七十二話 本当の名
ルーシーの『早く!!』という叫びが、アリスの胸に深く刺さっていた。
風鳥の背に乗りながらも、アリスの指先はわずかに震えていた。
「ルーシーちゃんがあんなに必死になるなんて……
ノイスってば、そんなに愛されていたのね」
ノイスを本気で想ってくれている人がいる。
その事実が嬉しかった。
「そう。私の罪は、ノイスを助け出してから償えばいい。
だからお願い、みんなは無事でいて……」
アリスはぎゅっとフルートを握り締めた。
「ヴォルテス……逃がさないわ」
風鳥が通路を滑るように翔け抜ける。
入り組んだ通路をいくつも越え、その先へ、その先へと進む。
やがて、鼻をつく匂いが変わった。
鉄と油。
焼けた魔石のような、乾いた臭い。
「……この先ね」
風鳥が少しずつ減速する。
アリスが足を踏み入れたのは、装甲と魔道具が並ぶ施設だった。
壁際には分解された装甲板が立てかけられ、金属製の作業台には工具や魔石、ケーブルが無造作に散らばっている。
自立型魔道具がいくつも並び、部屋全体に無機質な威圧感を漂わせていた。
「……ここは――」
――ズシャンッ!
頭上から、巨大な影が落ちてきた。
「っ!」
危機を察知したアリスは、大きく後方へと跳んだ。
鋭い一撃が床を抉る。
直撃は避けた。
だが、振り下ろされた鉤爪の切っ先が、アリスの腕を浅く掠めていた。
「あちゃあ、気配消してたのにな。
これで殺せると思ったんだけどな」
軽い口調とは裏腹に、その声は冷え切っていた。
着地したアリスは、腕に走る痛みに目をやる。
「……魔素で覆っていたのに」
そこには、痛々しい爪痕が赤く刻まれていた。
傷口を確かめながら、アリスは小さく息を呑む。
そして視線を上げる。
目の前に立っていたのは、武装した一人の少女だった。
青いショートカットの髪。
アスカナティア魔法学園の制服。
その姿のまま、殺気を宿した瞳でアリスを静かに見据えている。
異形の魔素は感じない。
「あなた……
欠陥魔人じゃないわね」
アリスはフルートを構え直す。
「学園の生徒さん?
悪いことは言わないわ。怪我をする前に退きなさい」
「酷いなぁ」
少女は淡々と言った。
「僕はあんたを殺すためだけに、ずっと待ってたのに」
少女――ミリアの声には、感情を押し殺した硬さだけがあった。
アリスはゆっくりと目を細める。
「お願い。もう時間がないの。
遊びで済まないわ」
フルートを持つ手に、静かに力がこもる。
「ねえ、ヴォルテスはどこ?」
ミリアは答えない。
ただ一歩だけ、アリスの進路を塞ぐように前へ出た。
それだけで十分だった。
アリスは小さく息を吐く。
「そう……
悪いけど、手加減はできないわよ」
――グポォン。
起動音と共に、アリスを取り囲むように配置されていた自立型魔道具が、一斉に赤く起動した。
赤く光る無数の砲口がゆっくりと向けられる。
「これはね……対魔女用に作った、僕の子供たちだよ」
ミリアは感情の薄い声で告げた。
「これで死んでくれると……嬉しいなっ!」
自立型魔道具たちの照準が、ぴたりとアリスへ向けられる。
そして、自立型魔道具が一斉に火を噴いた。
――ズドドドドドドドドッ!!
無数の魔導弾が、四方八方からアリスへ殺到する。
逃げ場を塞ぐように重なり合う砲火。
並の魔法使いなら、防ぐことのできない物量。
だが、アリスは眉ひとつ動かさない。
フルートを唇へ運び、滑らかに音を紡ぐ。
「《アイス・タートル》」
澄んだ音色に応じて、アリスの周囲に巨大な氷亀が次々と現れた。
甲羅のように分厚い氷壁が幾重にも重なり、飛来した魔導弾を受け止めていく。
――ガガガガガガッ!!
