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蒼(あお)の境界線を越えて――瀬戸内ローカル線、12の途中下車  作者: 臥亜


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8/12

第8章:大久野島、優しき島に眠る負の記憶

忠海ただのうみ港から出た小さなフェリーは、朝の穏やかな海を十数分ほど進み、大久野島の桟橋へと接岸した。

船のタラップを降りた瞬間、穂乃花は思わず「あ」と声を上げた。

茶色や白の、小さくて丸い生き物たちが、一斉にこちらへと駆け寄ってきたからだ。野生のウサギたちだった。人懐っこく鼻をヒクヒクさせながら、穂乃花たちの足元に集まり、餌をねだるように後ろ足で立ち上がっている。

「本当に、ウサギだらけの島なんですね」

穂乃花は屈み込み、リュックを傷つけられないように気をつけながら、そっと一匹の耳を撫でた。柔らかく温かい毛並みが、指先を通じて旅の緊張をほぐしていく。

「ええ。今では『ウサギの楽園』として、世界中から人が集まる平和な島です」

蓮はそう言って、集まったウサギたちを刺激しないように、静かな足取りで歩き出した。

「でも、少し奥へ進むと、この島のもう一つの顔が見えてきます」

ふたりは、観光客で賑わう広場を離れ、島を一周する沿岸の細い道路へと進んだ。

ヤシの木が植えられ、南国リゾートのような明るい雰囲気が漂う海岸線を数分も歩くと、突如として、周囲の緑を侵食するような赤煉瓦の巨大な廃墟が現れた。

――旧陸軍の発電場跡。

窓ガラスはすべて失われ、内側からは名もなき蔦や木々がコンクリートの壁を破って外へと枝を伸ばしている。かつて戦時中、この島で秘密裏に毒ガスが製造されていた時代、その全電力を賄っていた場所だ。当時の凄惨な歴史を無言で伝えるその佇まいは、先ほどのウサギたちの愛くるしさとはあまりにもかけ離れており、穂乃花は思わず息を呑んだ。

「時間を消された島、地図から消された島……。先生がここを目的地に選んだ理由が、なんとなく分かる気がします」

蓮は廃墟の前に立ち、ポケットからあの真鍮の鍵を取り出した。

「先生はいつも言っていました。本当に価値のあるものは、歴史の表舞台や、きらびやかな都会にはない。忘れ去られた影の中にこそ、人間が守るべき本当の美しさが隠されているんだ、と」

「蓮さんの先生は、ここで何を伝えようとしているんでしょう」

穂乃花は、蓮の隣に並んだ。昨日、坂出で彼から借りたウールのマフラーは、綺麗に畳んでリュックの中に大切にしまってある。それを返すタイミングを、穂乃花はまだ見つけられずにいた。それは、この旅の繋がりを、少しでも長く残しておきたいという、彼女自身の小さな、けれど確かな欲心の現れでもあった。

「行ってみましょう。鍵が合う『最後の扉』は、この発電場の中ではなく、島のさらに高台にあるはずです」

蓮の言葉に従い、ふたりは島の中央部へと続く鬱蒼とした山道を登り始めた。

観光客の姿は完全に途絶え、聞こえるのは風に揺れる木々の葉音と、自分たちの足音だけ。時折、草むらからウサギが顔を覗かせるのが、唯一の救いだった。

十五分ほど登ると、視界が開け、瀬戸内海を一望できる展望台の近くに出た。そこには、かつて大砲が据えられていたというコンクリート製の「砲台跡」が、ぽっかりと不気味な穴を開けて残っていた。

その砲台跡の片隅に、周囲の藪に隠れるようにして、古びた鉄製の配電盤のような箱が、ひっそりと設置されていた。

表面は赤錆に覆われ、長年の風雨に晒されて文字は何も読めない。しかし、その中央には、はっきりと小さな鍵穴が残されていた。

「これだ……」

穂乃花は胸を高鳴らせた。

蓮は無言で頷き、穂乃花に真鍮の鍵を手渡した。

「穂乃花さんが開けてください。この旅を始めたのは、君ですから」

「でも、これは蓮さんの先生の……」

「いいんです。先生は、僕じゃなく、君にこの鍵を託したんだ」

蓮の真っ直ぐな瞳に見つめられ、穂乃花は小さく頷いた。

鍵穴に真鍮の鍵を差し込む。驚くほど滑らかに、鍵は奥まで収まった。そして、ゆっくりと右へ回すと、パチリ、と硬質な音が響き、錆びついた鉄の扉がゆっくりと手前に開いた。

キィ、と重い音を立てて開いた箱の中。

そこに置かれていたのは、やはり万年筆の青いインクで書かれた、1通の手紙だった。

そしてその横には、もう1枚の、古い写真が添えられていた。

穂乃花が手紙を開き、蓮がその肩越しに覗き込む。ふたりの距離が、再び呼吸が重なるほどに近づいた。

『よくここまで辿り着いた、我が弟子よ。そして、カメラを運んでくれた見知らぬ旅人よ。

地図から消されたこの島で、君たちは何を見たろうか。

光と影は、常に表裏一体だ。都会の喧騒の中で自分を見失いそうになった時、この海の静けさを思い出してほしい。

旅の終着点は、まだ先にある。本州の果て、渦巻く海の境界線で、私は待っている。

追伸:蓮、お前はもう、自分の絵を描けているか?』

「先生……」

蓮の声が、微かに震えていた。その瞳に、一瞬だけ熱いものが宿るのを、穂乃花は見た。

恩師は生きている。そして、この旅の終着点で、蓮が来るのを待っている。

「蓮さん、見てください。この写真」

穂乃花が手渡したのは、手紙と一緒に残されていた1枚の白黒写真だった。

写っていたのは、レトロな木造の洋館や時計台が立ち並ぶ、まるで明治時代で時間が止まったような、美しい港町の景色だった。

「これは……御手洗みたらいだ」

蓮は涙を堪えるようにして、フッと微笑んだ。

「広島の、大崎下島にある古い港町です。江戸時代から潮待ちの港として栄えた場所で、ここもまた、時間が止まったような場所だ。……呉線を進み、ひろ駅からバスと船を乗り継いで行けます」

「御手洗……。素敵な名前ですね」

穂乃花は写真を愛おしそうに見つめた。

旅の目的は、いつの間にか「東京からの逃避」から、「蓮の恩師を探す旅」、そして「自分自身を取り戻す旅」へと、完全に昇華していた。

「蓮さん、行きましょう。次の島へ」

穂乃花が笑顔で言うと、蓮もまた、心の霧が晴れたような、清々しい笑顔で頷いた。

「ええ。行きましょう、穂乃花さん」

ウサギたちが遊ぶ平和な楽園の、その歴史の影の底で、ふたりの旅は、瀬戸内のさらなる深部へと続いていく。山道を下りるふたりの歩幅は、昨日よりもほんの少しだけ、自然に揃い始めていた。

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