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蒼(あお)の境界線を越えて――瀬戸内ローカル線、12の途中下車  作者: 臥亜


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10/12

第10章:宮島口の夕暮れ、オレンジ色に染まる海上の鳥居

御手洗の静寂な時間を背に、ふたりは再び呉線へと戻り、広島方面へと列車を進めた。

瀬戸内海の海岸線を縫うように走る呉線は、終点・海田市かいたいち駅で山陽本線に合流し、ほどなくして大都市・広島駅へと滑り込む。しかし、ふたりの旅はここが終着点ではない。恩師から託された「最後の1枚」のフィルムを消費するため、本州の最果て、下関を目指さなければならない。

広島駅での短い乗り換え時間。都会の喧騒が久しぶりに穂乃花の鼓膜を打った。

新幹線に乗れば、東京まで数時間で戻れる場所。改札の向こう側には、相変わらずスマートフォンを凝視し、足早に歩くスーツ姿の大人たちがひしめいている。数日前の自分と同じ姿だ。けれど、今の穂乃花には、その焦燥感がどこか遠い世界のもののように感じられた。

「お腹、空きませんか?」

ホームのベンチで、蓮がふわりと笑いかけてきた。彼の右手が、先ほど御手洗で握られた時と同じ温かさを、穂乃花の手のひらにまだ残しているような気がして、彼女は少しだけ俯いて頷いた。

「少し、空きました」

「じゃあ、宮島口みやじまぐちで途中下車しましょう。あそこのあなごめしは、先生もよく『旅の途中の贅沢だ』と言って食べていたんです」

山陽本線の普通列車に揺られ、広島駅から約30分。

宮島口駅に降り立つと、そこには世界遺産・厳島神社へと向かうフェリーの乗船客たちで溢れる、活気ある港の空気が漂っていた。

駅前にある老舗の食事処で、ふたりは名物のあなごめしを注文した。

特製のタレで香ばしく焼き上げられた穴子が、ご飯の上を隙間なく覆い尽くしている。一口頬張ると、深い旨味とふっくらとした食感が口いっぱいに広がり、これまでの旅の疲労がじんわりと解けていくようだった。

「美味しい……」

「でしょう? 東京の洒落たレストランもいいけど、こういう土地の空気を吸いながら食べるのが一番のスパイスですからね」

食後、ふたりはフェリー乗り場へと続く海沿いの遊歩道を歩いた。

宮島へ渡るフェリーは、JR西日本宮島フェリーと松大汽船の2種類があるが、蓮は迷わず「大鳥居に接近する」というJRのフェリーを指差した。

「せっかくここまで来たんです。船の上から、あの大鳥居を見ていきましょう」

フェリーが岸を離れると、西の空はすでに濃いオレンジ色に染まり始めていた。

デッキの特等席で、潮風に吹かれながら海を見つめる。船が進むにつれて、海上にそびえ立つ朱色の大鳥居が、徐々にその巨大な姿を現してきた。夕日を背に受け、シルエットとなった鳥居は、神々しいほどの美しさを放っている。

「穂乃花さん」

不意に、蓮が彼女の隣で、あの古いキヤノンのカメラを構えていた。

レンズは、大鳥居ではなく、夕焼けの光に照らされた穂乃花の横顔に向けられている。

「え、ちょっと待って。最後の1枚は、下関で撮るんじゃ……」

穂乃花が驚いて顔を向けると、蓮はファインダーから目を離し、静かに微笑んだ。

「大丈夫です。シャッターは切っていません。ただ、レンズ越しに見てみたかっただけです。僕の目に狂いがないか」

「狂い……?」

「御手洗で、先生が言っていましたよね。僕が自分の『蒼』を描けたかどうか、と」

蓮はカメラを下ろし、夕暮れの海を見つめた。

「僕はこれまで、ただ美しいだけの風景や、形の整ったものばかりを描こうとしていました。でも、本当に描きたかったのは……光と影があって、迷いながらも前に進もうとする、人間の不器用で愛おしい姿だったんだと思います」

蓮の視線が、海から穂乃花の瞳へと真っ直ぐに向けられた。

「新大阪のホームから、この旅につきあってくれて、ありがとう。君がいたから、僕は先生を見つけることができたし、何より……自分自身の進むべき道を見つけることができた」

それは、劇的な愛の告白ではなかったかもしれない。けれど、時間をかけて、いくつもの駅を越えてきたからこそ伝わる、嘘偽りのない誠実な言葉だった。

穂乃花は、首に巻いた蓮のマフラーをきゅっと握りしめた。

「私の方こそ……」

穂乃花の声は、潮風に少しだけ震えていた。

「予定のない旅に飛び出して、蓮さんに出会って……。立ち止まることの豊かさを、教えてもらいました。数字や効率だけじゃない、自分のペースで歩くことの大切さを」

夕日が水平線に触れ、大鳥居のシルエットが完全に闇に溶け込もうとしている。

ふたりの間にある距離は、もうほとんどゼロに等しかった。蓮の大きな手が、穂乃花の冷たくなった手を包み込むように握った。今度は、迷いも戸惑いもない、確かな力のこもった温もりだった。

「さあ、行きましょう。いよいよ、本州の果てへ」

宮島口駅へと戻るふたりの足取りは、もはや「東京から逃げてきた迷子」のものではなく、自らの意思で次の目的地へと向かう、旅人そのものだった。

夜の山陽本線が、ふたりを乗せて西へ西へと走り出す。旅の終着点、下関・関門海峡の境界線まで、あと少し。

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