七十話 嫉妬心
ルキウスに背中を押され、ルーシーはさらに奥へと進んでいた。
目指すのは、ノイス。
そして、先にいるはずの絶詠の魔女アリス。
「お願い。私を導いて……
《ウィンド・キャット》」
通路は複雑に入り組んでいたが、風獣は迷うことなく、アリスの魔素を辿るように先へ先へと駆けていく。
やがて、ルーシーの前に分厚い扉が現れた。
ルーシーは一瞬の迷いもなく、その重い扉へ手をかける。
扉の向こうは、音が反響するドーム状の大部屋だった。
広い。
高い天井は半球状に湾曲し、わずかな足音すら幾重にも反響して返ってくる。
まるで、この部屋そのものが音を増幅するために作られているかのようだった。
「……っ!」
ルーシーは息を呑んだ。
視線の先。
床に膝をつき、今にも倒れそうになっているのは――虚ろな目をした絶詠の魔女アリス。
その喉元へ、拡声器型杖がぴたりと突きつけられていた。
杖を握る少女――フィーラの肩は激しく上下し、そのオッドアイには憎しみと狂気が入り混じっている。
「やっと……
やっと、この時が来たんだ……」
小さく震える声が、ドーム全体に不気味に響き渡る。
「絶詠の魔女……
あんたを殺してやる……!」
「絶詠の魔女様っ!」
思わず、ルーシーの口から叫びがこぼれた。
その声に、フィーラの視線がぎろりと向く。
「……誰だ? お前は」
血走ったオッドアイが、ルーシーを鋭く射抜いた。
「ル、ルーシーちゃん……?」
床に膝をついたまま、アリスがかすれた声で呟く。
「絶詠の魔女様が……負けるなんて……
そんなことが……」
ルーシーは唇を震わせた。
自分と変わらないくらいの少女の前で、アリスは傷つき、膝をつき、虚ろな目のまま動かない。
だが、ルーシーはすぐに違和感を覚えた。
これはやられたのではない。
アリスが――抵抗していないのだと。
フィーラは拡声器型の杖を、さらにアリスの喉元へ押しつける。
「少し遅かったねえ!
この嘘つき魔女は――ここで死ぬんだよ!」
肩を震わせながら笑うその顔には、喜びと憎しみがぐちゃぐちゃに入り混じっていた。
「フィーラちゃん……」
「わたしの名を、気安く呼ぶな!
死ねぇ!」
「そんなことさせませんっ!」
ルーシーはフルートを構えながら、前へ駆け出す。
間に合わない。
フィーラの杖には、すでに魔素が集まり始めている。
アリスも抵抗する気配がない。
――だが、
「あんたのことなんか……
殺したいほど大っ嫌いなはずなのに!」
フィーラがあと一歩のところで動きが止まり、顔を歪める。
あとは魔素を放つだけ。
それだけでアリスの首を飛ばせる。
だが、その一手に踏み切れない。
その一瞬の隙を逃さず、ルーシーの風獣がフィーラへとぶつかり、押し出す。
「……っ!」
吹き飛ばされたフィーラを横目に、ルーシーはアリスを庇うように前へ立った。
「絶詠の魔女様!
いったい何をしているんですか!」
その叫びに、アリスがかすかに視線を動かした。
「ルーシーちゃん……ごめんね」
弱々しい声だった。
「もういいの……
これは、私がしたことへの報いなの……」
「……ノイスくんはどうなるんですか」
「……え?」
ルーシーの小さな声をアリスが聞き返す。
「絶詠の魔女様がここで止まってしまったら、ノイスくんはどうなるんですか!!」
ルーシーは思わず声を張り上げた。
自分でも驚くほど強い声だった。
「それでも……私には……もう……」
アリスの目が、わずかに揺れる。
「しっかりしてください!
