第5章:瀬戸大橋を渡る風、青のグラデーション
直島からの復路のフェリーは、夕刻の手前、傾きかけた太陽の光を浴びて宇野港へと滑り込んだ。
港から宇野駅へと戻る道すがら、穂乃花と蓮の間に大きな会話はなかった。けれど、それは気まずい沈黙ではなく、地中美術館で体験した「光と影」、そしてカメラが刻んだ新たなメッセージの余韻を、互いに静かに噛み締めている時間だった。
宇野駅から再び、あの黄色の2両列車に乗り込む。
目指すのは、宇野線と瀬戸大橋線が交わる「茶屋町」駅だ。そこから四国行きの快速列車に乗り換えることになる。
「『SAKAIDE 0:00』……深夜の12時、ということでしょうか」
ガタゴトと揺れる車内、穂乃花は手帳に書き留めた文字を見つめながら呟いた。
「それとも、何かのカウントダウンがゼロになる瞬間とか」
「深夜の坂出駅は、もう列車も止まっていますし、無人になりますからね」
蓮は窓の外に目を向けたまま、人差し指でトントンとスケッチブックの端を叩いた。
「時刻表の上の『0:00』ではなく、何か別の意味があるのかもしれない。たとえば……いや、まずは行ってみましょう。坂出の手前には、日本で唯一の、特別な景色がありますから」
茶屋町駅で列車を降りると、ホームの反対側には、高松行きの快速「マリンライナー」が待っていた。
流線型のシャープな顔立ちをした、2階建ての車両を連結した現代的な列車だ。穂乃花たちが乗り込んだ自由席は、家路につくサラリーマンや学生たちでそこそこ混み合っていたが、運良く進行方向右側の窓際、ふたつ並んだ席を確保することができた。
列車が茶屋町を出発し、高架線を加速していく。
次の停車駅は「児島」。ジーンズの街として知られる、本州側の最後の駅であり、JR西日本とJR四国の境界駅でもある。
「ここから先が、瀬戸大橋線の一番のハイライトです」
蓮が少しだけ声を弾ませた。
児島駅を出ると、列車はいきなり暗いトンネルへと吸い込まれた。
ゴーッという轟音が車内に響き、穂乃花は思わず身をすくめる。東京の地下鉄で聞き慣れた不快な騒音のはずなのに、これから始まる壮大な景色への前奏曲のように思えて、不思議と胸が高鳴った。
そして、トンネルを抜けた瞬間――。
視界が、爆発的な「青」で満たされた。
「わあ……!」
穂乃花は息を呑み、思わず窓ガラスに顔を近づけた。
列車は今、瀬戸内海を跨ぐ巨大な吊り橋「瀬戸大橋」の上を走っている。それも、自動車道の下層に設けられた、世界でも類を見ない「海の上の線路」だ。
トラス橋の無数の鉄骨の隙間から、夕暮れに染まりつつある瀬戸内海が、見渡す限りのパノラマとなって広がっていた。
西の空からは、黄金色の光が水平線に向かって解け落ちている。その光を受けて、海面は琥珀色と群青色の複雑なモザイク模様を描き出していた。行き交う小さな漁船が引く白い波紋が、まるで巨大なキャンバスに描かれた一筋の筆跡のように美しい。
「すごい……。空を飛んでいるみたい」
「この景色を見せたくて、あえてこのルートを選んだんです」
隣に座る蓮が、穏やかな声で言った。
「新幹線で一瞬で通り過ぎる旅もいいけれど、こうして在来線の速度で、風の音を感じながら海を渡る。これが、この路線の贅沢なんです」
穂乃花は、窓ガラスに映る蓮の横顔を見た。
彼は、カメラを持たず、スケッチブックも開かず、ただただその景色をじっと見つめていた。その瞳には、夕日のオレンジ色と、海の青さが綺麗に混ざり合って映っている。
(この人は、何を求めて旅をしているんだろう)
何度も浮かんだその疑問が、今度はもっと切実な形となって穂乃花の胸を締め付けた。
彼について知っているのは、「蓮」という名前と、絵を描くこと、そしてかつて古いカメラを使う大切な人がいた、ということだけ。
東京での生活なら、「名刺」を見ればその人の社会的地位や属性がすべて分かった。けれど、ここではそんなものは何の意味も持たない。目の前にいる「蓮」というひとりの人間の、剥き出しの言葉と佇まいだけが、穂乃花の心を捉えていた。
「蓮さん、私……」
何かを言いかけたその時、列車のブレーキ音が大きく響いた。
車内アナウンスが、目的地の名前を告げる。
「次は、坂出、坂出です。お出口は右側です……」
海を渡りきった列車は、四国の大地へと滑り込んでいく。
時計の針は、午後5時30分を回ったところだった。
『0:00』の謎が待つ港町。ふたりの「ゆっくりとした旅」は、いよいよ本州を離れ、新たな局面を迎えようとしていた。