激突した弾丸が氷を削り、白い霧を撒き散らす。
だが、それで終わりではなかった。
アリスの演奏は、途切れない。
「《ファイヤー・フェニックス》」
炎の不死鳥がアリスの背後から大きく羽ばたいた。
紅蓮の翼が広がり、そのまま天高く舞い上がる。
舞い散った火の粉が、自立型魔道具へと降り注いだ。
――ボオォォォッ!!
炎に触れた自立型魔道具が、次々と焼かれ、沈黙していく。
氷亀が受け、炎の不死鳥が焼き払い、音色がすべてを制御していた。
砲火の嵐の中で、たった一人で戦場そのものを支配しているかのようだった。
ミリアは装備型魔道具の鉤爪で飛び散る炎を振り払うと、思わず小さく呟く。
「こんなの……反則じゃないか」
あまりの迫力に後退りするミリア。
「それでも……
あんたなんかにユーリスは絶対渡さない!」
「ユーリス……何のこと?」
アリスの眉がわずかにひそむ。
「知らないとは言わせないよ!」
ミリアが睨みつける。
「あんたが勝手にノイス・ノーチラスなんて名前をつけた、あの子のことだよ!」
「――っ」
その言葉に、アリスの呼吸が止まった。
この少女は、はっきりとその名を口にした。
アリスが知らなかった、ノイスの本当の名前を。
「ユーリス……
それが、ノイスの本当の名前……だというの?」
胸の奥が大きく脈打つ。
ノイス。
それは本当の名がわからぬまま、アリスが与えた名だった。
かつて失った仲間の魔法使いの名を、あの子に重ねて。
「そうだよ。
ユーリスは、優しくて強い子だった……
僕の大事な人だったんだ!」
ミリアの声が鋭く響く。
「それをあんたが奪って――ぶち壊したんだよ!
ガーナウスで!!」
アリスの瞳が揺れる。
「知らないとでも思ってるんでしょ?」
ミリアは一歩踏み込み、睨みつけた。
「僕は見てたんだ。
狂素病に侵されて苦しむユーリスに、あんたが得体の知れない魔法を使うところを!」
「あなたは……
あの時、あの戦場にいたっていうの……?」
「ああ、そうだよ!」
ミリアの声が怒りで震える。
「ユーリスはあの時、殺されたとばかり思ってた。
なのに、生きていた。
あんたに連れ去られて、実験の道具にされて……
それも、記憶まで奪われて……!」
拳を強く握りしめる。
「人の心はないのかよ!
あんたには!」
「違う……!
あの時は、ああするしかなかったの……!
そうしなければ、あの子は――」
「うるさいっ!!」
ミリアの叫びが、メンテナンスルームに鋭く反響した。
「僕が学園でユーリスと再会した時……
彼には、僕の記憶がまるでなかった」
その言葉には、怒りだけではなく、深い悲しみが滲んでいた。
「それがどれだけ悲しくて、辛いことか……
あんたみたいな魔女にはわからないんでしょ!」
赤く光る魔石が、ミリアの腕で低く唸る。
「ユーリスを、ただの実験道具としか見ていない……
あんたには!!」
「ノイスを実験道具としか見ていないなんて、そんなこと……」
アリスは反論しようとする。
だが、ミリアの必死な訴えに押され、その声は弱々しく揺らいだ。
「あんたがどれだけ規格外に強くても……
僕は、絶対にあんたなんかに負けない!」
涙を堪えたまま顔を歪め、ミリアはアリスを真っ直ぐに睨みつけた。
「今度こそ……
ユーリスを奪わせないっ!」
叫びと同時に、ミリアは床を蹴った。
装備型魔道具の魔石が赤く脈打ち、その小さな身体を弾丸のように前へ押し出す。
一息で間合いを詰めたミリアは、鉤爪を大きく振りかぶった。




