八十六話 始まりの魔法
アリスの渾身の魔法は――
ノイスによって、あまりにも容易くあしらわれていた。
「ふははははは!」
ヴォルテスは両手を広げ、陶酔したように笑う。
「この力さえあれば、この世のすべてがくだらなく見える!
圧倒的とまで言われた天才の魔女が、まるで赤子ではないか!」
「何言ってるの!
ノイスに魔法を教えたのは、私なんだから!」
「もうその記憶などないというのに……
本当に話の通じないやつだ」
ヴォルテスは肩をすくめる。
「お前は昔からそうだな、アリス」
「なによ、ジジイ。
私をよく知ってるみたいな顔で、馴れ馴れしく呼び捨てにしないで。気持ちが悪い」
「ふん。口の減らない魔女だ」
ヴォルテスは鼻で笑い、それからノイスを見上げた。
「あの時……この少年を目にした時から、
私が積み上げてきた価値観は、大きく変わった」
声が少しずつ熱を帯びていく。
「私はこれまで魔法を学び、慈しみ、崇拝し……
気付けば、魔法協会の頂点にまで上り詰めていた」
「なにそれ? 自慢話?」
アリスは鼻で笑った。
「だが、そこにあったのは虚しさだけだ」
ヴォルテスは一切気にすることなく、続けた。
「魔法協会の会長になってもこの渇きは満たせなかった。
予備動作と魔素が必要な限り魔法には限界がある」
唇が、悔しげに歪む。
「冒険者の中でも、魔法使いは所詮サポート役扱い……
こんなにも神秘的な力なのに、なぜだ!」
「魔法は確かに神秘的で素晴らしい力よ。
でも、万能じゃない」
アリスが即座に言い返す。
「人が扱う力である以上、限界は必ずあるわ」
「私も昔はそう思って、諦めていた」
ヴォルテスは呟いた。
「魔法使いの限界とは、人の限界そのものだと……!」
「しかし!
この少年を見て、私のすべてが変わったのだ!」
指先が、宙に浮かぶノイスを指す。
「魔法使いの完成形――
完璧魔人をな!」
アリスは目を細める。
ヴォルテスは、そんなアリスの反応すら楽しむように口元を歪めた。
「君の研究……
魔素構造を書き換え、誰もが魔法適性を得られるようにする。
そんな凡庸な理想論に、最初は何の興味もなかった」
「しかし、実際に完成した個体を見た時……
私は震えたよ」
ヴォルテスの声には、狂気じみた興奮が滲んでいた。
「今までの常識が、すべて覆ったのだ!」
口元が大きく歪む。
「魔法を一生懸命学ぶこと。
新しい魔法を覚えて喜ぶこと。
知識を積み重ねて満足すること……」
余裕の笑みを浮かべる。
「そんなものが、すべて滑稽に思えた!
この力があれば……
これまで魔法を下に見てきた阿呆の連盟も、魔法使いを補助役としか見ていない能無しの冒険者どもも、すべて見返せる!」
そこで一度、顔が曇る。
「しかし――」
声が低く沈んだ。
「君の研究を引き継ぎ、同じように子どもを何人も何人も犠牲にしても……
完璧魔人は二度と作れなかった」
退屈そうな視線を向ける。
「ほとんどは使い物にならずに壊れてしまった……」
冷たく吐き捨てた。
「そして、わずかに残ったのも……
欠陥品だけだったのだ」
「そんなどうでもいい欲望のために、
未来ある子供たちにまで……!」
アリスの声が震える。
「そうならないために……
私の研究はすべて凍結させたのに!」
「……君が悪いのだよ」
ヴォルテスは薄く笑った。
「資料やデータがしっかり残っていれば、犠牲にならなかった子供たちもいただろうに……」
アリスは先程見たフィーラの過去を思い出す。
震える拳を強く握りしめる。
「人のせいにしないで!」
「それでも、私は感謝しているのだ。
人類に、新たな道を示したのだからな」
「もういいわ……黙りなさい。
すべては、私が背負うべき責任よ」
アリスはフルートを握り直す。
「あなたとノイスをここで止めて……
すべてを終わらせる」
「君にはできないさ」
ヴォルテスは愉快そうに目を細めた。
「あの時、あの時点で少年を処分できなかった……
甘い考えの君にはな」
「もう甘さなんてのは捨てたわ!」
アリスがフルートを構える。
「そうかそうか。でも、気付くのが遅かったな」
ヴォルテスが低く呟いた、その瞬間――
――ドヴァンッ!!
