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八十二話 象徴する魔法

 フィーラの絶叫が響いた瞬間、ルーシーの視界がぐにゃりと歪んだ。


「……え?」


 頭の奥へ、剥き出しの感情が雪崩れ込んでくる。


 ――ザザザザザザザザ。


「……あ、ああ……っ!

 な、何ですか、これ……頭が割れる……胸が苦しい……!」


 ルーシーの流れ込んでくるのは、フィーラの記憶だった。


 幼い頃に抱いた、絶詠の魔女への憧れ。

 ヴォルテスの甘い言葉。

 冷たい床。

 拘束される感覚。

 焼けるような痛み。

 選ばれなかった絶望。


 そして、胸の奥を黒く染め上げるほどの憎しみ。


 それは、言葉ではなかった。

 映像ですらなかった。

 痛みと、恐怖と、絶望。


 フィーラが抱えてきた感情そのものが、ルーシーの心へ直接流れ込んできていた。


「――っ!」


 胸が締めつけられる。


 頭の奥が焼けるように痛い。


 息ができない。


 見たこともないはずの光景なのに、わかってしまう。


 どれほど痛かったのか。

 どれほど苦しくて、助けを求めていたのか。


 気づけば、ルーシーの頬を大粒の涙が伝っていた。


「……はぁ、はぁ。

 フィ、フィーラさん」


 震える声が漏れる。


「う……ううっ。

 こ、こんなのっ……

 こんなのひどすぎます……!」


 ルーシーは涙を拭うことも忘れたまま、目の前の少女を優しい瞳で見つめた。


「ずっと、一人で耐えてきたんですね……」


 フィーラが、ゆっくりと顔を上げる。


 だが、その瞳にもう理性の色はなかった。


 オッドアイは焦点を失い、背後の七色のアンテナが狂ったように明滅している。


 フィーラの周囲で音が爆ぜた。


 空気そのものが軋み、ドーム状の壁がびりびりと震える。


 フィーラの唇が、意思とは関係なく震えた。


「……《デスサウンド・オーケストラ》」


 それは、先ほどまでのフィーラではなかった。


 暴走した魔素が勝手に音となって溢れ出し、フィーラ自身を中心に無差別に撒き散らされている。


「フィーラさん!

 しっかりしてください!!」


 叫びながらも、ルーシーは反射的にフルートを構える。


 返事はない。


 代わりに返ってきたのは、耳をつんざくような絶叫だった。


「うがあああああああぁ!!」


 その声だけで、音の衝撃波が床を抉り、壁を砕き、ルーシーへ襲いかかる。


「きゃあああっ!」


 ルーシーは狛犬たちに隠れるも、その圧で押し返される。


 目の前にいるのは、憎しみに狂った敵なんかではない。

 壊されて、追い詰められて、ついには自分さえ保てなくなった少女だった。


 ルーシーは震える手で涙を拭う。


 胸の奥で、怒りが燃え上がる。


 あんなに優しかった子を。

 こんなにも壊れるまで追い詰めた者たちが、許せなかった。


「……まだ幼なかったフィーラさんにあんなことをするなんて、絶対に許せません」


 荒れ狂う音圧に銀髪を揺らされながら、ルーシーは言い放った。


「もう迷いません。

 私が……あなたを助けます、フィーラさん!」


「ち、近寄るなああああああ!」


 溢れ出した音刃が床を抉り、砕けた石片が雨のように散った。


「なんて禍々しい魔素っ……!」


 狛犬たちも押し寄せる音の奔流に砕け散りそうになる。


 凄まじい圧力だった。


 少しでも気を抜けば、そのまま吹き飛ばされる。


「フィーラさんは……」


 ルーシーは衝撃に耐えながら、必死に声を張る。


「ずっと、こんな苦しい思いをしてきたんですね……!」


 蒼牙の狛犬が音刃を受け止め、紅牙の狛犬が溢れた音波を弾く。


「絶詠の魔女様も……

 あなたの苦しみを知ってしまったから、戦えなかったんですね」


「あああああああっ!!

 うるさいっ!!」


 返ってくるのは、理性を失った絶叫だけ。


 それでもルーシーは語りかけるのをやめない。


「もう大丈夫です!」


 フルートを握る手に、力がこもる。


「あなたを苦しめたものは、絶詠の魔女様がきっと止めてくれます!

 そして――フィーラさんの居場所は、私が作ります!!」


 魔素が底をつき始め、視界が揺れる。


 それでもルーシーは、震える指でフルートを構えた。


「やめろおおおおお!!

 フルートなんか吹くなああああっ!!」


 ルーシーを止めるように、音刃と音波が荒れ狂う。


 狛犬たちが必死にその奔流を防ぐ。


 だが、激しい衝撃にさらされ、蒼牙の脚にひびが入る。

 紅牙のたてがみが、魔素の粒となって散っていく。


「死ねえ!

