第4章:地中美術館、コンクリートの底に落ちる光
電動自転車のモーター音だけが、静かな島に小さく響いていた。
港を離れると、道はすぐに急な上り坂になった。右手にきらめく瀬戸内海を臨みながら、穂乃花は必死にペダルを踏み込む。
東京のジムで走るトレッドミルの上とは、まったく違う。額にじわりと汗がにじみ、肺が冷たい潮風をいっぱいに吸い込む。生きている、という実感が、心地よい疲労感とともに身体の芯から湧き上がってくるようだった。
「大丈夫ですか? もうすぐ頂上です」
少し前を走る蓮が、振り返って声をかけてくれた。彼は立ち漕ぎもせず、長い足を器用に動かして、穂乃花の速度にぴったりと合わせている。その背中は、都会の男たちのような仕立ての良いスーツに守られているわけではないのに、どこか頼もしかった。
坂を登りきると、突如として周囲の緑に溶け込むように、コンクリートの無機質な壁が現れた。
「地中美術館」――建築家・安藤忠雄氏の手による、建物の大半が地下に埋設された特殊な美術館だ。
ふたりは自転車を止め、長いアプローチを歩いた。
通路は高いコンクリートの壁に囲まれており、見上げると、切り取られた四角い空だけが青く輝いている。地下へと下っているはずなのに、不思議と圧迫感はない。むしろ、余計な音や情報が遮断され、自分の足音だけが鼓膜に響くことで、心が研ぎ澄まされていくようだった。
「ここに来ると、いつも自分の輪郭がはっきりする気がするんです」
蓮が声を潜めて言った。コンクリートの壁に、彼の声が静かに反響する。
「東京にいると、自分の輪郭が他人の色で滲んじゃう気がして」
穂乃花はその言葉に、小さく息を呑んだ。
(この人も、私と同じなのかもしれない……)
彼はただの気ままな旅人ではない。何かから逃れ、あるいは何かを探すために、この穏やかな海に身を寄せている。その共通項を見つけた気がして、胸の奥が少しだけ温かくなった。
館内は、人工の照明がほとんど使われておらず、天井の隙間から差し込む「自然光」だけで満たされていた。
ふたりは、ウォルター・デ・マリアの展示室へと足を踏み入れた。
そこは、巨大な階段状の空間だった。
中央には、直径2メートルはあろうかという、完璧に磨き上げられた黒い花崗岩の球体が鎮座している。天井からは天窓を通じてダイレクトに光が降り注ぎ、その日の天気、その時間、その瞬間の太陽の角度によって、室内の光と影のコントラストが刻一刻と変化していく。
「光が強すぎる場所では、影もまた濃くなる……」
穂乃花は、直島の港で見つけたあの言葉を呟いた。
「まさに、この場所のことですね」
蓮が、膝の上の革ポーチを見つめた。
「『12枚目のファインダーを覗け』。穂乃花さん、あの球体に向かって、カメラを構えてみてください」
穂乃花は頷き、震える手で古いカメラを取り出した。
冷たい金属の質感が指先に伝わる。言われた通り、ファインダーに右目を押し当て、中央の黒い球体にピントを合わせようとした。
しかし、やはりシャッターレバーは固くロックされたままだ。ファインダー越しに見えるのは、磨き上げられた黒い球体の表面に、天井からの光が反射している歪んだ景色だけ。
「何も起きない……。やっぱり、ただの悪戯なのかな」
諦めかけてカメラを外そうとした時、蓮がそっと背後から近づいた。
「待って。もう少し、右に寄って。あの球体に、天井のコンクリートのスリットが映り込む角度があるはずだ」
蓮の手が、穂乃花の肩に優しく触れた。
ほんの数センチ、身体を右へと誘導される。彼の体温と、かすかな絵の具の匂いが、潮風の香りに混じって穂乃花の五感を揺さぶった。心臓がトクン、と大きな音を立てる。恋愛のそれというよりは、未知の扉を開ける瞬間の、静かな興奮に近かった。
「そこだ。覗いてみて」
言われるままに、もう一度ファインダーを覗く。
ある一点に達した瞬間、黒い球体の表面に反射した光と影が、カメラのレンズのガラス面に施された「目に見えない微細な傷」と、奇跡的に重なり合った。
――カチリ。
静寂に包まれた展示室に、小さな、けれど明確な機械音が響いた。
カメラの内部で、頑なに眠っていた歯車が噛み合った音だった。それと同時に、ファインダーの隅に見える露出計の針が、狂ったように跳ね上がり、一つの方向を指し示した。
「ロックが……外れた?」
穂乃花が驚いて蓮を見上げると、彼はカメラの小窓を指差した。
数字の「12」が、ゆっくりと回転し、**「13」**へと進んでいた。
いや、それは「13」ではなかった。よく見ると、数字の横に、極小の文字でこう刻まれていたのだ。
――『SAKAIDE 0:00』
「サカイデ……坂出?」
「香川県の駅だ」
蓮の目が、鋭く輝いた。
「直島から宇野へ戻るんじゃない。僕たちは、瀬戸大橋を渡って四国へ行かなきゃいけないみたいだ。『12番目の港』のその先へ」
カメラの持ち主が仕掛けた、あまりにも精緻なギミック。
そして、日常から遠く離れた場所で、ひとつの謎を共有するふたり。
「ゆっくり行きましょう」
蓮はそう言って、肩から手を離し、いつもの心地よい距離へと一歩下がって微笑んだ。
「せっかく、時計の針が止まった島にいるんだから。次の列車までは、まだたっぷりと時間があります」