ノイスの手から放たれた熱線が、アリスの立っていた床ごと抉り飛ばした。
「……っ!」
咄嗟に跳び退いたアリスが、目を見開く。
「ほんと無詠唱なのに……なんて威力なの!」
「これでも、手加減するよう命じたつもりなんだがな……」
ヴォルテスが愉快そうに笑う。
――ドヴァンッ!
――ドヴァンッ!
間髪入れず、さらに熱線が飛ぶ。
アリスは風鳥で軌道を変え、氷亀で受けて、必死にかわす。
降り注ぐ熱線を防ぐたびに、ノイスの魔法はさらに威力を増していく。
その一方で、アリスの魔素は着実に削られ、体力も限界へ近づいていた。
「アリスさん……!」
ミリアは震える声を漏らした。
「ちょっと!
ノイス君! いい加減にしなよ!
アリスさんは、君の師匠でしょ?」
懸命な叫び。
けれど、その声はノイスには届かない。
宙に浮かぶ少年の瞳に、感情はなかった。
「もう……
あの時のノイス君はいなくなってしまったの……」
ミリアの声が掠れる。
「ユーリスの時みたいに……」
その場で俯く。
けれど――
「ううん。
そんなこと、絶対にさせない!」
ミリアは顔を上げた。
装備型魔道具を起動させ、そのままノイスめがけて大きく跳躍する。
その瞳に迷いはなかった。
「ノイス君!!
目を覚まして!!」
その目前に、光の大盾が出現した。
――ザシュゥッ!
ミリアは巨大な鉤爪で、それを真正面から引き裂く。
「魔素を断ち切る鉤爪か……
魔導技師に渡した魔道具だったな」
「へへん!
今さら後悔しても返さないよっ!」
ミリアは必死に叫ぶ。
「これなら、ノイス君の魔法がいくらすごくても――」
「ミリアちゃん! だめ!!」
アリスの悲痛な叫びが響いた。
次の瞬間、ノイスの手が静かにミリアへ向けられる。
「大丈夫です、アリスさん!
この鉤爪があればっ!」
放たれた魔法を、ミリアは鉤爪で引き裂こうとした。
――ギギギギギギッ!
「鉤爪が……
お、押し返される……?」
「馬鹿め……」
ヴォルテスが嗤う。
「魔素を断ち切る鉤爪があろうと、高濃度の魔素で構成された魔法には意味をなさない」
その目が狂気に細まる。
「それは、紙を裂く刃で鋼を断とうとしているようなものだ」
「ミリアちゃああああん!」
アリスの叫びも虚しく、ミリアは膨大な魔素の光に呑まれた。
そして、そのまま力なく地面へと落ちていく。
「あはは。やっぱりノイス君は……
あの時、僕に手加減してたんだ……」
意識が遠のいていく中、脳裏によぎるのは、優しく微笑むノイスの笑顔だった。
それを仇だと決めつけ、容赦なく切り裂いた自分。
ノイスはあの時、本当なら簡単に跳ね除けられたのだ。
(きっと……
僕を傷つけたくなくて……)
胸が苦しい。
(僕は、なんて馬鹿なんだ……
ユーリスのことで頭がいっぱいで……
いろんな人に迷惑ばっかりかけて……)
地面へ叩きつけられる、その直前。
アリスが滑り込むようにミリアを抱きかかえた。
「ミリアちゃん! しっかりして!」
「……ぐはっ!
