六十三話 哀歌の記憶
アリスはフィーラの精神干渉を受けて、不思議な空間へと誘われていた。
「フィーラ。いい加減にしなさい!」
「待ってよ、お母さん! すぐ行くから!」
水色の髪をした幼い少女が、何かに夢中になったまま、母親に向かって駄々をこねていた。
「……フィーラ?
この子……さっきの欠陥魔人の……?」
アリスが目の前で見せられているのは、幼い頃のフィーラの姿だった。
その幼きフィーラの視線の先には、小さな村の古びた掲示板があった。
そこに貼られていたのは――絶詠の魔女についての記事。
『平民出身でありながら、魔法協会の頂点へ――』
『史上最速で一等級魔法使いへ昇格』
『詠唱を超えた魔女』
フィーラはその記事を、目を輝かせながら宝物のように見つめていた。
「すごい……かっこいい……」
夢中になって零れた声は、吐息のようにかすかだ。
「平民でも……
こんなふうになれるんだ……」
その瞳に宿っているのは、混じりけのない憧れだった。
「わたしも、こんな風になれるかな……
ああ、絶詠の魔女様ぁ……素敵」
フィーラは手を胸の前で組み、うっとりと掲示板を見つめ続ける。
アリスは、貴族でも特別な血筋でもなかった。
ただ圧倒的な魔法の才だけで、魔法界の頂点へと登り詰めた存在だった。
そしてフィーラは、そんなアリスに完全に心を奪われていた。
「……どういうことなの?」
アリスは小さく呟く。
「あの子は私のファンだったの?
それとも、これは作り物の幻?」
だが、アリスはすぐに目を細めた。
「でも、今のあの子は私のことを……」
あの時の、憎悪に歪んだ瞳。
目の前の少女と、あまりにもかけ離れている。
その違和感に、アリスは言葉を失った。
「ふはは……」
背後から、くぐもった笑い声が響く。
「魔女よ。それは正真正銘、哀歌の――過去の記憶だ」
「ヴォルテス……!」
その声とともに、精神世界の中へヴォルテスの姿が現れた。
アリスは反射的に身構える。
「ふははは。無駄だ、魔女」
ヴォルテスは愉しげに笑う。
「ここはフィーラが生んだ精神の領域。
我々も精神体である以上、魔法も干渉もできはしない」
「あの子の過去を見世物にするなんて……
なんて悪趣味なの」
アリスが冷たく言い放つ。
「見世物などではない」
ヴォルテスは口元を歪めた。
「見せられている私たちには、どうこうすることはできないのだ。
ただ――彼女の悲痛な叫びを聞かされているだけ」
「……悲痛な叫び?」
「ふん。見ていればわかる」
アリスは視線を、幼いフィーラへと戻した。
「ねえ、お母さん!
これ、絶詠の魔女様の魔法フルートのレプリカ! 欲しい!」
「フィーラ。あまり我儘を言わないでちょうだい」
そのやり取りと、母親とフィーラの質素な身なりだけで、彼女たちの暮らしが裕福ではないことはすぐに分かった。
「絶詠の魔女様……」
フィーラは、自分で一生懸命削ったのだろう、ぼこぼことした木片をフルートに見立てて、楽しそうにアリスの真似をしていた。
そして、その小さな手の中で宝物のように大事に握りしめていたのは――アリスの小さなマスコットキーホルダーだった。
「ふはは……健気なものだな、哀歌よ」
「……黙ってて」
下卑た笑みを浮かべるヴォルテスに、アリスは苛立ちを露わにした。
そして、場面が揺らぐ。
次に映ったのは、ざわめく人々の背中だった。
『絶詠の魔女、追放』
『禁忌に触れた魔女、ついに失墜』
『魔法協会より永久追放』
掲示板を見つめたまま、フィーラは立ち尽くしていた。
「……うそ」
小さな声が震える。
「そんなの……うそだよね……?」
目を擦るようにしながら、何度も何度も小さな文字を読み返している。
だが、書かれている内容は変わらない。
フィーラの瞳から、少しずつ光が失われていった。
「邪魔だよ、ガキ!」
「……わっ」
掲示板へ押し寄せた大柄な男に肩をぶつけられ、フィーラの小さな体がよろめく。
「フィーラちゃん……」
思わず、アリスの口から声が漏れた。
「ああ、絶詠の魔女様。
わたしは魔法協会に入って、いつかご一緒するために……魔法の勉強を頑張ってきたのに……」
今にも消え入りそうな、フィーラの声。
「これから何を目指して頑張ればいいのですか……」
目に涙を浮かべながらも、祈るように手を合わせるフィーラ。
その呟きに、アリスは居た堪れず目を逸らした。
「ごめんなさいね……」
「目を背けるなよ、魔女よ。
