六十七話 這い寄る闇
――薄暗く、過剰な装飾に満ちた部屋。
どろり、と。
クレインの全身から溢れ出した闇は、止まることなく広がり続けていた。
床を這い、壁を舐め、やがて天井近くで不気味な渦を巻く。
ただそこに立っているだけで、心の奥底まで黒く塗り潰されていくような圧迫感があった。
ルーシーはフルートを構えたまま、目の前の闇を真っ直ぐに見据える。
だが、その闇の圧に触れた瞬間、ルーシーは悟っていた。
――今のクレインは、自分より遥かに強い。
だが、クレインが望んでいるのは、ただ勝つことではない。
相手を辱め、屈服させること。
そのために、敵である自分の命すら助けた。
それが、クレイン・オルドゥストという男なのだ。
ならば――そこに勝機はある。
どれほど追い詰められようと、心だけは折られない。
それができる限り、この勝負は負けない。
闇の向こうで、クレインの口元がぐにゃりと歪む。
「いいなぁ、実力差を悟って焦っている……いい顔だ」
低く、湿った声。
「そうだ。もっとだ……もっと怯えろ、ルーシー・ウィンディ」
闇が脈打つように膨れ上がる。
「お前がここへ来たことを、泣きながら後悔するまで追い詰めてやるからな」
クレインは楽しそうに顔を歪めた。
ルーシーは一度だけ息を吸い、静かに吐いた。
震えそうになる指先を、フルートを握る力で押さえ込む。
「……それだけは、あり得ません」
その声音に、迷いはなかった。
クレインの眉が、わずかに動く。
「私がノイスくんを助けに来たことを、後悔することなど決してありませんから」
ルーシーの瞳は揺るがない。
「たとえ、この命を落とすことになったとしても――
私は、絶対に後悔しません」
その言葉に、クレインの表情がすっと冷えた。
「……ほう」
闇が、さらに重く沈む。
「果たして、そんな綺麗事がいつまで言えるかな」
クレインは勢いよく杖をルーシーへ向けた。
「暗黒よ――撃ち抜け!
《ダークネス・バレット》」
ルーシーは短くフルートを鳴らす。
「《ファイヤー・スワロー》」
小さな炎鳥が闇弾へと飛び込み、弾くようにぶつかった。
だが――
ぶつかった瞬間、炎鳥は悲鳴のような鳴き声を上げ、じわじわと呑み込まれるように消滅する。
「闇魔法は、どんな魔法でも呑み込んでしまう」
「……本当に、悪趣味な魔法ですね」
ルーシーは表情を崩さぬまま、続けてフルートを奏でた。
「《ウォーター・タイガー》」
大きな水獣が姿を現し、ルーシーを守るようにその前へ立ち塞がる。
「目障りな魔法だ」
クレインの目が細まった。
「暗黒よ――撃ち抜け!
《ダークネス・バレット》」
闇弾が水獣めがけて乱発される。
だが、水獣は左右へ大きく跳躍しながら闇弾をかわし続け、そのままクレインへと一気に距離を詰めた。
「……首輪をつけてやらんとな」
クレインが口元を歪める。
「暗黒よ――絡みつき、縛れ!
《ダークネス・チェイン》」
放たれた闇の鎖は、水獣の首へ巻きつく。
首を締め上げられた水獣は、苦しげに暴れ、床を爪で掻くようにもがいた。
巨体は次第に輪郭を失い、水飛沫となって崩れていく。
「《ウォーター・キャット》」
だが、その瞬間。
ルーシーの奏でた次の音に応じて、崩れた水は三体の小さな水獣へと再構築された。
水獣たちは床を滑るように駆け抜け、別々の軌道から一斉にクレインへ襲いかかる。
「無駄な小細工を……!」
クレインが舌打ちする。
「暗黒よ――穿ち、呑み込め!
《ダークネス・ホール》」
クレインの前方に、ぽっかりと闇穴が開く。
別々の軌道で散っていた水獣たちは、その吸引に抗えず、次々と闇へ引きずり込まれていった。
「闇に……呑まれていく!」
ルーシーは息を呑む。
だが、その瞳はまだ諦めていなかった。
「頑張って……
《ウォーター・キャット》!」
その想いに応えるように、一体の水獣が床へ爪を立てるようにして踏ん張った。
小さな体を震わせながら、闇穴の吸引に必死に耐えている。
「こ、こいつ……!
抗うか! そのまま呑み込んでやるさ!」
クレインは顔を歪め、闇穴の吸引をさらに強めた。
ついに水獣は床から引き剥がされ、そのまま闇穴へ吸い込まれていく。
――だが、寸前。
水獣はばねのように身を縮め、一気に跳ねた。
「なっ――!?」
闇穴の縁をかすめるように飛び上がった水獣は、そのままクレインの頭上へと突っ込み――
――バシャン!
