第2章:岡山駅の分岐点、宇野線が運ぶ潮の香り
岡山駅の在来線ホームは、新幹線の高架下独特の、少し薄暗くひんやりとした空気に満ちていた。
四国へ向かう特急「しおかぜ」が派手なモーター音を響かせて出発していくのを見送りながら、穂乃花は宇野線のホームへと向かう。
そこに待っていたのは、どこか懐かしい、濃い黄色の車体をした2両編成のローカル列車だった。
瀬戸内の太陽を思わせるその黄色は、東京の無機質な通勤電車とは違い、見ているだけで心が少しだけ緩むような温かみがある。
車内に入ると、乗客はまばらだった。地元の高校生とおぼしき数人と、買い物帰りらしい高齢の女性。観光客の姿はほとんどない。穂乃花はボックス席をひとつ占領し、リュックを隣のシートに置いた。
ガタゴト、と軽い衝撃とともに列車が走り出す。
市街地を抜けると、車窓にはのどかな田園風景が広がり始めた。東京での目まぐるしい仕事、鳴り止まない通知、締め切りに追われる焦燥感――それらが、1駅ごとに遠ざかっていく。
列車が「茶屋町」という駅を過ぎたあたりだった。
対面のシートの片隅に、**ひとつの「忘れ物」**があることに気づいた。
茶屋町駅で降りていった乗客が残していったのだろうか。それは、年季の入った茶色の革製のポーチだった。チャックが少し開いており、中から金属製の古びたいレンズのようなものが見えている。
「あ……」
声を上げたが、列車はすでに加速している。
穂乃花は躊躇したが、次の駅で車掌に届けようと思い、そのポーチを手に取った。ずしりと心地よい重みがある。中を確かめると、入っていたのは古いフィルムカメラだった。スマートフォンのデジタルカメラしか使ったことがない穂乃花でも、それがライカやキヤノンといった往年の名機に近い、クラシックなものであることは分かった。
そして、ポーチの底には、カメラと一緒に1枚の絵葉書が残されていた。
絵葉書には、瀬戸内のどこかだろうか、美しい夕日を背景に建つ、古い木造の時計台が描かれている。
ひっくり返して宛名面を見ると、住所も名前も書かれていなかった。ただ、万年筆の青いインクで、几帳面な文字でこうだけ書かれていた。
『12番目の港で、時計の針が止まる。蒼の中に、本当の君を隠した』
「何、これ……」
詩のようでもあり、暗号のようでもある、奇妙な言葉。
ただの悪戯にしては、添えられたカメラがあまりにも本物すぎる。穂乃花の本職であるプランナーとしての直感が、これがただの忘れ物ではないことを告げていた。まるで、誰かが意図してここに置いていったかのような――。
「それ、僕のじゃないです」
突然、頭上から低い声が降ってきた。
驚いて顔を上げると、いつの間にか通路を挟んだ隣の席に、1人の青年が座っていた。
使い古されたデニムのジャケットに、チノパン。手元には大きなスケッチブックと画材バッグを持っている。無造作に伸びた黒髪の奥から、鋭くもどこか穏やかな瞳が穂乃花を見つめていた。
「あ、すみません。別に盗もうとしたわけじゃなくて……」
穂乃花が慌ててカメラをポーチに戻そうとすると、青年は少しだけ目元を緩めて首を振った。
「分かってます。そのカメラ、さっき茶屋町で降りたお爺さんが置いていったものじゃないですよ。僕は岡山駅から乗ってますけど、その席には最初から誰も座っていなかった」
「え? じゃあ、いつからここに?」
「さあ。でも、そのカメラ……型は古いけど、手入れが行き届いている。そんな大事なものを置き忘れるなんて、普通はあり得ない」
青年はそう言うと、「僕は蓮」と短く名乗った。瀬戸内の島々の風景をスケッチするために、よくこの路線を利用しているのだという。
蓮は穂乃花の手元にある絵葉書をチラリと見つめ、少し考えるように顎に手を当てた。
「『12番目の港』……宇野線は、岡山から終点の宇野まで、ちょうど12の駅があるんですよ」
「えっ、本当ですか?」
「ええ。岡山、大元、備前西市……数えてみれば分かります。そして宇野は、かつて四国への連絡船が出ていた最大の『港町』だ。つまり、この絵葉書を書いた人は、終点の宇野駅、あるいは宇野港のことを指しているのかもしれない」
偶然にしては出来すぎている。
新大阪駅での、あの「押し間違い」から始まった旅。もしあの時、違うボタンを押していれば、自分はこの列車に乗っていなかったし、この謎めいたカメラに出会うこともなかった。
「……あなた、東京の人でしょう」
蓮が穂乃花のスーツや、どこか張り詰めた空気を察したように言った。
「分かります? 私、なんだか色々なことに疲れて、逃げるようにこの電車に乗ったんです。効率とか、正義とか、そういうものに追われるのに嫌気がさして。でも、こんな不思議なものを見つけちゃうなんて」
「逃げ場所としては、瀬戸内は最高ですよ」
蓮は窓の外を見つめながら、静かに笑った。
「ここには、東京にはない時間が流れてる。そのカメラの持ち主も、もしかしたら君みたいな『迷子』が拾うのを待っていたのかもね」
ガタガタと揺れる車内、蓮の言葉が穂乃花の耳に心地よく残った。
初対面なのに、なぜか不思議と警戒心を抱かせない空気を持つ男だった。彼の持つ独特の「ゆとり」が、穂乃花の心のトゲを少しずつ溶かしていくのを感じる。
「終点の宇野まで、あと少しです。もしよかったら、その謎解き、僕も少し付き合ってもいいですか? ちょうど次の島へ渡る船まで時間があるんだ」
蓮の提案に、穂乃花の胸がトクンと小さく跳ねた。
日常を捨てて飛び出した旅の先で、見知らぬ青年と、謎のカメラ。
窓の外には、いよいよきらきらと輝く、瀬戸内の穏やかな青い海が見え始めていた。




