第1章:新大阪発、ひかり。不意の衝動
スマートフォンの画面が、無機質な通知を次々と吐き出している。
「明日のミーティングの件ですが」「修正案を添付します」「ご確認をお願いします」
東京の大手広告代理店でプランナーとして働き始めて5年。穂乃花(ほのか、27歳)の日常は、常に分刻みのスケジュールと、他人の言葉で埋め尽くされていた。
「効率的に生きること」が正義だと信じて疑わなかった。
効率よくタスクをこなし、タイパの良いサブスク動画を1.5倍速で消費し、流行りのスポットをSNSで要領よくチェックする。それが「充実」だと思っていた。
しかし、その日の朝、出張先の大阪で目が覚めた時、穂乃花の中で何かがぷつりと切れた。
ホテルの白いベッドの中で、東京へ戻るための「のぞみ」の予約画面を見つめていた指が、なぜか全く違うボタンをタップしていた。
――「ひかり・岡山行き」。
「あ、間違えた」と呟いた時には、すでに決済完了の通知が届いていた。キャンセルする時間はいくらでもあったはずなのに、穂乃花はそのままベッドから起き上がり、スーツケースではなく、小さなリュックサックだけを背負って新大阪駅へと向かった。
午前9時過ぎ、新大阪駅のホーム。
東京方面へ向かう「のぞみ」には、ネクタイを締めたビジネスパーソンたちが吸い込まれていく。彼らは一様にスマホを見つめ、眉間に皺を寄せている。かつての、そして数時間前までの自分自身の姿がそこにあった。
しかし、穂乃花が乗り込んだのは、下りホームに滑り込んできた「ひかり」だった。
車内は驚くほど空いていた。窓際の席に深く腰掛け、コートを膝にかける。列車が滑らかに動き出すと、車内アナウンスが流れた。
「今日も、JR西日本をご利用くださいまして、ありがとうございます。この電車は、ひかり号、岡山行きです……」
岡山行き。終点まで乗っても、1時間少々の短い旅だ。
それでも、新大阪駅のホームを離れた瞬間、穂乃花は胸の奥がすっと軽くなるのを感じた。
新幹線が加速するにつれて、窓外の景色が流線型の絵の具のように引き伸ばされていく。市街地のビル群が徐々に影を潜め、兵庫県に入る頃には、冬枯れの田畑と低い山並みが視界を占めるようになった。
穂乃花はスマホをバッグの奥底へ押し込んだ。電源は切らない。けれど、見ない。
ただ、窓の外を眺める。そんな当たり前のことが、いつからこんなに難しくなってしまったのだろう。
トンネルを抜けるたびに、光のトーンが変わる。
西へ向かうということは、太陽を追いかけるということだ。午前中の光が、車内に細長い影を作っている。
「どこへ行こう」
手元にはガイドブックもなければ、ネットでの検索履歴もない。あるのは、ぼんやりとした「海が見たい」という衝動だけだった。それも、太平洋や日本海のような、波が荒々しく打ち付ける海ではない。もっと静かで、鏡のように穏やかな、あの海だ。
瀬戸内。
幼い頃、祖父母の家へ向かう途中で一度だけ見た記憶がある。たくさんの緑の島々が、青い絵の具を溶かしたような海にぽつぽつと浮かんでいた。あの景色の中に、今の自分を置いてみたら、少しは息ができるようになるだろうか。
列車は姫路を過ぎ、相生を通過していく。
車窓の右手に、時折、山陽本線の黄色いローカル列車が見えた。一両や二両で走る、あののんびりとした電車。目的地を決めない旅なら、あんな列車に揺られるのがお似合いかもしれない。
「次は、終点、岡山です」
アナウンスが流れた時、穂乃花は深く息を吐き出した。
東京にいる上司やクライアントには、「急用で本日の帰京が遅れます」とだけ、短いメールを送ってある。社会人としては最低の身勝手かもしれない。でも、いまここで立ち止まらなければ、自分という人間が摩耗して消えてしまいそうだった。
列車が減速し、岡山のホームに滑り込む。
ドアが開くと、少しだけ冷たく、けれどどこか乾いた西日本の空気が穂乃花の頬を撫でた。
乗換案内板を見上げる。
山陽新幹線から、在来線への乗り換え口。そこには、魅力的な名前の路線がいくつも並んでいた。
山陽本線、伯備線、津山線、吉備線、そして――宇野線。
「宇野」という文字を見た瞬間、穂乃花の脳裏に、かつて宇高連絡船が走っていたという海の玄関口のイメージが浮かんだ。いまは四国へ渡る大動脈は瀬戸大橋(瀬戸大橋線)に移っているが、あえて、かつての港町へと続く古い路線を選んでみるのはどうだろう。
時計を見る。午前10時30分。
次の宇野行きの列車までは、あと20分ある。
「よし」
穂乃花はリュックの紐をきゅっと締め直した。
ここからは、タイパも効率も関係ない。JR西日本が広げる、広大な青いキャンバスの中へ、ただ迷い込んでみよう。
自動改札機に切符を通す。パチンと小気味よい音が響いた。それが、穂乃花にとっての、本当の「自由」の始まりを告げる合図だった。