これからが良いところなのだ」
ヴォルテスの声が、冷たく響く。
景色が、再び大きく歪んだ。
次に映ったのは、少し成長したフィーラの姿だった。
フルートを奏でながら、一人で魔法の練習をしている。
「絶詠の魔女様が追放されてしまったのは……
きっと何かの間違い……。わたしにはわかる」
それは独り言というより、自分自身に言い聞かせるような声だった。
「だから……
わたしが魔法協会に入って、絶詠の魔女様の冤罪を証明するの!」
フィーラの瞳には、再び強い光が宿っていた。
「……そんなふうに、思ってくれていたのね」
アリスはそっと呟く。
だが――場面は変わる。
「悪いけれど……
あなたに、魔法の道へ進めるほどの才能はないわ」
それは、フィーラの母親の申し訳なさそうな声だった。
「そ、そんなことないよ……お母さん」
フィーラは必死に首を振る。
「ほら……炎だって出せるようになったんだ」
フルートの澄んだ音色に合わせて、小さな炎がぽっと灯る。
それは紛れもなく、フィーラが努力を重ねて辿り着いた成果だった。
けれど母親は、悲しそうに目を伏せる。
「その小さな炎では、魔法の道へ進むのは難しいのよ。
お父さんも、お母さんも魔法が使えないから……
フィーラにも、きっと無理なのよ」
震える声で、何度も言った。
「ごめんなさいね。
本当にごめんなさい、フィーラ」
「そんな……謝らないでよ……お母さん」
フィーラの大きな瞳に、涙がいっぱいに溜まる。
「絶詠の魔女様は、両親とも魔法を使えなかったんだよ。
だから……そんなこと、関係ないんだもん……」
声は震えていた。
それでも――最後まで、憧れを手放そうとはしなかった。
しかし、フィーラは涙をこぼしながら家を飛び出した。
「フィーラ!」
母の呼ぶ声も届かぬままに――
遅くまでフィーラは家に戻らずにいた。
外は日が落ち、暗くなっている。
「もうそろそろ……帰らなきゃ……」
そんなうつむくフィーラの前に、一人の男が寄ってくる。
今よりも少し若いヴォルテス。
「おじさん……だれ?」
「私は、魔法協会の会長ヴォルテスだ」
「ええ!? ま、魔法協会の会長様!?」
フィーラは目を丸くした。
「ええと……その。
絶詠の魔女様が追放されたのは、きっと何かの間違いなんです!
追放を取り消してください!」
フィーラの口から咄嗟に飛び出したのは、自分のことではなく、魔女の追放を案じる言葉だった。
「私もそう思っている」
ヴォルテスは静かに頷く。
「魔女の研究は、正しかった」
「では追放は――!」
フィーラの表情が、ぱっと明るくなる。
その瞬間を見計らったように、ヴォルテスは甘く静かな声で続けた。
「しかし、彼女の正しさは理解されなかった。
それは、実に惜しいことだ」
「理解されなかった……ですか?」
首を傾げるフィーラ。
「そうだ。
だから、君自身がその身で証明してみないか?
「わたしが……?」
「そうだ」
ヴォルテスは穏やかに微笑む。
「魔女の研究――魔素構造の書き換えを、その身で受けるのだ。
君が成功すれば、絶詠の魔女の正しさも証明される」
「魔素構造の……書き換え……?」
「しかもうまくいけば、君は絶詠の魔女のような立派な魔法使いになれる」
その声音は、あまりにも優しかった。
「絶詠の魔女も、きっとそれを望んでいるはずだ」
フィーラは、はっと顔を上げた。
泣きはらした瞳の奥に、もう一度光が宿る。
「……こんな魔法がろくに使えないわたしでも、絶詠の魔女様のようになれるの?」
「ああ」
ヴォルテスは優しく微笑み、フィーラの手を取った。
「ヴォルテス!!
あなた……なんてことを言うの!」
アリスは感情を剥き出しにして、ヴォルテスへ掴みかかった。
だが、その手は何の手応えもなく、すり抜ける。
「……っ!」
「落ち着くんだ、魔女よ」
ヴォルテスは愉快そうに口元を歪めた。
「私は、嘘は言っていないではないか」
「こんな子供に……!
騙すようなことをして!」
「子供の時でないと適応しないのだからな。
それも君の研究が示したことだろう」
「……っ。ダメよ、フィーラちゃん!
ヴォルテスなんかの言うことを聞いては――!」
アリスの胸に、嫌なものが走る。
「お願い……お家に戻って……!」
思わず声を上げる。
だが、その声は届かない。
これは過去であり、
すでに起きてしまった記憶。
そして――さらに景色が暗転した。




