第9章:御手洗の時計台、潮待ちの港で止まる針
大久野島を後にしたふたりは、再び呉線に揺られて西へと向かった。
車窓の右手には相変わらず穏やかな瀬戸内海が広がっているが、太陽の位置が変わるにつれて、海の青は朝の透明なそれから、深く濃厚なエメラルドグリーンへと表情を変えていく。
「広駅」で列車を下りたふたりは、そこから数本の橋で結ばれた島々、通称「とびしま海道」を渡る路線バスに乗り換えた。
下蒲刈島、上蒲刈島、豊島、そして大崎下島。バスが橋を渡るたびに、窓の外には手が届きそうなほど間近に美しい多島美が展開する。都会の喧騒を離れ、いくつもの境界線を越えていく感覚に、穂乃花の胸の鼓動は心地よく波打っていた。
バスに揺られること約1時間。終点の「御手洗」に到着した時、そこには現代の日本から完全に切り離されたかのような、静謐な空間が広がっていた。
「すごい……本当に、江戸時代みたい」
穂乃花は思わず息を呑んだ。
目の前に広がるのは、網の目のように張り巡らされた狭い路地と、瓦屋根の古い木造家屋が立ち並ぶ街並み。かつて風待ち、潮待ちの港町として栄え、坂本龍馬や伊能忠敬も訪れたという歴史が、そのままの形で息づいている。
「あそこです。先生の写真に写っていた場所は」
蓮が路地の先、港のすぐそばに建つ小さな建物を指差した。
それは、日本最古の新式時計店と言われる「新光時計店」の文字が刻まれた、レトロな木造の洋館だった。その建物の壁面には、大きな丸い時計が掲げられている。
驚くべきことに、その時計の針は、完全に「12」の、つまり**『0:00』**の場所で止まったまま動いていなかった。
「時計の針が止まる港町……」
穂乃花は、第2章で見つけたあの絵葉書の言葉を反芻した。
宇野線の12の駅を越え、直島の地中の底を覗き、坂出の夜の日時計を経て、ついに辿り着いた、本当の『時計の針が止まる場所』。
ふたりがその時計台を見上げていると、時計店の古い引き戸がガラガラと音を立てて開いた。
中から出てきたのは、白髪に作務衣をまとった、穏やかな目元をした初老の男性だった。その顔を見た瞬間、蓮の身体が小さく強張るのを、隣にいた穂乃花は察知した。
「……先生」
蓮の声は、これまでのどの会話よりも低く、震えていた。
男性――蓮の恩師である写真家の高橋は、驚いた風でもなく、ただ懐かしいものを見るように蓮を見つめ、それからその隣にいる穂乃花へと視線を移した。
「よく来たな、蓮。そして、そちらがキヤノンのカメラを届けてくれたお嬢さんかな」
高橋は深く刻まれた目尻の皺をさらに深くして笑った。
「宇野線にあのカメラを遺した時は、果たして蓮の手元に届くかどうか、半分は賭けだったんだが……まさか、こんなに美しい旅の連れを伴って現れるとは、さすがに計算外だったよ」
「先生、どうして……どうして姿を消したんですか」
蓮が一歩前に出た。その拳は、デニムジャケットのポケットの中で強く握りしめられているようだった。
高橋は時計台の壁に背を預け、静かに海を見つめた。
「自分の写真に行き詰まってな。都会で評価されるためだけの写真、消費されるためだけの表現に、心が磨耗してしまったんだ。だから、すべてを捨ててこの瀬戸内に身を置いた。この御手洗の、止まった時間の中で暮らすうちに、ようやくカメラを向けたいものが何なのか、思い出すことができた」
高橋の言葉は、かつて東京のオフィスで数字とスケジュールに追われ、自分を見失いかけていた穂乃花の心に、痛いほど真っ直ぐに突き刺さった。
(私も、同じだった……)
だからこそ、あの朝、新大阪駅で突如として「ひかり」のボタンを押してしまったのだ。それは、自分という人間が完全に壊れてしまう前に、心が起こした本能的な防衛反応だったのかもしれない。
「蓮、お前にもそれを見つけてほしかったんだ」
高橋は蓮の肩にそっと手を置いた。
「お前は技術に溺れ、他人の目を気にしすぎて、自分の本当の『蒼』を描けずにいた。だから、この瀬戸内の光と影を、自分の足で歩いて、自分の目で確かめてほしかった。……どうだ、良い絵は描けたか?」
蓮は言葉に詰まり、それから、ゆっくりと自分のリュックから使い込まれたスケッチブックを取り出した。
パラパラとページがめくられる。そこには、宇野線の黄色い列車、直島の穏やかな海、瀬戸大橋の圧倒的なトラス、そして――。
最後のページに描かれていたのは、坂出の夜、日時計の端で瀬戸大橋のライトアップを見つめる、穂乃花自身の横顔だった。
繊細な鉛筆のタッチと、かすかに添えられた青い水彩の絵の具。それは、穂乃花がこれまでに見たどんな写真よりも、彼女自身の「本当の姿」を捉えているように思えた。
「……良い絵だな」
高橋は満足そうに微笑んだ。
「僕の旅の案内は、ここまでだ。だが、ふたりの旅の終着点は、もう少し先にある」
高橋はそう言うと、穂乃花の手元にある古いカメラを指差した。
「そのカメラには、まだ最後の1枚、13枚目のフィルムが残されているはずだ。それを、本州の最果て、山陽本線の終着駅である『下関』、あの関門海峡の渦巻く境界線で、最後のシャッターを切ってほしい。そこで初めて、このカメラのフィルムは巻き戻され、すべての物語が完成する」
旅は、広島を越え、山口の果て、本州の終わりへと続いていく。
穂乃花は、自分の首元に巻かれた、蓮から借りたままのマフラーにそっと手を触れた。
始まった時は「予定のない逃避行」だったこの旅が、今ではふたりの、かけがえのない「約束の旅」へと変わっていた。
「行きましょう、蓮さん」
穂乃花が蓮を見つめて言うと、蓮は静かにスケッチブックを閉じ、今度は穂乃花の手を、そっと、けれど包み込むように優しく握りしめた。その手の温かさが、ゆっくりとしたテンポで、ふたりの心を完全に繋ぎ合わせていくようだった。




