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蒼(あお)の境界線を越えて――瀬戸内ローカル線、12の途中下車  作者: 臥亜


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6/12

第6章:坂出の夜、影をなくした日時計

快速「マリンライナー」を降りた坂出駅のホームは、すっかり夜のとばりに包まれていた。

高架ホームから階段を下りると、改札口の向こうには、仕事帰りの人々が足早に行き交う日常の風景が広がっている。新大阪から始まった穂乃花の「予定のない旅」は、いつの間にか瀬戸内海を越え、四国・香川の地にまで達していた。

「さて……『SAKAIDE 0:00』、ですか」

駅前のロータリーに出ると、蓮は冷たくなってきた夜風を遮るように、デニムジャケットの襟を少し立てた。

街灯の下、手元にある古い革ポーチを見つめる。

「本当に深夜の12時まで待つんですか?」

穂乃花は自分の腕時計を見た。時刻は午後6時を過ぎたところだ。あと6時間近くもある。東京にいれば、6時間なんて企画書を1本書き上げるか、クライアントとの会食を1件こなせば、あっという間に過ぎ去ってしまう時間だ。けれど、この見知らぬ港町での6時間は、果てしなく長い空白のように思えた。

「いや、時計の針が指す『0:00』なら、直島のあの言葉と矛盾します」

蓮は歩き出し、駅前の案内看板の前で立ち止まった。

「覚えていますか? 絵葉書にあった『12番目の港で、時計の針が止まる』という言葉。時計の針が止まるということは、時間が意味をなさなくなる場所、あるいは……」

蓮の指先が、案内図のある一点を示した。

駅から北へ、瀬戸大橋のたもとへと続く海岸線。そこには「瀬戸大橋記念公園」と、かつては島であり、今は埋め立てによって陸続きになった「沙弥島しゃみじま」の名前があった。

「あの公園には、巨大な『日時計』があるんです。太陽の光で時間を計る、最も古い時計が。……穂乃花さん、日時計って、夜になるとどうなると思います?」

「え……?」

穂乃花は少し考え、ハッとした。

「光がないから、影ができない。つまり、時間を刻むのをやめる……」

「そうです。時計の針が止まるんです。そして、日時計において『0:00』、つまり正午の真上の位置は、完璧な『真北』を指している。カメラの持ち主は、夜の、影をなくした日時計の真北の場所を指定しているんじゃないでしょうか」

蓮の推測は、あまりにも鮮やかだった。

穂乃花は、彼の横顔を見つめながら、胸の奥が小さく震えるのを感じた。プランナーとして、散らばった情報からロジックを組み立てる仕事をしてきた自分なのに、今の蓮の言葉には、論理を超えた「ロマン」のようなものが宿っているように思えた。

「行ってみましょう。ちょうど、瀬戸大橋のライトアップが綺麗に見える時間です」

蓮はそう言って、駅前に待機していた1台のタクシーに、穂乃花を促した。

タクシーは、工場の明かりが点々と輝く臨海工業地帯を抜け、瀬戸大橋記念公園へと向かった。

車窓から見える瀬戸大橋は、昼間の武骨な鉄の塊から一転して、夜の海に架かる光のネックレスのように美しくライトアップされていた。等間隔に並んだ水色の光が、漆黒の瀬戸内海に長い光の帯を落としている。

公園に到着すると、そこには驚くほど静寂が満ちていた。

観光客の姿はなく、ただ、規則正しく打ち寄せる穏やかな波の音と、遠くの橋の上を走る列車の、かすかな轟音だけが聞こえてくる。

ふたりは、暗闇の中に浮かび上がる巨大なコンクリートの広場へと歩いた。

そこにあったのは、地面に大きな円が描かれ、中央に巨大な三角形の石の針がそびえ立つ、文字通り巨大な「日時計」だった。

蓮の言う通り、夜の帳の中では、その針は一切の影を作っていなかった。ただ、瀬戸大橋のライトアップの淡い光を浴びて、静かに佇んでいる。

「真北は……あっちですね」

蓮が、日時計の「12」あるいは「0」と刻まれた文字盤の先を指差した。

そこは、瀬戸内海の真っ暗な水平線に向かって、コンクリートのステージが突き出ている場所だった。

穂乃花と蓮は、並んでその先端へと進んだ。

夜の海から吹き付ける風は冷たく、穂乃花は思わず自分の身を抱きしめるようにして肩をすくめた。

すると、隣にいた蓮が、自分のリュックから使い込まれた薄手のウールマフラーを取り出し、黙って穂乃花の首元にかけた。

「あ……ありがとうございます」

「すいません、男物の地味なやつで。でも、海の夜風は冷えるから」

マフラーからは、かすかに炭の香りと、蓮のものらしき心地よい匂いがした。

東京の男たちなら、もっとスマートに自分のコートをかけたり、気の利いた言葉を添えたりしただろう。けれど、蓮のその、少しぶっきらぼうで、けれど確かな優しさが、穂乃花の頑なな心をゆっくりと、確実に溶かしていく。

ふたりの距離が、マフラーの長さを介して、ほんの少しだけ縮まった気がした。

「穂乃花さん、カメラを」

蓮の声に、穂乃花は我に返り、革ポーチから古いカメラを取り出した。

第4章でロックが外れ、カウンターが「13」に進んだあのカメラだ。

日時計の真北の端、瀬戸大橋の光が海面を照らすその場所で、穂乃花は再びファインダーを覗いた。

真っ暗な視界。けれど、遠くに見える瀬戸大橋のライトアップの光のラインが、ファインダーのガラスに刻まれた別のスリットと交差した。

――カシャ。

今度は、シャッターが切れた。

明確な金属の駆動音とともに、カメラの底面から、**小さな金属製の「鍵」**が、ポロリと地面に落ちた。

「鍵……?」

穂乃花がしゃがみ込み、それを拾い上げる。手のひらに収まるほどの、古びた真鍮製の鍵だった。

それと同時に、蓮がスマホの画面を見つめて、小さく声を上げた。

「穂乃花さん、これを見てください。……カメラの裏蓋に、小さな文字が浮き出ています」

瀬戸大橋の光に照らされたカメラの黒いボディ。そこには、先ほどまではなかった、蓄光塗料のようなもので書かれた新たなメッセージが、ぼんやりと青白く浮かび上がっていた。

『旅は西へ。呉の波止場、かつて時間を消された島へ。

その鍵で、最後の扉を開け。』

「呉……広島の、呉線ですか」

穂乃花は息を呑んだ。旅は、香川から再び瀬戸内海を渡り、広島のローカル線へと続いていく。

「かつて時間を消された島……」

蓮は、拾い上げた真鍮の鍵を見つめながら、低く呟いた。その目は、夜の瀬戸内海の深淵を見つめるように、静かで、どこか遠い場所を向いていた。

「蓮さん、どうかしたんですか?」

「いや……何でもないです。行きましょう、次の目的地へ。今夜はひとまず、高松か岡山に戻って、明日、山陽本線を西へ進みましょう」

蓮はいつもの穏やかな笑顔に戻ったが、穂乃花は、彼の心の奥にある「影」が、少しだけ濃くなったのを見逃さなかった。

このミステリーの先には、もしかしたら、蓮自身の「過去」も繋がっているのかもしれない。

瀬戸大橋の光に照らされた夜の海を背に、ふたりの旅は、より深い謎と、静かな引力に導かれていく。

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