ノイスくんを助けるために、今みんなが命かけて、踏ん張っているんです!」
「え……」
アリスの唇が震える。
「ここに来ている全員があなたを信じて、ノイスくんを任せたんです……
その期待に応えてください!」
「それでも……
フィーラちゃんに手を上げるなんて……
私には……」
ルーシーはぎゅっとフルートを握りしめた。
「わかりました。
では……絶詠の魔女様は、今すぐノイスくんのところへ向かってください」
震える足を押さえ込みながら、さらに一歩前へ出る。
「あなたが彼女と戦えないのなら――
私がお相手いたします」
「……ルーシーちゃん」
その言葉に、フィーラの禍々しい魔素が揺れる。
溢れ出した魔素が、肌を刺すような殺気を放つ。
それでも、ここで引くわけにはいかなかった。
フィーラのオッドアイが細く歪む。
「……お前みたいな雑魚が、わたしの相手になるとでも?」
不気味に反響する声。
ルーシーは喉の奥の震えを押し殺し、フィーラをまっすぐ見返した。
「どんな手を使ったのかはわかりません。
でも、絶詠の魔女様が戦えないというのなら――私があなたをここで止めます」
短く、けれどはっきりと言い切る。
「絶詠の魔女様……
早く行ってください」
「……でも」
「早く!!」
迫真に満ちたルーシーの声に押され、アリスはついに立ち上がった。
「馬鹿じゃないの?
行かせるわけ、ないでしょ!」
フィーラが拡声器型の杖へ軽くハミングする。
「《サウンド・スラッシュ》」
見えない音刃が放たれる。
だが、その瞬間。
ルーシーのフルートが鋭く鳴った。
「《ウィンド・ホーク》」
風鳥が飛び出し、音刃を真正面からかき消す。
「その魔法に……そのフルート……
魔女の真似事なんてしやがって!」
フィーラは苛立ったように足を小刻みに揺らしながら、再びルーシーを睨みつけた。
ルーシーはフィーラから目を逸らさないまま、アリスへ言葉を向けた。
「あなたは、報いを受けるような悪人ではないと……
私はわかっていますから」
震える声を、必死に押さえ込む。
「だから……お願いします。
行ってください」
「……ルーシーちゃん」
アリスはほんの一瞬だけ迷い、それから前へ向き直ると、後ろからそっとルーシーの頭を撫でた。
「はわわ……ぜ、絶詠の魔女様が私の頭を――」
その一言と、頭に触れた優しい手が、ルーシーの張り詰めた心を一瞬で緩めた。
「背中を押してくれてありがとうね。
でも、無理はしないで。私がすぐにノイスを連れて戻るから」
そう言うと、アリスはフルートを軽く鳴らす。
「《ウィンド・ホーク》」
風鳥が現れ、アリスはその背へと軽やかに跨った。
「絶詠の魔女様に頭を撫でていただいたんです……!」
幸せを噛みしめるように、ふにゃりと頬が緩む。
「今の私は、人生で一番強いです!」
アリスはその勢いに少しだけ目を丸くしたあと、優しく微笑んだ。
「頼もしいわね。ルーシーちゃん」
「はい! ここは私にお任せください!」
アリスは振り返らずに、そのまま奥へと飛んでいく。
「お前……本当に、気に食わないよ!」
フィーラは飛び立っていくアリスには目もくれず、苛立つようにルーシーを睨みつけた。
「魔女の真似事をして……
魔女と楽しそうに話して……
頭なんか撫でてもらって……!」
オッドアイが、どす黒い憎悪に歪む。
「許せない!!」
その叫びと同時に、甲高い歌声が爆ぜた。
部屋の空気が悲鳴を上げたように震える。
フィーラの中にあるのは、絶詠の魔女アリスへの単純な憎しみだけではなかった。
裏切られた。
見捨てられた。
憧れていたものすべてを、踏みにじられた。
殺したいほど憎い。
そう思っていたはずなのに——
いざ喉元に杖を突きつけても、最後の一撃を放つことができなかった。
アリスは、かつて心から憧れた存在として、心の奥底に残っていた。
そして、そのアリスと当たり前のように言葉を交わし、頭を撫でられ、嬉しそうに笑っている少女がいる。
自分とそう変わらない年頃の少女。
その姿が、たまらなく許せなかった。
自分が欲しかったものを、目の前の少女は当たり前のように受け取っている。
自分がどれだけ願い、どれだけ待ち続けても手に入らなかったものを、目の前の少女は何の苦しみも知らないような顔で、当然のように手にしている。
怒り。
憧れ。
悔しさ。
そして、どうしようもなく醜い嫉妬。
そのすべてがぐちゃぐちゃに絡まり合い、最後にはただ一つの感情へと変わっていた。
――許せない。
ルーシーという存在そのものが、たまらなく腹立たしかった。




