第7章:呉線の波際、地図から消された島への序曲
坂出の夜から一夜明け、瀬戸内の朝は、どこまでも透明な青空で始まった。
ふたりは昨夜のうちに宇多津から特急「しおかぜ」に乗り、岡山を経由して、山陽本線の三原駅近くのビジネスホテルにそれぞれ宿を取っていた。急遽決まった延泊だったが、穂乃花の心に焦りはなかった。東京のオフィスから届くメールの通知バッジは「99+」を示していたが、今の彼女にとって、それは遠い異国の無意味な数字に過ぎなかった。
午前8時過ぎ、三原駅のホーム。
ここから始まるのは、瀬戸内海の海岸線にぴったりと寄り添うように走るJR西日本の屈指の景勝路線――呉線だ。
「ここからは、少しのんびりした旅になりますね」
ホームに入ってきたのは、瀬戸内エリアでお馴染みの、どこか親しみやすい表情をしたローカル列車だった。
蓮はいつものように、穂乃花の一歩先を歩き、乗り換えの改札や切符の手配をスマートに済ませてくれていた。その手際に、穂乃花は昨日からずっと抱いていた小さな違和感を、ついに言葉にすることにした。
「蓮さんって……もしかして、このカメラの持ち主を知っているんじゃないですか?」
列車が三原駅を滑り出し、高架を下りて海沿いの線路へと入っていくタイミングだった。ボックス席に差し込む朝の光の中で、穂乃花は真っ直ぐに蓮を見つめた。
蓮は一瞬、窓の外に目を向け、それから困ったように眉を下げて笑った。
「どうしてそう思うんですか?」
「昨日、坂出の公園で『時間を消された島』って文字を見たとき、蓮さんの顔がすごく真剣というか、どこか悲しそうに見えたから。それに、直島でも坂出でも、まるで行き先を最初から知っていたみたいに迷いがなかったでしょう?」
蓮はポケットの中で、昨夜カメラから落ちた真鍮の鍵を転がしているようだった。カチ、カチと、小さな金属音がふたりの間で跳ねる。
「……隠していたわけじゃないんです」
蓮は静かに息を吐き、スケッチブックの表紙を愛おしそうに撫でた。
「ただ、確信が持てなかった。でも、次の目的地が『呉の波止場』、そして『時間を消された島』だとすれば、もう間違いありません。このカメラの持ち主は……僕の、大学時代の恩師です」
「恩師……?」
「ええ。写真家であり、僕に絵の手ほどきをしてくれた人です。3年前、突然『旅に出る』と言い残して、僕の前から姿を消しました。その人がいつも使っていたのが、まさにそのキヤノンの古い機械式カメラだったんです」
蓮の言葉に、穂乃花は胸の奥がキュッと締め付けられるような感覚を覚えた。
彼がひとりで瀬戸内の島々を巡り、絵を描き続けていた理由。それは単なる趣味などではなく、失踪した大切な人の足跡を、ずっと思い出の景色の中に探し求めていたからだったのだ。
「じゃあ、このカメラは……」
「おそらく、僕に見つけさせるために、先生がわざとあの宇野線の列車に遺していったんだと思います。でも、まさか僕じゃなく、東京から逃げてきた君が最初に拾うなんて、先生も計算違いだったでしょうね」
蓮はそう言って、悪戯っぽく微笑んだ。
その笑顔は、どこか寂しげだったけれど、穂乃花に対して完全に心を開いてくれた証拠のようにも思えて、彼女の心をじんわりと満たしていった。
「計算違いなんかじゃないですよ」
穂乃花は、膝の上の革ポーチをそっと両手で包み込んだ。
「私がこのカメラに、そして蓮さんに出会えたのは、きっと意味があるんです。だから……最後まで付き合わせてください。その先生を、見つけるまで」
蓮は少し驚いたように目を見張り、それから、今までで一番温かい、穏やかな目で穂乃花を見つめ返した。
「ありがとう、穂乃花さん」
名前を呼ばれただけで、耳の奥が少し熱くなるのを穂乃花は感じた。お互いの過去や傷を少しずつ共有しながら、ふたりの距離は、瀬戸内海の波のように、ゆっくりと、けれど確実に寄せては返すように近づいていた。
列車は、右手に瀬戸内海を、左手に切り立った山肌を臨みながら、急カーブを幾度も繰り返して進む。
窓外の景色は、息を呑むほどに美しかった。海が近すぎるのだ。まるで線路が海の上に浮いているかのように、波打ち際ギリギリを列車が走り抜けていく。遠くに見える大島や小島、そして海面に浮かぶカキの養殖筏が、朝の光を浴びてキラキラと輝いていた。
「次の目的地、忠海駅です」
蓮がアナウンスの手前で教えてくれた。
「そこに、『時間を消された島』があるんですか?」
「ええ。駅のすぐ近くの港から船が出ている『大久野島』。今は『ウサギの島』として世界中から観光客が来る平和な場所ですが……かつて戦時中、そこはある秘密の理由から、国土地理院の地図から完全に存在を消されていた、暗い歴史を持つ島なんです」
時間を消された島。地図から消された島。
その島に、真鍮の鍵が導く「最後の扉」がある。
列車が速度を落とし、忠海駅の短いホームに滑り込んだ。
潮風が、本州の最果ての駅に、懐かしい香りを運んでくる。ふたりは並んで席を立ち、新たな謎が待つ島へと向かうため、改札口へと歩みを進めた。




