第3章:光と影の島、ファインダー越しの空白
宇野駅の改札を出ると、瀬戸内海の潮風は、大阪のそれよりもずっと乾いていて、どこか甘い匂いがした。
駅前広場からフェリー乗り場までは、歩いてほんの数分。かつて国鉄時代、本州と四国を結ぶ「宇高連絡船」がここから毎日何本も往来し、無数の旅人の人生を運んでいたという歴史の残り香が、港の広いコンクリートの端々に染み付いているようだった。
「急ぐ旅でもないですし、次の船まで少し、そのカメラを観察してみませんか」
蓮はそう言うと、フェリー乗り場の待合所にある木製のベンチを指差した。
彼の手元にあるスケッチブックは、使い込まれて四隅が擦り切れている。穂乃花は促されるままにベンチに腰掛け、膝の上で茶色の革ポーチを開いた。
改めて取り出したクラシックカメラは、ずっしりと冷たい。
「これ、どうやって使うんでしょう。私、スマホのカメラしか使ったことがなくて」
「これは機械式カメラですね。電池がなくても、ゼンマイと歯車だけで動く。ほら、ここをこうして巻き上げて……」
蓮が細長い指先でカメラの上部にあるレバーを小さくカチリと引いた。その指先が穂乃花の手に一瞬だけ触れそうになり、穂乃花はほんのわずかに肩を硬くした。東京のオフィスなら、これくらいの物理的距離は何とも思わない。けれど、誰も自分を知らない異郷の地、しかも静かな港町というシチュエーションが、彼女の感覚を過敏にさせていた。
蓮はそれに気づかない風を装って、カメラの底面を見つめた。
「……おかしいな」
「何がですか?」
「フィルムの巻き戻しクランクが、途中で引っかかっている。中にまだ、フィルムが入ったままです。しかも、カウンターは『12』を指している」
またしても「12」という数字。
宇野線の12の駅。そして、カメラの12枚目。
「シャッターは切れるんですか?」
「いや、ロックがかかっているみたいだ。無理に動かすと、中のフィルムが破れて光が入り、せっかく写っているかもしれない像が消えてしまう」
蓮はカメラをそっとポーチに戻し、穂乃花を見つめた。その瞳は、先ほど列車の中で出会った時よりも、どこか深い色を帯びているように見えた。単なる好奇心ではなく、この謎の裏にある「誰かの意思」を、彼もまた真剣に受け止めようとしている。
「この中に、何が写っているのか。それを突き止めるのが、この旅の本当の目的になりそうですね」
「……蓮さんは、どうしてそんなに手慣れているんですか?」
穂乃花は、ずっと気になっていた質問を投げかけた。
「絵を描くだけじゃなくて、カメラにも詳しい。それに、なんだかこの辺りの土地にも慣れているみたい」
蓮は少しだけ視線を泳がせ、それから小さく笑った。
「昔、大切な人がこういう古いカメラを使っていたんです。その人に、一から教え込まれたんですよ。……あ、船が来ましたね」
それ以上、彼は自分の過去を語ろうとはしなかった。穂乃花もあえて追及はしない。
ゆっくりと縮まるはずの距離が、一歩近づいては、また静かに離れる。そのもどかしさが、今の穂乃花にはむしろ心地よかった。東京での人間関係は、いつも結論を急がされ、互いのプライベートを効率よく切り売りすることを求められていたから。
直島行きのフェリーは、鏡のような海を滑るように進んでいった。
客室を出て、遮るもののないデッキに立つ。行く手には、瀬戸内独特の、お椀をひっくり返したような形をした島々が、幾重にも重なって見えた。太陽の光が水面に反射し、無数のダイヤモンドを撒き散らしたようにきらめいている。
「綺麗……」
穂乃花は手すりに身を乗り出した。髪が風にあおられて顔にかかる。
「東京にいた時は、空を見る暇もなかった。毎日、満員電車に乗って、スマホの画面だけを見て、他人の評価ばかり気にして。私、何のためにあんなに必死に走っていたんだろう」
ぽつりと言葉がこぼれ落ちた。自分でも驚くほど、素直な気持ちだった。
蓮は、彼女の言葉を否定も肯定もせず、ただ静かに海の音を聴くようにして佇んでいた。
「走るのをやめるのは、勇気がいりますよね」
しばらくの沈黙の後、蓮が静かに言った。
「でも、止まってみないと見えない景色がある。この海みたいに。瀬戸内海は、外海(太平洋や日本海)と違って、大きな波がほとんど起きない。島々が風や波を遮ってくれているから。……今の君には、そういう遮蔽物が必要だったんじゃないですか」
その言葉が、穂乃花の胸に深く染み渡っていった。
彼は、彼女の「逃避」を責めるわけでもなく、同情するわけでもなく、ただ瀬戸内の自然になぞらえて肯定してくれた。それだけで、頑なになっていた心の結び目が、少しだけ解けたような気がした。
フェリーが直島の宮浦港に接岸した。
草間彌生氏の『赤かぼチャ』が、青い海を背景に鮮烈な存在感を放っている。
観光客たちが一斉にスマートフォンを掲げて写真を撮る中、蓮はそれらの人波から少し離れた、古い木造の待合所の裏手へと歩みを進めた。
そこには、錆びついた赤錆色のベンチと、1台の古い実用自転車が置かれていた。
今時のレンタサイクルではなく、昭和の時代に新聞配達や郵便配達に使われていたような、頑丈で武骨な黒い自転車だ。その荷台には、古びた木箱が括り付けられていた。
「穂乃花さん、これを見てください」
蓮の声に導かれて近づくと、木箱の表面に、万年筆の青いインクで、直接文字が書き付けられていた。
宇野線の車内で見つけた絵葉書と、完全に同じ筆跡だった。
『光が強すぎる場所では、影もまた濃くなる。
島の最南端、地中の底で、12枚目のファインダーを覗け。
そこにある影が、君を次の駅へと導く。』
「地中の底……」
穂乃花は呟いた。
「知っています。直島には、安藤忠雄氏が設計した『地中美術館』がある。建物の大半が地下に埋まっていて、上空からの自然光だけを頼りに作品を鑑賞する場所です」
「島の最南端、ですね」
蓮は自転車のサドルに軽く手を置いた。
「どうやら、あのカメラのシャッターが切れない理由、そしてフィルムが『12』で止まっている理由は、その美術館に行けば解けるかもしれない。……ここからは少し、坂道が続きますよ。どうしますか?」
蓮はそう言って、穂乃花の足元(パンプスと、少し長めのスカート)を見た。
「あ、私、大丈夫です。歩いてでも行きます」
「無理は禁物です。港で電動自転車を借りましょう。僕が前を走りますから、ゆっくりついてきてください」
蓮は自分のスケッチブックをリュックにしまい、穂乃花のために歩調を緩めて歩き出した。
ただの偶然から始まった、名前も知らない男との、瀬戸内の謎解き旅。
劇的な展開も、情熱的な言葉もない。けれど、ペダルを踏み出す足取りは、新大阪駅を出発した時のあの重苦しさから、確実に解放されつつあった。




