七十三話 教師スコルド
「……ここは、どこだろう」
そこは冷たく、何もない場所だった。
いつからここにいるのかも、なぜここにいるのかもわからない。
(何か、大事なことを忘れている気がするけど……
まあ、いいか)
何を忘れているのかはわからない。
けれど、それが大切なもので、今も少しずつ失われていっている――そんな感覚だけはあった。
それなのに不思議と、それはもともと自分には必要のないものだったような、そんな気もする。
(心地良い感覚だ。
何もない空間に、ただゆっくりと堕ちていくみたいで)
これで、嫌だったことも、面倒だったことも、全部手放せる。
きっとそれは、自分にとって良いことのはずだった。
なのに――
わずかなノイズが、心をざわつかせる。
遠くから、微かに温もりを帯びた魔素を複数感じる。
誰かが、きっと僕のために必死で戦っている。
誰なのかは、はっきりしない。
思い出そうとするたびに、頭の奥が白く霞んだ。
それでも――わかる。
「みんなが……
来てくれているんだ」
「……あれ?
みんなって、誰だっけ」
消えかけた意識の底で、ノイスはかすかに願った。
「……忘れたく、ないのかも」
◇◇◇◇◇
――石造りの広間。
ミレイユは荒い息を吐きながら、焼けるように痛む腹を押さえていた。
《雷纏装》は、すでに解除されている。
ユミナもまた、なんとか立ち上がってはいたが、魔素はほとんど尽きかけ、全身が悲鳴を上げていた。
「よく頑張ったな、お前たち」
「先生……
なんでここに……」
ミレイユは、今にも消え入りそうな声で呟いた。
「お前たちも、ノイスも、ルーシーも、ロウも……
俺の生徒だ」
スコルドは双影を見据えたまま、低く言った。
「勝手に学園を抜け出した件については――
戻ったらきっちり処罰する」
「こんな状況で……
処罰の話なんて聞きたくなかったっしょ……」
ユミナが顔をしかめる。
「要注意人物、爆炎魔法の使い手スコルド。
それでも、僕たちの優勢は変わりません」
リオが淡々と告げる。
「スコルド先生の戦闘記録は、すでに確認済みです。
十分に対処可能と判断します」
レオもまた、感情のない声で続けた。
その直後――
二人は同時に動いた。
「凍てつく氷よ、槍となれ。
《アイス・ランス》」
リオが生み出した氷槍は、その途中で姿を消す。
「先生! あれは――」
ミレイユが言い終えるより早く、氷槍はスコルドの背後へと転送されていた。
「防げ、炎盾。
《ファイヤー・シールド》」
スコルドの背後に、お手本のように整った形の炎盾が展開される。
「いいか。
氷魔法を受けるなら、反属性の炎を合わせろ」
飛来した氷槍を溶かしながら、スコルドは低く言った。
「相性のいい魔法を選べば、少ない魔素で相殺できる」
だが、その懐にはすでにレオが瞬間移動で入り込んでいた。
「放て。雷撃」
「隆起せよ、土壁。
《アース・ウォール》」
スコルドの足元から石床がせり上がり、土壁となって雷撃を遮る。
「魔素を一から練るよりも、足場に石床があるならそれを使え。
その方が魔素を節約できるし、詠唱も短く済む」
「……っ」
レオがわずかに目を見開く。
土壁が崩れると同時に、スコルドはレオに杖を向ける。
「放て、爆炎弾。
《ブレイズ・ボール》」
杖から魔法が放たれるよりも早く、レオの姿が掻き消えた。
だがスコルドは慌てることなく、放つ方向を瞬時に変えて、何もない空間へ爆炎を撃ち放つ。
「ちょ! 先生!
どこに撃ってるっしょ!?」
ユミナが思わず声を上げる。
だが――その爆炎の軌道上へ、瞬間移動したレオが現れた。
――バァン!
「……っ!」
直撃を受けたレオは、左腕を押さえてよろめく。
「瞬間移動も無敵ではない」
スコルドは杖を下ろさず、淡々と告げる。
「詠唱がない魔法も、必ず予備動作が発生する。
移動先には先に魔素の流れが生まれている」
双影を見据えたまま、さらに続けた。
「しっかり魔素の動きを意識すれば、
移動先は簡単に読めるはずだ」
鋭く細めた目で、ミレイユを厳しく見据える。
「やば……先生。ちょっとカッコいいかも。
今本気で惚れそう」
ミレイユが熱のこもった視線でスコルドを見つめ返す。
「ちょ、ミレイユ! よく見るっしょ!
相手はあの“非道のスコルド”っしょ!」
ユミナが慌てて、ミレイユの目の前でぶんぶんと手を振る。
「お前らな……」
スコルドは呆れたように眉をひそめた。
「これは全くの予想外です。
スコルド先生の戦闘力は、記録されていたデータを上回っています」
リオが淡々と杖を構える。
「スコルド先生の脅威度を更新する必要があります」
レオはリオの隣へ瞬間移動すると、直撃を受けた左腕の動きを確かめるように軽く握った。
「……何故、お前たちは戦う?
何のためにノイスを攫った?」
スコルドはじりじりと距離を詰めながら、低く問いかける。
「質問に回答します」
リオが一切の迷いなく答えた。
「僕たちが戦う理由は、そう指示を受けているからです」
「ここでボスの邪魔をする者を排除することが、
僕たちの使命ですから」
レオも感情のない声で続ける。
「それと、始祖を攫った理由については回答できません」
「僕たちの使命に必要のないことなので、
その詳細については、確認しておりません」
「僕たちは元々、始祖と同等の存在になるために作られました。
ですが、欠陥があり、その役目を果たせませんでした」
「ですから、本物を攫うことで、その役目を果たします」
スコルドの目が、わずかに険しくなる。
「……それでいいのか?
お前たちは」
「それでいいかどうかは、僕たちでは判断できません」
リオが即答した。
「僕たちが何をするかは、
ボスが判断することなので」
「……そうか」
スコルドは深く息を吐くように、わずかに目を伏せた。
「ちゃんと教えてくれる大人が、いなかったんだな」
その視線には、わずかな哀れみが滲んでいた。
「何を言っているのか、理解できません」
「教わらなくても、僕たちは十分に戦えます」
「いや、その考え方は間違っている」
スコルドはきっぱりと言い切る。
「魔法は、使い方を誤れば簡単に命を奪う。
個人が持つには、過ぎた力なんだ」
スコルドは静かに言った。
「だからこそ、学ばなければならない。
魔法を扱う者として――
その正しい使い方を」
「……先生」
「そんなことまで考えていたなんて……」
ミレイユとユミナが思わず息を呑む。
「まだお前たちは若い」
スコルドは双子をまっすぐ見据えた。
「正しい魔法の使い方を学び、
これからは、正しい道を歩め」
その言葉に――
リオとレオの無機質な瞳が、ほんのわずかに揺らいだように見えた。




