味も持ってる」
「和解?」
「うん。紫陽花って、咲いたあとに色が変わっていくでしょ。青から赤、赤から紫。それって、時間とともに感情が変化していくって意味でもあるの」
誠司は、その言葉を反芻した。
「……つまり、この灰色は感情の変化が止まったってこと?」
「あるいは、感情そのものが希薄になった可能性もある」
ふたりは無言で坂を登った。しばらくすると、坂の頂に立つ古びた洋館が見えてきた。
***
「ここ……誰かが住んでるのか?」
誠司の問いに、蕾は首を横に振った。
「ネットで調べたとき、藤森邸って出てた。かつて紫陽花祭りを始めた家系。でも、今は空き家になってるらしい」
洋館の門は開け放たれていた。玄関に続く道は紫陽花の植え込みで囲まれていて、道そのものが見えにくくなっていた。
「入ってみる?」
蕾が促すと、誠司は一瞬だけ躊躇したが、うなずいた。
ふたりが屋内に足を踏み入れると、そこにはかすかな香りが漂っていた。雨で湿った木材と、古いインク、そして――微かに甘い香り。
「これ……」
蕾は匂いの源を探すように廊下を進んだ。やがて書斎と思しき部屋に辿り着いたとき、窓辺に飾られた一輪の紫陽花が目に入った。
それは、灰色ではなかった。
淡い――けれども確かに青みを帯びた、美しい花だった。
「……生きてる?」
誠司が囁いた。
「……この花だけ、感情を取り戻してる」
蕾は花瓶の下に置かれた手帳に気づいた。革の表紙には「F・R」の刻印。
開いてみると、ページの途中にこう書かれていた。
---
【六月の雨は、罪を洗い流せるのだろうか】
【私は、いまだにあのときの選択が正しかったのか分からない】
【紫陽花が色を失ったのは、私のせいだ】
---
ふたりは視線を交わした。何かが、この家に――この町に――封じられている。
「六月の雨って、紫陽花の花言葉そのものみたいだな」
と、誠司が告げると、目を瞬いた蕾が答える。
「ううん。罪を洗うという言い回しは、つまり贖罪の意味を含んでる」
蕾は窓の外に目をやった。
紫陽花の花が、静かに雨に濡れていた。
「紫陽花はね、水がないとすぐにしおれてしまう。でも……逆に言えば、雨が降り続けていれば、ずっと咲き続ける」
誠司ははっとしたように言った。
「この町……咲き続けることに、何か意味があるのか?」
「あるいは、終わらせることができない記憶が、この雨で封印されているのかもしれない」
***
その夜、ふたりは宿に戻りながら、ふと見つけた雨に濡れた掲示板に目を留めた。
そこには古びたポスターが貼られていた。
「紫陽花まいり 追悼の花」
と、不思議そうに蕾が言うと、それに合わせて誠司が繰り返して答えた。
「追悼……?」
「花祭りじゃない、供養だったの?」
蕾の声が震える。
「誰かが死んだのか? それで祭りが終わった……?」
と、誠司はやや震える声で告げた。
ポスターの端に、かろうじて読める文字が残っていた。
【藤森ひなた 十年前 六月七日】
「……藤森邸の人間、だ」
誠司が口にした名を、蕾は胸の奥で繰り返した。
藤森ひなた。
紫陽花の、そしてこの町の色が消えた、その日。
その名前は、確かに雨の中で、濡れた石畳に響いていた。




