五 空を見上げるとき
五 空を見上げるとき
風がやわらかく頬を撫でる。音無町の朝は、ひときわ静かだった。
ひまわり畑に立つ蕾と誠司の前に広がるのは、まるで空を仰ぐように咲く無数の花たち。その中央には、一輪の赤く染まったひまわりが、凛とした姿で天を指していた。
「……咲いたね」
蕾がつぶやいた。
「うん。ようやく、空を見た」
誠司の言葉は、風に乗って消えていった。
あの夜、記憶の瓶を見つけたことで、ふたりは確信した。ひまりという存在は、人知れず誰かの未来のために消えていった少女だった。そしてその想いは、ずっと土の下で眠り、ようやくいま花として芽吹いたのだ。
***
その日、町の集会場で開かれる「ひまわりまいり復興の集い」に、ふたりは特別な資料としてあの瓶と手紙、そして押し花を持参していた。
「この花は、十年前に消えた少女の願いでした。そして、それを受け取った誰かが、この町に未来を残した。だから今、町の花たちは空を向いて咲いています」
蕾の言葉に、集まった町の人々は静かに耳を傾けていた。
やがて、祭壇に飾られた一輪の記憶の花が、窓から差し込む光を受けて輝いた。
その光の中に――小さな女の子の影が、一瞬だけ現れたように見えた。
「……見えた?」
誠司が小声で尋ねる。
「うん。きっと、ありがとうって言いに来たのよ」
と、少し笑いながら蕾が言った。
***
その日の夕方、町を発つ前に、ふたりは最後に塔のある旧校舎へ立ち寄った。
扉はもう鍵が外されていて、中に風が通り抜けていた。
「……最初にここへ来たときは、こんなに風なんて吹いてなかったよな」
と誠司が言うと、蕾が髪をかき上げながら答えた。
「記憶が解放されたから。閉じていた空間が、やっと外とつながったの」
最上階まで登ると、床にあった子どもの手形はもうかすれて見えなかった。
けれど、その代わりに――
壁の一角に、ひまりのものと思われる名前が、鉛筆のような線で薄く書き残されていた。
【ひまり】
それはまるで、「私はここにいた」と証明するように。
「残したんだね……最後の記憶を」
蕾はそれにそっと手をかざし、目を閉じ、さらに続けた。
「……私、昔、自分の存在なんて誰にも覚えられなくてもいいって、思ってた」
誠司は少し驚いた表情を見せた。
「でも、今は違う。思い出されることって、やっぱり意味がある。誰かに咲いた記憶は、どこかでまた花を咲かせる」
「……俺は、たぶん……」
誠司は一呼吸おいて、言葉を続けた。
「ずっと、蕾のことを覚えていたいって思ってる」
その言葉に、蕾はゆっくりと振り向いた。
「……ありがとう。でも、それって――」
「恋とか、そういうのじゃない。たぶん、もっと……根っこみたいなもの」
「根っこ?」
「うん。大事な何かを、ずっと一緒に掘って、探してきた。花が咲くか咲かないかじゃなくて、その土を共有できる関係って、俺には――大きいんだ」
蕾は笑った。どこか、泣きそうな顔で。
「……あんたって、不器用だけど、ほんとに真っ直ぐ」
「褒めてる?」
「半分ね」
ふたりは塔の窓から、空に向かって広がる畑を見下ろした。そこに咲くひまわりたちは、もう空を見ない花ではなかった。
「ひまりちゃんがくれたのは、光を見る力だったのかも」
と、蕾が言うと、笑みを浮かべた誠司が意気揚々と答えた。
「なら、次の花も探しに行かないとな」
「うん。記憶を咲かせる旅、続けよう」
***
駅のホームに立ったふたりの前に、風が吹き抜ける。
夕日に照らされたホームの端に、一輪の花が落ちていた。
蕾が拾い上げると、それはバラだった。だが――不思議なことに、真紅でもなく、白でもなく、淡い青がかった花弁をしていた。
「これ……染められたもの? それとも……」
誠司が覗き込む。
蕾は花を手のひらで包み、そっとつぶやいた。
「花言葉は……奇跡」
「誰かが、次の謎を預けてきたのかもな」
「うん。たぶん、また誰かの記憶が、私たちを呼んでる」
列車が滑り込んでくる音が近づいてくる。
ふたりは目を合わせ、静かにうなずいた。
「行こう」
「次の花へ」と、二人の声がシンクロした。
その手には、まだ咲いていない物語が握られていた。