 死ねえええっ!!

 お前も魔女も、全部全部いなくなれぇっ!!」


「フィーラさん……!」


 ルーシーは涙をにじませながら、それでも演奏をやめない。


「これが……

 私の残り全ての魔素です!!」


 震える音色が、高く高く響いていく。


「《サンダー・フェニックス》!」


 雷を纏った不死鳥が天高く舞い上がった。


「どこに撃っている!?

 馬鹿めっ! そのまま死ねええええ!」


 暴走したフィーラが叫ぶ。


 狛犬たちが、ついに砕け散った。


 魔素を使い切ったルーシーは倒れながらも、まっすぐに見上げて指を刺した。


「フィーラさん!

 ちゃんと見てください!」


 不死鳥は雷光をまといながら、ドームの天井近くで大きく翼を広げる。


「《サンダー・フェニックス》は……

 絶詠の魔女様の象徴となる魔法です!」


 ルーシーの声が、真っ直ぐに響く。


「フィーラさんならわかるはず!

 きっと、フィーラさんの心の中にも……

 今でも印象深く残っているはずです!」


「……っ、うがああっ!」


 フィーラの周囲で、音が無秩序に暴れ始めた。


 音刃が不規則に飛び、波形がぐしゃぐしゃに乱れる。


「私たちに希望と憧れを与えてくれた……

 美しく完璧な魔法が……」


「わ、わたしは……!」


 オッドアイが大きく揺れる。


 雷の不死鳥を見た瞬間、フィーラの脳裏に浮かんだのは――

 恋焦がれるほどに憧れていたアリスと、その背中をひたすら追いかけていた頃の自分だった。


 わたしは……いつから壊れてしまったのか……


「絶詠の魔女様……

 魔女様あああああっ!!」


 爆ぜるように音が弾けた。


 フィーラの体から力が抜け、そのまま眠るように床へ横たわる。


「フィーラさん!!」


 ルーシーはよろめきながら駆け寄った。


「大丈夫ですか!?

 フィーラさん!」


 すぐにフィーラを優しく抱きかかえる。


「全然……だめね……」


 フィーラは苦しげに目を細める。


「絶詠の魔女様の《サンダー・フェニックス》は……

 もっと、美しくて……

 もっと、かっこいいもの……」


「フィーラさん……

 はい! 当然です。私のなんてまだまだです!」


 ルーシーはその手を握りしめ、涙をこぼした。


「……あなたの過去を見てしまいました。

 あなたはやっぱり、悪い人なんかではありません!」


「いいえ……

 わたしは悪者よ」


 フィーラはかすかに首を振る。


「この力で好き放題、やってきたもの……」


 だが、ルーシーは大きく首を横に振った。


「まだ間に合います!」


 震える声で、必死に言い返す。


「しかも、憧れの絶詠の魔女様をこの手で殺そうとした。

 きっと魔女様は許してくれない……」


「そんなこと、ありえませんよ!」


 ルーシーは強く言い切った。


「絶詠の魔女様は、とてもお優しい方です!

 きっと、フィーラさんを救ってくださいます!」


「大丈夫よ……わたしは、もう……

 あなたに救われたから……」


 フィーラはかすかに笑う。


「……え?」


「あなたは……

 若い頃の絶詠の魔女様に、少し似てる……」


「そ、そんな! わ、私なんて……

 とんでもないですっ!」


 ルーシーは慌てて首を振る。


「わたしも……

 なりたかったなぁ……あなたみたいに……」


「なら、今から一緒に目指しましょう」


 ルーシーはフィーラの手をぎゅっと握りしめた。


「私たち二人で、憧れの絶詠の魔女様みたいな魔法使いになるんです」


「……い、今から?」


「はい!」


 ルーシーは涙を浮かべながら、それでも明るく笑った。


「遅すぎるなんてこと、ありません。

 そうです! 二人で絶詠の魔女様にお願いして、弟子にしていただきましょう!」


「あはは……」


 フィーラは弱々しく笑う。


「それも……

 悪くないわね……」


 だが、その表情はすぐに切迫したものへ変わった。


「急いで……

 始祖オリジンが完全に目覚めちゃう……」


 ルーシーの表情が変わる。


「目覚めたら、もう――」


 そこまで言って、フィーラは意識を失い、力なく目を閉じた。


「フィーラさん……!」


 ルーシーは唇を噛む。


 それから、震える足で立ち上がった。


「ノイスくんを……

 助けなきゃ……!」


 重い体を引きずるようにしながらも、ルーシーは必死に前へ進み出した。

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