三 記憶の花
三 記憶の花
鐘の塔に閉じ込められた空間で、夕暮れは静かに深まっていた。
西日が長く伸び、木の床に影を落とす。埃の粒が光の中を漂い、まるで時間そのものが止まっているようだった。
「……やばいな、ほんとに開かない」
誠司が扉の取っ手を何度も引いてみるが、錆びた金具はびくともしない。携帯の電波も届かず、連絡の手段は途絶えていた。
「もしかして、誰かが……外から閉じた?」と、誠司は半分諦めたような口調で言った。
「それともこの建物自身が、私たちを閉じ込めたのかもね」
蕾の言葉に、誠司は眉をひそめた。
「やめろよ、そういう言い方。怖くなるだろ」
「でも……不思議じゃない? 誰もいないはずなのに、鐘が鳴ったって噂が残ってる。しかも、ひまりちゃんが消えたのはその直後……。この場所自体が、何かを封じ込めるために存在してるみたい」
蕾は床に膝をつき、先ほど見つけた手形に指先を添えた。
「この手形、たぶん子どものもの。乾いた木板に、何か粘着質のもので押されたような痕……」
「血……じゃないよな?」
「違う。これは花の樹液。多分……ひまわりの茎から出たもの」
「ひまりって子が、ここで花を抱えてたってことか?」
「あるいは、花を手にして、ここに来た……」
蕾は立ち上がり、塔の四隅に目を向けた。どこか、引っかかる違和感――その正体を探るように、指先が壁の継ぎ目をなぞる。
すると――
コツ、と指先に空洞を感じる部分があった。
「……この壁の裏、空いてる」
蕾はヘアピンを取り出すと、木板の隙間に差し込み、慎重にこじ開けた。ミシミシという音ののち、小さな空間が露わになる。
中には、古びた箱と数枚の紙がしまわれていた。
「これは……」
埃を払い、誠司が紙を一枚ずつ広げていく。
それは、子どもが描いたような拙い絵と、日記の切れ端だった。
---
【7月30日 はなばたけのまんなかに なにかがある】
【8月1日 おともだちにいっちゃダメって おとなにいわれた】
【8月3日 だれもいないのに カネがなった】
【8月4日 おねえちゃんに はなをあげるって やくそくした】
---
「これ……ひまりちゃんの、日記?」
と、誠司が尋ねると、蕾が目を細めながら答えた。
「……そうかもしれない」
蕾は震える声で紙を手に取った。
「誰にも言っちゃダメ。花をあげる。……これって、単なる遊びじゃない。約束だったのよ。誰かと、ここで何かを交わす」
「でも、相手は?」
そのとき、塔の下からかすかな音が聞こえた。
キィ……ギィ……という木の軋み。
誠司と蕾は、顔を見合わせた。
「……誰か、来た」
「のり子さん?」
扉の方に耳を寄せた瞬間――鍵がカチャリと音を立てて外れる。重い扉がゆっくりと開き、そこに立っていたのは――
「……!」
白髪交じりの、見知らぬ老人だった。
「お前たち……ここで何をしている?」
低く渋い声。背筋がぞくりとする。
「……町の者か?」
蕾が一歩前に出て言った。
「……私たちは、十年前に失踪した早瀬ひまりさんについて調べています。あなたは……?」
老人は少し間を置き、静かに答えた。
「わしは、音無町で最後までひまわりまいりを執り行っていた者だ」
「じゃあ、ひまりちゃんと……」と、蕾。
「会ったことはある。最後のひまわりの子じゃった」
老人はゆっくりと階段を降りるように促す。
***
一階に戻ると、老人は校舎の片隅にある古い倉庫へ案内した。そこには、使い古された道具と共に、埃をかぶった木箱が並んでいた。
「ひまわりまいりは、子どもたちが願いを託して花を供える行事だった。……だが、時代と共に形が変わり、やがて閉じ込める儀式へと変わっていった」
「閉じ込める……?」
と、蕾が繰り返すと、対面に立つ老人が答えた。
「願いを託すには、代償がいる。誰かの想いが強すぎると、その場所に残ってしまう」
蕾は黙って聞き入っていた。
「十年前、ひまりは大切な人のために、花を持ってあの塔へ行った。自分が消えても、その人が幸せになるようにと願って」
「……自分が消えても?」
「花は記憶を宿す。ひまりが捧げたのは、忘れられることそのものだった。……だから誰も、彼女を覚えていない。学校の記録も、家族の写真も、まるで最初からいなかったように消えていった」
「それじゃ……!」
誠司が言いかけたとき、蕾が小さく呟いた。
「……花が、記憶を食べた」
***
夜。再び民宿に戻ったふたりは、無言のままそれぞれのノートに向き合っていた。
蕾のページにはこう書かれていた。
【向日葵:偽りの愛/あなたを見つめる/あなただけを思う】
「ひまりちゃんは、誰かの代わりになろうとした。ひまわりの輪は、彼女が願ったものの形……それが彼女を消した」
と、蕾が言い、次に誠司が答える。
「じゃあ、俺たちができることは?」
蕾は静かに答えた。
「彼女の記憶を、もう一度咲かせること。誰かの心に、それが根を張れば――きっと、花はまた空を向く」
次の日。
蕾は畑の中心に立ち、静かに手を合わせた。
そして一輪のひまわりを摘み、誠司とともに、旧校舎の塔に向かった。
記憶の花を捧げるために――