はあ……はぁ……」
苦しそうに浅い呼吸を繰り返している。
だが、まだ意識はあるようだった。
「魔女よ。
またしても魔導技師を庇うか」
ヴォルテスが愉快そうに嗤う。
「これ以上……
ノイスには誰も傷つけさせない……!」
アリスは息を切らしながらも、必死に言葉を繋ぐ。
その声は震えていた。
「止めるにはもう、これしかない」
限界が近い。
「もう……甘さは捨てるから」
アリスはミリアをそっと床へ下ろし、震える手でフルートを構えた。
「ごめんね……ノイス……」
唇を噛みしめる。
「ひとりでは行かせないわ。
私も……後を追うから……」
そして、静かに演奏を始める。
「次は何を見せてくれるんだ、魔女よ!」
ヴォルテスの嘲りをよそに、アリスの魔素が音色とともに溢れ出していく。
その澄んだ旋律には――
ノイスをこの手で殺してでも止めるという覚悟と、すべての罪を背負う決意が込められていた。
「あの子を狂素病にしてしまった……
もう二度と使うことはないと思っていた最上位の魔法」
――あの日、全てを変えてしまった魔法。
フルートの演奏と共に、バチバチとアリスの周りに稲妻が走る。
「《ライトニング・ニーズヘッグ》!」
電光を宿した異形の竜が、その身をくねらせながら姿を現す。
「《サンダー・フェニックス》!」
アリスの代名詞たる、雷の不死鳥が眩い輝きを放った。
「ノイス……
今まで、ありがとう……」
アリスの目がわずかに揺れる。
「そして――ごめんね」
二体の雷の魔法が、咆哮を上げるようにノイスへ突き進んだ。
《ライトニング・ニーズヘッグ》は、稲妻の尾を引きながら蛇行し、空間そのものを噛み裂くように迫る。
《サンダー・フェニックス》は、雷光でできた翼を大きく広げた。
荒々しい稲妻でありながら、その輪郭は息を呑むほど美しく、一直線に天を焼きながら急降下した。
竜が唸る。
不死鳥が啼く。
雷鳴がメンテナンスルーム全体を震わせ、その場にいるだけで肌が痺れるような圧に襲われる。
二つの雷魔法が放つ圧倒的な威圧感が、その場のすべてを支配していた。
それでもノイスは、逃げようともしなかった。
ただ静かに、迫り来る二つの雷魔法を見つめている。
雷竜の顎が、ノイスを呑み込まんと大きく開かれる。
ノイスが静かに手をかざすと大きな岩塊が突如として出現した。
――バチチンッ!
雷竜の口の中へと岩塊が放り込まれる。
だが、《ライトニング・ニーズヘッグ》は止まらない。
雷の顎が岩塊を噛み砕き、そのままノイスへ喰らいつこうと迫る。
すぐさま、ノイスは薄い膜のような防壁を展開する。
雷竜はそれへ激しくぶつかり、ノイスを覆う魔素の膜を粉々に砕いた。
「……っ」
その衝撃と高圧の電流を浴びたノイスの体が、わずかに硬直する。
その一瞬を逃さず――
《サンダー・フェニックス》が閃光となって、真正面からノイスへ突っ込んでいく。
――ドォォォォンッ!!
激突。
二つの雷魔法が真正面からノイスを呑み込み、凄まじい閃光と轟音がメンテナンスルームを支配した。
白と蒼の雷光が視界を塗り潰し、暴れ狂う稲妻が装甲や魔道具の破片を激しく跳ね上げる。
空気そのものが焼け焦げ、床を這うような電流が、部屋の隅々まで駆け抜けていった。
やがて――
遅れていた轟音だけが、何度も何度も反響して消えていく。
アリスは荒い息のまま、フルートを握りしめてその先を見つめた。
「ごめんなさい……ノイス」
今にも消えてしまいそうな震える声だった。
自らの手で、ノイスを殺めたという現実が、胸の奥へ重く沈んでいく。
あれほど荒れ狂っていたノイスの魔素の気配が、嘘のように途絶えていた。
「……ま、まさか……」
ヴォルテスの顔が、みるみる青ざめていく。
「そんな……馬鹿な……
あの……始祖が!」
信じられないものを見るように、視線が揺れる。
その場に残ったのは、魔導灯の灯りを不意に落としたような、不気味な静けさだけだった。