派手な水音とともに弾けた。
「ぶっ……!?」
クレインの髪がずぶ濡れになり、その衝撃で身体がわずかによろめく。
ルーシーの脳裏に、ひとつの考えがよぎった。
(私の魔法なら、闇魔法に呑まれる直前で軌道を変えて、直接クレインさんを叩ける)
闇そのものとぶつければ魔法は呑み込まれる。
けれど、直前で軌道をずらし、本体だけを狙えば通る。
そう確信したルーシーは、畳みかけるようにフルートを奏でた。
美しく長い音色に呼応するように、次々と魔法が湧き上がる。
「《ウィンド・ホーク》
《ファイヤー・コンドル》
《ウォーター・タイガー》」
風鳥、炎鳥、水獣。
三つの魔法が別々の軌道を描きながら、よろめくクレインへ一直線に迫る。
だが、クレインは濡れた髪をかき上げると、冷たく目を細めた。
「暗黒よ――荒れ狂い、すべてを薙ぎ払え……
《ダークネス・ハリケーン》」
クレインの周囲に闇の暴風が巻き起こった。
まるで黒い台風のように荒れ狂う闇が、三つの魔法をまとめて呑み込み、粉々に掻き消していく。
風鳥は羽をもがれ、炎鳥は二つに裂かれ、水獣は形を保てぬまま霧散した。
ルーシーの魔法は、跡形もなく消えた。
再構築する魔素すら残されていなかった。
「そんな……!」
思わず、ルーシーの喉から声が漏れる。
クレインの目には、先ほどまでの愉悦とは別の色が宿っていた。
苛立ち。
いや、それ以上に、矜持を傷つけられた怒りだった。
「……水を、かけたな」
低い声が、闇の中で重く響く。
ルーシーは息を呑む。
クレインはずぶ濡れになった髪を乱暴に払うと、口元をひくつかせた。
「この私に……」
闇が、ずるりと床を這う。
「よくも、こんな真似をしてくれたな……
小娘が……!」
怒気に呼応するように、クレインの周囲の闇がさらに膨れ上がる。
「終焉の闇よ――泥濘となり、足掻く者を呑み込め!
《エンドダークネス・マーシュ》」
どろりどろり、と。
クレインの足元から広がった闇が、床一面を侵食するように這い始めた。
「《ウィンド・タイガー》
《ファイヤー・キャット》」
ルーシーの音色に応じて、風獣と炎獣が闇沼を振り払うように飛び出る。
だが――
――シュ。
深い闇に少し触れた瞬間、二体の魔法は跡形もなく掻き消えた。
呑み込まれた、というより。
最初から存在しなかったかのように、消された。
「やはり魔素すら……残らない!」
ルーシーの顔が強張る。
再構築のための残滓すらない。
この闇に呑まれた魔法は、魔素ごと完全に消滅している。
その理解が追いついた時には、すでに遅かった。
「きゃっ!」
ルーシーの足が、広がってきた闇沼に沈み込む。
底なし沼のような感触が、足首から這い上がってきた。
「引き寄せろ」
クレインが杖を振るう。
闇沼が脈打つようにうねり、足を取られたルーシーの身体を、そのままクレインの方へ引きずっていく。
「くっ……!」
踏ん張ろうとしても、足が抜けない。
足は闇に埋まったまま、クレインの目の前まで引き寄せられる。
急いでフルートに口をつけるも、クレインの詠唱の方が早い。
「暗黒よ――その手で掴み、握り潰せ……
《ダークネス・グラスプ》」
深い闇の沼から、複数の手が伸びた。
「……っ!」
闇手はルーシーの手首と足首に絡みつくように掴み、そのまま締め上げる。
まるで自由そのものを奪うような拘束だった。
フルートを握る手に力が入らない。
「……っ、あ、ああ」
愛用のフルートが指先から滑り落ち、硬い床へ乾いた音を立てて転がった。
「これでお前は無力だ……
吊し上げろ」
闇手は一度拘束を解いたかと思うと、今度は足首を強く掴み直し、そのままルーシーの身体を宙へ引き上げた。
「きゃっ……!」
身体が強引にひっくり返され、成す術なく宙吊りにされた。
スカートがふわりと捲れ上がり、ルーシーは咄嗟に手で裾を押さえた。
「ゲームオーバーだ……ルーシー・ウィンディ」
羞恥に耐えるルーシーを、クレインは舐め回すように見つめた。
そして、愉悦に歪んだ笑みを浮かべた。




